第33話 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――」


 綾香は佐斗の腕を引き、研究棟の駐車場を駆け抜けていた。


 大した速度は出ていない。それなのに、どうしてこんなに息苦しいのか。


 佐斗は既にもぬけの殻みたい。引かれるままに足を動かすだけ。そんな彼が重いのか。


 違う。理由は分かっている。


 それは自分が逃げてきたからだ。虚ろな目で虚空を彷徨う彼を置いて。


 怖かった。


 異形となったかつての友人も、呆然自失となる佐斗も、冷たい目で引き金を引く先輩も。


 そして何より、まるで今にも消え行きそうな程頼りなく見えた彼。


 何もかもが理解不能で、きりきりと胸を痛めつけてくる。


 綾香はそんなぐちゃぐちゃな思考を抱いたまま、教室へと向かう。


 道路を渡り、下駄箱までの道を駆け、階段を上がって、辿り着く。


 勢いよく扉を開けると、中にいたクラスメイトたちの顔が一斉に綾香へ向いた。


 教師の姿はない。おそらく、人を呼びに行っているのだろう。混乱する生徒を置いて、というのは思うところがないわけでないが、一人に出来ることなどたかが知れている。当然の判断と言っていいだろう。


――なら、私はどうするの?


 ここで皆と事態が収束するのを待つのか。


 それとも、あの実験場へと戻るのか。


 ここで待つのが、懸命な判断であることは分かっている。戻ったところで、綾香に出来ることはない。むしろ足手まといになるだけ。


 でも――


 綾香は、佐斗を席まで引っ張っていき、座らせた。従順過ぎて、そこにもう意思が宿っていないかのよう。


 こちらの方が、まだ適役なんじゃないか。


 決断は、すぐには下せそうにない。





 轟、と火柱が上がった。


 壁際、先程まで一颯の右腕を食らっていた怪物のいた地点。


 うねり、瞬き、周囲の土や壁の全てを焼き焦がし、更には溶解させていく。その様はまるで、太陽の周囲を立ち昇るプロミネンス。その余波だけで、五十メートルは離れた場所に立つ一颯たちの衣服が焦げ付く。


 生きた炎龍のようなそれに、一颯と初理は目を奪われた。


「一颯、立てる?」

「――は、はい」


 一颯は片腕を地に着け、立ち上がる。


 身体がやけに重い。ぼうっと熱を持っているような。あの炎のせいか、血、正確には、血を模したものが、大量に抜け出たせいか。少なくとも、実験場内の気温が十度も二十度も上がったような心地がするのは、錯覚ではない。


 止めどなく汗が滴り落ちる。


 血濡れの服がじっとり。非常に心地が悪い。


 足元に転がる右腕の残骸が、本物のように生々しい。


――でも、空虚だ。これら全ては偽物。あの猛々しい龍の方が、よっぽど本物らしい。


「あれ、何なのか分かりますか」

「さっきのゾンビだよ。大量の魔力を食べたから、一時的にああなってる」


 姿はよく見えないが、あの怪物が、火種としてあの炎の真ん中にいるのだろう。


 一颯と初理は、二人して腕で汗を拭いながらも、見た目平然と会話を進めていく。


「大量の魔力なんてどこに?」

「一颯の腕、というか血液」

「それって――」

「今この辺りにある赤いの全部、液化した一颯の魔力なのよ」


 通常、質量を持たない気体として存在している魔力。それを超高濃度に圧縮した場合、無色の液体となる。そんな論文があったことを一颯は思い出した。赤いのはおそらく何か細工をしているのだろう。


 そして、自分が魔道具を使えない理由も、薄っすらとではあるが理解した。


 要は、気体ではなく液体であったから、体外に取り出すことが出来なかったのだ。それに、取り出せたとしても液状では、現在の魔道具の機構上、普段通りのエネルギーとしての利用は難しいだろう。


「それじゃあ、後は一颯に任せるわ」

「――は?」

「今の私の持ち合わせじゃ、もうあれは手に負えないから」

「そんなの俺だって同じ、というか、俺には何も出来ないですよ」


 あの炎が一颯のせいだとすれば、もはや餌だ。いっそ逃げた方が良い。


「ううん、大丈夫。一颯は魔法が使えるもの」

「――、」


 初理の物言いは、かなり自信があるように見えた。


 初理は、ふざけたこともズレたことも息をするように口にするが、こと魔道具に至っては、非常に真摯だ。誤りの可能性があるものをおいそれとは口にしない。


――ならば、本当に? だが……。


 魔力の体外抽出から結果の表出までの一連の流れこそが魔法。これが人の身だけでは出来ないから、魔道具がある。


 初理は一颯に、自らを道具と認めろというのか。


 いや、初理はきっとそんなこと考えてもいないだろう。ただ事実を事実のまま口にしているだけだ。


 そして、一颯ももう認めている。動揺なんて、長くは続いてくれない。


「どうすれば使えるんでしょう?」

「魔力――血液を、自分の手足だと思えば出来るかも?」

「――、」


 あまりに曖昧で、あまりに突飛。


 今も、一颯の体内には疑似血液が、意思とは関係なく巡っているだろう。初理の言っていることはつまり、血液を意思の下に動かしたり止めたりしろ、ということに他ならない。


 そんな芸当、どこの誰が出来るというのか。


「来るわ」


 珍しく緊張した声音。一颯の思考が打ち切られる。


 見れば、縦横に乱れていた炎が、今まさに纏まりを為そうとしていた。


「すごいね、彼。あの量の魔力をちゃんとコントロールしてる」


 炎の隙間から、怪物の姿がちらちらと見え始める。その眼力は虚ろながら、五十メートル離れたこの位置にも届き、威圧してくる。


「うん――思考を完全に単一化させているとはいえ――勿体ないわ」


 次第に炎が鳴りを潜め、その圧倒的な熱量のみが周囲を焼き、ゆらゆらと大気を揺らす。


「本当に――なんて失敗作」

「白希先輩、さっきから何言ってるんです? 俺たち、追い詰められているんですよ――⁉」


 空気が変質する。鈍重さは今までの比にならない。


「頑張って」


 怪物が全身に力を溜め――


「っ! 俺たち、って言いましたよねっ。こっちに丸投げしないでくださいよ――!」


 彼我の距離を一息で無いものにした。その様はもはや人という一個体が迫ってきたというより、雪崩や波濤、抗いようのない自然災害のそれに近い。


「大丈夫よ。今日はちゃんと保険を用意しといたから――」


 突如、目の前まで迫った怪物の形がブレた。そのまま中空を滑り、壁へ激突する。その脇腹付近には、一振りの刀が突き刺さっていた。


「いやぁ、ごめんごめん。遅くなってしまったね」


 そんな声を響かせて登場したのは、真っ白な着流しに黒の袴を穿き、二本の刀――一つは鞘のみ――を腰に挿した好々爺、江藤宗次郎だった。


 ぴんと伸びた背筋や柔らかな表情、口調はいつもと変わらず、しかしながらその雰囲気には、思わず距離をとりたくなる何かがある。


 宗次郎は、一颯のその失われた右腕の面影を一瞥すると、怪物の方へ視線を向けた。どこか哀愁の漂う、意思の宿った瞳。


 直後、怪物の怒号と共に、その熱がうねりを上げる。


「っ――! い、いやぁ、彼、本当に凄まじいね。秘蔵の魔道具がもうボロボロだ」


 見れば、突き立っていたはずの刀が、怪物の傍に零れていた。柄は燃え尽きたのか既に無く、刀身は融解を始めている。


 純鉄の融点はおよそ千五百度。刀身は鋼であるが故に、その融点はいくらか下がっているだろうが、あの溶け方や、赤熱しマグマのように煮え滾る周囲の様相からして、あれの中心温度が二千度を超えている可能性すらある。不用意に近づけば、炭化するより早く溶け落ちるだろう。


 むしろあの刀、特殊な加工でもされていたのか、あの怪物によく刺さったものである。


「さ、私は私の役割を果たすことにしようかね」


 そう言って、宗次郎は前へ出た。


「っ、先生、何を――」

「一颯君」


 宗次郎は、猛る怪物を見据えたまま、


「私に出来るのは、せいぜい時間稼ぎくらいだろう。初理君はやる気がないようだし、君だけが頼りなんだ。どうか――頑張って欲しい」

「は、いや、だから頑張ってなんて言われても――」


 そんなやり取りをしている間も、怪物が待ってくれるわけがなく。超高温の熱波が一颯たちの元に襲い来る。


「ごめんね。それでも私じゃあ、応援することしか出来ないよ。君の気持ちを推し量ることが、私には出来ないからね」


 宗次郎は悠然と、いつの間にか抜いていた刀を地面へと突き立てた。熱波が、宗次郎の前方から展開される『何か』によってせき止められる。


「でも、先達として、少しだけアドバイスだ。一颯君は、自分の身体とちゃんと向き合ったかい? 自分の身体を知り、全てを自らの意思にて掌握するのが、魔法使いになるための第一歩だよ」


 突き立った刀はそのまま、宗次郎は携えた鞘二本を地面に放って歩き始める。そして、懐から数枚の紙切れを取り出した。


「優れたスポーツ選手や自動車の運転手、技術者たちなど多くの人たちが、自分の道具を自分の手足のように操るよね。それは、本来、自己の意識の外にあるはずのものを、自己の意識に同一化したということ。要は、『自分の身体』という概念を拡張したんだ」


 紙切れたちは、独りでに宗次郎の手から離れ、彼の目の前にふよふよと浮かび上がっていく。数は十。横一列に並び、それぞれが水気を帯び始める。


「彼らは、長年の訓練によって、拡張後の身体を意識に刷り込んだ。だけど、今はこんな状況だ。そこまで待ってはいられない。だから、今から手本を見せよう。よく見て、よく理解しなさい。君なら出来ると信じているよ」


 宗次郎が紡ぐ言葉の数々が、一颯にはまるで遺言のように感じられた。

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