おまけ

Postscript

 ナナと別れたあの日から、俺は呆けたように過ごしていた。

 幸い金だけはあったから、住処を移し、日々本を読み、機械を弄り。だが、食事も睡眠も何もかもがおろそかで。まるで抜け殻のようだった。

 後悔、罪悪感、己に対する嫌悪感。違うんだ。そんなもの湧かなかった。そんな己をとんだクズ野郎だと嘲ることもできずに。

 ただただ、毎日呼吸するだけの日々だった。

 そんな時に、ナナはやってきたのだ。

 その短い黒髪を海風になびかせ、顔いっぱいの笑顔を浮かべて。


「やっと見つけました。博士、私にもう一度、恋を、愛を教えてください」


 思わず抱きしめそうになった。だが、できなかった。

 その時になってやっと現れた己を殺したくなるような情動。俺が彼女に触れていいはずがない。だが、そんな俺をナナは柔らかく抱きしめた。

 たまらなく嬉しく、たまらなく苦しかった。


   *


「博士、おはようございます」

 寝室を出ると、笑顔のナナが迎えてくれる。

 時刻は十一時。ナナが来て、きっちりとした時間にベッドに入るようになったが、なかなか寝付けず、朝が起きられない。

 キッチンに立つナナを眺める。

 懐かしく、愛しい光景。ナナが振り替える。そして、心から嬉しそうに笑う。

 それが、わからないんだ。

 

 なぜ、そんな満面の笑みを浮かべられる?


 彼女は当然わかっている。俺が彼女に何をしたのか。どんな残酷な仕打ちをしたのか。

 ナナが俺の前に皿を置く。

「遅く起床されると予想されたのでブランチを用意いたしました」

 エッグベネディクトにレタスとアスパラ。そして、パプリカ。色も鮮やかでとても美味しそうだ。

「すまない、ナナ」

 そういうと、ナナは困ったような顔をした。俺は思わず目を逸らした。


   *


「よう。ド腐れ変態クズサイコ野郎」

 扉を開けるといきなり腹パンを食らった。ベリンダが訪ねてきたのだ。

 俺は衝撃にうずくまりながら、うめく。

「久しぶりの再会に腹パンとは結構な挨拶だな……」

「当然だろ?なあ、ナナちゃん」

 ベリンダの言葉にナナが頷く。

「仕方ありません。むしろ、もう何回かの殴打は覚悟されたほうがよろしいかと思われます」

 思いがけない裏切り。ナナも言うようになったものだ。だが、それは不快というより、驚きで、そして、面白いと思った己に嫌気がさした。

 結局、俺は何も変わっていないのだな、と。


「一つ報告。結婚した」

「わあ、おめでとうございます!お相手はお手紙の方ですか?」

「そうそう。前から付き合ってた人」

 ベリンダと話すナナはとても楽しそうだ。それをぼんやりと見つめる。

 笑顔を向けられ、それに笑顔を返す。それは、人間として当たり前のやり取り。だが、俺には二度とできない気がする。

 ベリンダは今晩泊っていくらしい。

 何年ぶりだろうか、三人で夕食をとる。

 ナナもベリンダも俺に会話を振ることを忘れない。だが、俺はうまく答えることができない。

 ナナが席を外した。ベリンダが言う。

「お前、本当に馬鹿だよ」

「ああ……。そうだな」

 認めざるを得なかった。ベリンダが苦笑する。そして、変わらないグリーンの強い瞳で言った。

「だけど、だからこそ、ナナちゃんを幸せにしろよ」

「……」

 俺は何も答えることができなかった。

 こんな俺がナナを幸せにするなんてできるのだろうか。いや、無理だ。


 二人が寝静まったころ、眠れない俺はコートを羽織り、マフラーをして、家を出た。冬の夜の浜風にさらされながら、海の方へ向かう。

 砂浜。暗く冷たい海を眺める。

 深いため息をついた。

 すべてを忘れ、幸せに――。

 確かにそう願った。なのに、彼女に「ナナ」という名を、痕跡を残した。そう、そうなのだ。

 ナナの中で己が消えるのが嫌だったのだ。

「どうしようもないな」

 また、深いため息をつく。

 卑劣で、残酷で、最低なことをしたというのに。

「博士」

 後ろからの声にはじかれたように振り返る。ナナが白い息を吐きながらほっとしたように笑っていた。

 俺はぎょっとする。

「ナナ、こんな深夜に一人で出歩くな。ここ一帯は治安がいいとはいえ、さすがに危機感がなさすぎる」

「申し訳ありません。ですが――」

「それに防寒具はコートだけか。冬の海は冷えるというのに。マフラーくらい巻いてきたらどうだ」

 俺はマフラーを取り、ナナの首元にかける。ナナがきょとんとして、そして、嬉しそうに笑った。その顔はまるで幸せだとでもいうように。

「どうして、笑うんだ」

 思わずこぼしていた。そして止まらなくなった。

「どうして、そうも嬉しそうに笑う?どうして、こうも俺の傍にいる?どうしてお前は――」

「博士」

「どうして!」

 俺は叫んでいた。

「俺がお前に何をしたか知っているだろう⁉監禁し、非道な実験をし、どれだけ、どれだけ苦しめたか……!どれだけ、お前を傷つけたか!」

 わかりきったこと。それを口にする。

「ナナ。お前は俺といても幸せになんかなれない」

荒くなる息を整え、俺は言う。 

「ベリンダと一緒に帰れ」

 沈黙。そう、そうだ。きっとそうなんだ。ナナはここにいるべきではない。

 波音が静かに響く。

「私は幸せです」

 小さな声。思わず顔を上げる。

 ナナはコートの裾を握り、目にいっぱいの涙をためて。

「私は博士と共にあれることが、とても、幸せです。ですが――」

 その頬に雫が伝う。

「私の存在が博士にとってご迷惑ならば、私は去ります」

 泣きながら下手な笑みを浮かべる。

「やめろ……」

 苦しい。

「やめてくれ……」

 胸が痛い。

「どうして、どうして……」

 顔を覆う。

「お前は、俺を許すとでもいうのか……?」

 ナナの震える声。

「……わかりません。私には許す、許さないの判断ができません。ですが――」

 彼女ははっきりと口にした。

「それでも私は博士を愛しています」

 ナナが放ったその言葉は、あの日彼女が涙ながらに言った最後の言葉と同じだった。

 俺はその言葉に狂った言葉を返した。あまりにも酷い言葉を。

 なのに――。

「もう一度、機会を与えてくれるのか……?」

 ああ、今の俺はあまりに情けない顔をしているだろう。だが、ナナは優しく微笑んでいて。

「ナナ、触れていいか?」

 ナナが頷く。俺は手を伸ばし、ナナを抱き寄せる。その温度がたまらなく愛おしく。

「俺は許されない。お前に愛される資格はない。だが。だが、それでもともにありたい」

 声が揺らぐ。目の前がかすむ。

「こんな俺の傍にいてくれるだろうか?」

「はい」

 ナナは優しい声で言う。

「もちろんです。博士」

 ナナの手が優しく俺の体に回される。俺はその肩に顔をうずめる。

 そう、そうだ。今更だ。今更だが、やっと気づけた。

「こんなことを言う資格はないのはわかっている。だが――」

 言わずにはいられなかった。

「ナナ、愛している」


   *


 海辺の街。

 退勤が遅くなってしまった。駅を出て速足で家に向かう。

 定時で帰らせろと何度も言ったのに。あの生徒共、覚えてろよ。

 だが、彼らが俺を慕ってくれていることはまあわかるわけで、悪くはない。少しずつだが、味方も増えてきたということか。

 人造人間の人権。その会得なんて夢のまた夢だ。学会では未だ異端者扱い。いや、もっと酷い扱いだ。だが、確実に進んできている。そう信じている。

 扉をノックする。

「おかえりなさい、エディ」

 扉が開き、ナナが笑顔で迎えてくれる。そして、足元にかけてくるクラリスを撫でる。

「おかえり、パパ」

「ただいま」

 クラリスを抱き上げ、部屋に入る。

 食卓に並んだ温かな夕食。今日も美味しそうだ。

「ありがとう、ナナ」

「とんでもありません」

 敬語はやめろと言っているのに。だが、その笑顔につられて笑う。

 三人でたわいない話をしながら食事をとる。

 ナナと目が合う。彼女は柔らかな笑みを浮かべた。

 未だ消えない罪悪感。苦しくてたまらない。

 だけど、その一方で――。

 たまらなく幸せなのだ。

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