第34話 ただ、生きる、だけ。

 紙切れ――呪符型魔道具たちが、一斉に水流を吐き出した。その様は、さながら消防士たちの放水作業。


 薄い木の板程度なら一秒とかからず破壊し突き進む奔流は、しかし、五メートルも進めば、その悉くが蒸発した。それでも水流は生み出され続け、一面を白紙に塗り替えていく。


 宗次郎は構わず歩を進める。高温の水蒸気の中、呪符を横一列のまま先行させ、少しの火傷も負わずに平然と。


 宗次郎が身に付けている和装。これも魔道具である。


 着用者を中心に、半径三メートルの半球状作用面を展開。作用面上に存在する分子の運動量を瞬時に記録し、その記録情報を基に、作用面上の運動量の急激な増減を抑制する。


 作用面が、緩衝材の役割を果たしているのだ。


 無論、緩衝材なのだから、出来ないことは多々ある。


 例えば、今、宗次郎の身を包む大気の温度は――実に四十度。


 これは、この魔道具の起動時、宗次郎の周囲半径三メートル以内の気温が既にその程度あったからである。緩衝材は、中の状態を維持することは出来ても、適切なものに調整することは出来ない。


 そして、このままでこれ以上近づけば、それも崩壊する。


 和装による分子運動量の平滑化を行う前に、呪符による水冷というクッションを入れる。これは単純に、和装単体ではこの大熱量に対応しきれないためだ。


 そしてこれから先、この二つをもってしても耐えられない。


 魔道具使いのままでは不足。故にここからが――魔法使いの戦いである。


 宗次郎が前方に両手をかざす。直後、十の呪符全ての水流の勢いが増した。そして、水流のその直線的な軌道が、曲線的なものへと変化していく。


 うねり、よじれ、重なり合って生まれた、一つの巨大な水の盾。


 それはたちまち水蒸気に成っていくも、それ以上小さくなることはない。


「っ――!」

 宗次郎が両掌を素早く合わせる。


 水の盾が伸び、和装が展開する半球の更に外側を覆った。


 拮抗する。


 次々と襲い来る熱波。その全てを中和し、この場に留まり続ける。


「は――あぐっ――がぁっ――!」


 宗次郎の全身を苛む、途轍もない脱力感と、身体の内側に硫酸でも流されているかのような、ざりざりとした痛み。


 実際、宗次郎の身体の至る所には、赤黒い斑点模様が浮かび上がっていた。


 人間が魔法を行使する代償。


 人体の構成要素を消費したことによる、当然の結果。


 全身の細胞が崩壊し始めている。


 血管破裂、筋線維の壊死、骨組織に亀裂、内臓崩落。


「――――――、」


 意識が白くなる。


 自分がどこにいるのか、何をしているのか、どうして生きているのか。


 自分が誰なのか、あれは何なのか、これはどういうことなのか――


 何もかもが分からなくなる。


 死は、もうすぐそこまで来ている。


 それでも――


 悲鳴のような、彼の怒涛の攻撃が、宗次郎を繋ぎとめる。


――まだ、私にはやることがある。


 時間稼ぎ。後ろにいる一颯に、バトンを繋ぐこと。


 自分の不始末を、若者に押し付けるのは非常に心苦しい。


 それでも、彼をここで止めなければ、悲劇は拡大する。それだけは、絶対に阻止しなくてはいけない。


 でも、欲を言えば――


 人生に見切りを付けたような目をしていた彼を、救ってあげたかった。


 歳を重ねるにつれ、宗次郎は自分の未来を考えなくなった。目に映る誰かの未来ばかりを気にするようになった。


 そこに、水嶋翔という生徒は現れた。


 まだ何十年と未来を残していながら、彼はもう未来を見ていないようだった。


――彼を遺して死ねない。


 人生最後の大仕事だ、と宗次郎は思った。


 結果、届かなかった。


 己の力不足とか、そんな優しい問題じゃない。


 宗次郎は、彼の視界に入ってすらいなかった。


 お前に関わる資格はない。そう突き付けられているようだった。


 努力の価値の完全剥奪。伸ばした手が全て空を切るような虚しさと、真っ暗な森の中に一人遭難しているような絶望感があった。


 そして、とうとう物質的にも彼は届かぬ人となってしまった。


 だからせめて――彼に手を届かせられる誰かの足掛かりとなろう。


 それが、宗次郎にとって孫のような存在だった一颯の巣立ちともなるのなら、宗次郎にもはや迷う余地などなかった。





 一颯の目の前に広がる、分厚い水蒸気の壁。


 時折、巻き起こる突風で、所々その白壁が晴れる。そこには、半球状に展開された水籠と、その中で立つ宗次郎の姿があった。


 水籠から生まれ出でる水の帯が、怪物へと向かう半ばで消滅していく。


 怪物の攻撃が水籠を削るのに対し、宗次郎の攻撃は届かない。


 加えて、出血しているのか、水籠のせいで少々見づらいながら、宗次郎の着用する白い着流しにはいくつもの赤い斑点が出来上がっている。


 度を越した魔力行使は身を滅ぼす。出血が始まっているとなると、もはや魔力欠乏どころの騒ぎではない。


 今すぐ止めなければ手遅れになる。今止めても脳や身体には何らかの後遺症が確実に残る。


 宗次郎はそれを覚悟の上であそこに立っているのか。


 であれば、一颯にはそれに応える義務がある――


――義務?


 一颯は疑問に思った。どうして義務感なんかが生まれた?


 一颯は自己の内側、その深奥を探る。答えは簡単に見つかった。


 誰かに良くされたら、良くし返す。一颯が目を覚ましてから、しばらくして知った常識だ。当時、一颯にはどうしてそんな常識が人間たちの間で生まれたのかよく分からなかったが、それが普通だと言われれば受け入れるしかなかった。


 そして、今、どうしてそれが常識なのかを一颯は理解している。


 それは、人間関係の構築、維持に必要なことだからだ。


 人間は個体ではあまりに脆弱だ。強固な牙も爪も鱗も甲羅もなく、夜目は利かず、嗅覚も聴覚も大したことはない。だが、頭だけは良かった。


 だから、先人たちが生み出した道具と社会の中で生きている。


 すなわち、この常識の存在する意味とは、自己保存という目的を達すること。ひいては、人類種の存続だ。


 では、自分にそれがあるのか。一颯は自問自答する。答えは勿論すぐに分かる。


――なら、やろう。中身が空っぽでも、これだけは抗いようがない。



 手始めに、一颯は宗次郎の言葉を反芻する。この状況を打破するために必要な情報はどれか。


 一つ目は、一颯に魔法が使えること。確証はないが、信用はしていいだろう。


 二つ目は、今も一颯の身体に流れる液体が、魔力であるということ。これも、まず間違いない。


 三つ目は、自身の身体の拡張という考え方。おそらく、これが一番肝要で、一番難しいだろう。


 常識には、あまりそういった感覚はない。だからこそ時間がかかる――はず。


――一颯君は、自分の身体とちゃんと向き合ったかい?


 一颯は思い出す。完璧にとは言わないが、確かに一颯には自己と向き合ったことがあった。


 最初、本当の、最初の最初。目覚めてから数日経ったある日。一颯はふと、自分とは何なのか、ということが気になってしまって、それから考えることを我慢出来なくなった。


 その時、なんとなく理解して、だけど、他の人たちの言う常識との整合性がとれなくて、放棄してしまった、たくさんのもの。


 それらを一つ一つ掘り返していく。


 全部は無理だ。朧気にしか思い出せないもの、完全に忘れてその片鱗すら感じ取れなくなったもの……。それらはきっと、もう取り返しが付かない。


 そんな中、はっきりと思い出せたもの、そもそも、失ってすらいなかったものが一つある。


 それは、一颯の身体を苛み続ける熱だ。


 別に一颯が常に風邪をひいていて、発熱しているというわけじゃない。


 肌の下にある、日光に照らされた時に感じる熱がずっと存在しているような、ぼうっとした温かさ。


 気温が高い日には、内と外で挟み撃ちされて、少々神経をささくれ立たせるそれ。


 人は、自分の身体の内側の温度というものを感じない。だが、一颯はそれを常に感じている。単純に言えば、こういうこと。


 そして、腕を失い、血が大量に出た、寒さを感じたあの時と、一気に生産されて、少し熱に浮かされるようになっている今。


 自分の身体の中に血液という魔力が流れていることは、既に感覚が教えてくれていたことだった。


「一颯?」

「俺、ちょっと戦ってきます」

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