第32話

 怪物の頭には穴が空いていて、そこから赤黒いものが漏れ出ている。その身からは、生命の気配が感じられなかった。


 呼吸がない。心臓の鼓動もない。体温さえ伝わってこない。まるで操り手を失くした人形のよう。


 一颯はその亡骸を押し退けて立ち上がる。左を見ると、先程まではいなかったはずの人物が一颯に向かって歩いて来ていた。


「白希先輩」


 白衣を翻す、感情の読めない女生徒、初理は一颯の傍まで来て、


「一颯、気を付けて。まだ終わってないわ」

「え――」


 背後から物音。振り向けば、怪物の腕が、細かい痙攣と共に胴を持ち上げ始めていた。


 爛々と輝く瞳が一颯に向いている。


「白希先輩はあれのこと、何か知っているんですか」

「うん、大体は。とりあえず、噛まれても大丈夫よ」

「――、」


 初理にそう言われて、一颯は自分の首元に手をやっていることに気付いた。


 角度的に、一颯からはその傷を直接目視することは出来ない。だが、はっきりと痛みがあり、触れた手にはねっとりと血が付いていた。


 実際、一颯の首にはくっきりと歯型の傷が出来ていて、所々血が垂れている。感染の条件は十分に満たしていた。


「安心しました。それで、あれの対処法なんかもあれば、教えてもらいたいんですが」

「あのナイフを外す」

「それだけですか?」

「あとは――四肢をもぐとか」


「そりゃ当然動かなくなるでしょ。もっと具体的な――戦闘方針とかはないんですか?」

「適当にやる」


 そう言って、初理はまるで拳銃を構えるように何かを持ち上げた。直後、音もなく何かが射出される。


 何かは一呼吸も待つことなく命中。怪物の身体が再び崩れ落ちた。


「――鉛筆削り?」


 初理の手に握られていたのは、確かに鉛筆削りの形をしていた。手のひら大の、安っぽい携帯用タイプ。


「『拳銃使用によって得られる結果』を再現する魔道具よ」


 道具を使用するだけの者にとっては、中身、仕組みというものに意味はない。何か情報を入力した時、想定通りの結果さえ得られればいいのだ。


 だから、その見た目が玩具であっても関係ない。人体に穴を穿つという目的は、現に果たされている。


 とはいえ、彼女はまた恐ろしいものを作ったようだ。


 その見た目が玩具であるが故に、日常に馴染めてしまう。あれが教室の机の上に置いてあっても、誰も不審に思えない。


 人を殺すための道具が、身の回りに潜んでいるなんて。周知されれば、その空間は疑心暗鬼のるつぼと化すだろう。


「これじゃ、あまり意味はないみたいね――」


 初理はぼそっと呟いて、鉛筆削りを懐に仕舞う。初理の言う通り、あの怪物は頭部に二つの穴を穿たれて尚、その動きを止める気配はない。


 初理の右手が露わになる。今回、その手に握られていたのは、一つの消しゴムだった。


 初理は消しゴムを、立ち上がりかけていた怪物目掛けて投擲。接触した瞬間、凄まじい破裂音と共に消しゴムが爆散し、白煙が発生した。


 逃走を開始していた生徒たちが、爆音にぎょっとして振り返る。その気配を一颯は察知して振り向き、


「足を止めるな!」


 そう檄を飛ばした。


 戸惑いながらも動き出す彼らを軽く見送って、一颯は視線を戻す。


 怪物の右肩付近に上がっていた白煙が晴れ、爛れた皮膚が覗いている。


「白希先輩、もう少し時間稼ぎお願いできますか」

「勿論。まだ試してみたいことが残ってるし、時間は有効に利用しないとね」


 明らかに実験気分でいる初理を置いて、一颯は周囲の確認に移る。


 逃げ遅れは、すぐに見つかった。


「三浦、新美! お前ら何してる!」


 怪物の方を見つめたまま立ち尽くす佐斗と、どうすべきか迷っている様子の綾香。


「藤見君っ、どうしよう、新美君がっ」


 一颯が駆け寄ると、狼狽した綾香の顔が向いた。まだまともそうな綾香はひとまず放置して、一颯が佐斗の肩を揺する。


「新美っ、お前も早く逃げろよ」


 佐斗は顔だけを、緩慢な動きで一颯に向けた。


「ふじみ、くん……?」

「おい、だいじょ――」

「あれ、なんだろうね……? 仮装でもしてるのかな、もうそろそろハロウィンだもんね。すごく楽しそう、僕も混ぜてもらおうかな……」


――これは結構まずいな……。


 泣きそうな顔で、へらへらとしている。現実が受け入れられず、正常な思考を放棄しようとしているのか。


「三浦、新美のことは任せる。力づくでもなんでも、この場から離脱させてくれ」

「藤見君はどうするの?」

「あれの対処だ。白希先輩だけに任せるのはまずいからな」

「でもっ、……分かったわ。怪我しないで、ちゃんと帰って来てよ」

「善処する」


 ここでごねられないのは助かるなと思いつつ、不安そうな綾香へそれだけ返して、一颯は初理の元へ戻ることに――


「一颯!」


 初理の悲鳴。直後、一颯を襲う衝撃。


 一瞬、身体が浮遊して、一颯は背中から地面に叩きつけられる。


「か――は」


 肺から強制的に空気が追い出される。見れば、怪物の様相が明らかに変化していた。


 ゾンビらしさはそのまま。しかし全身の至る所から、ちりちりと炎が上がっている。


 怪物との接触面から、一颯の肌や服が焼けていく。じりじりじりじり、苦痛は骨にまで届いた。


 流石に耐えかね、必死にもがくも、びくともしない。迫る歯を、抑えることも出来ない。


 一颯の皮膚が爛れを超え、少しずつ黒ずみ始めた。噛み付かれた右腕は今にも噛み砕かれそう。


 圧倒的な理不尽。抗いようのない死。


「あああああああああ!」


 これが、一颯にとって初めての、心からの叫びだった。これまで何度かこのような大声を上げてきたが、それらは全て、理性の統括の下、打算によって打ち出された結果。


 翔との一戦において上げたものだって、高ストレス状況下における、ストレスの発散による精神の安定化と、全筋力の最大活用を意図し、選択した行動であった。


 だが、今は違う。


 嫌だ、死にたくない、なんて思いも一颯の頭にはない。そんなことを想える余裕が、今の一颯にはない。


 内側にある何かに強烈に急き立てられるような感覚と、それに根差した反射的な抵抗。これらが、今の一颯を構成する全てであった。


「一颯!」


 初理が、魔力で生成された鉛玉を怪物へ向けて乱射する。それを鬱陶しいというように睨みつける怪物。――隙ができた。


 それを見逃せるわけもなく、一颯は転がり逃れる。


「一颯、大丈夫⁉」


 初理が珍しく慌てている。初めてかもしれない。しかしながら、一颯にそれを気にする余裕はない。


 一颯は四つん這いで、ひたすら空気を求めて喘ぐ。視線では、体勢を立て直そうとする怪物を捉えたまま。


 これが恐怖。全身を冷たく侵し、思考が蒸発し、自己保存のために全てを捧げる。


 そして今、一颯は途方もない安心感に包まれていた。次第に思考が平常に戻っていく。


――そうか、これが……。


 ふと、一颯の視界に、佐斗と共にある綾香の姿が映った。


 怯え、惑い、なんてか弱い。


「――、」


 浸っている余裕はない。呼吸も整わないまま、一颯は這うようにして怪物から距離をとる。


 自分に何が出来るのか。そんな思考を巡らせる間もなく、怪物は一颯に迫る。


 もはや初理の用意した魔道具など意に介さない。いくら身体が欠けようと、炎がそれを埋めてくれる。


 一颯に回避出来る道理はない。人の域を超えた化け物にとって、二、三メートルの距離などないに等しい。


 ギリギリ復活していた冷徹な意思で、損傷の一番酷い右腕を差し出すと決定する。


 一颯はなすすべなく組敷かれ、再び苦痛の底へ。


 万力が如き咬合。火窯に身を投じたが如き灼熱。


「う――ぐ、あああああああああ!」


 骨が砕け、とうとう噛み千切られる。


 怪物は千切った腕を咥えたまま、遥か先の壁際まで跳躍した。


 際限なく流れ出る血液は、怪物の足元を赤く染めていく。


「一颯ぁ!」


 駆け寄る初理。視界に映る惨状に、息を呑み立ち尽くす。


 腕を失い、残された一颯の身体は、傷口から大量の血液を吐き出し、痙攣するばかり。


 土の上に出来上がる赤い水面が、僅かに波打っていた。


 この量の出血は、確実に生死に関わる。そして、この場では手の施しようがない。

 初理は自らの白衣を破り、止血を試みる。無論、気休めにもならない。


 彼の身の訪れる死は、数分後か数秒後か。


 事ここに至り、既に一颯は沈黙していた。その瞳の虚ろさに、体温が二、三度下がったような錯覚を初理は覚える。


「やだ――やだぁ――!」


 初理はうわ言を繰り返し、現実を拒絶する。


 その時、一颯の身に異変が生じた。彼の脳裏に、文言が浮かび上がる。


――右腕部、疑似血液流出量、許容限界突破――伝搬停止


 出血が止まり、


――右腕部、疑似痛覚再現能、能力限界到達――機能停止


 痛みが消え、


――右肩への全伝達停止――暫定回路構築――完全遮断完了――離脱


 肩口から残りの腕が零れた。


――全疑似循環系の正常稼働を確認――緊急励起システム、休止状態へ移行


 一颯が勢いよく上体を起こした。右肩から先がないことを視覚でも確認する。


「いま、のは――」


 一颯が初理の方を見た。彼女もまた、驚愕しているようだったが、


「――そっか」


 どこか腑に落ちたようだった。


「これは、白希先輩が……?」


 そんなわけがない。彼女はこの身体に何もしていない。それは、一颯も分かっていることだった。


 現に、身体の方はもう、右腕がないことが自然であると受け入れているようで。


 だからこそ、受け入れられない。


「ううん、違うわ」


――駄目だ、言うな。聞いたのは間違いだった。


「一颯は、人造人間だったのね」


 ぽっかりと穴が空いた。そこにはきっと、かつての目標が埋まっていた。

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