第17話 人の優しさは、いつかきっと人を滅ぼす

「大人しくしてろ。大人しくしてれば、俺はこれ以上何もしない」


 うつ伏せの翔を尻に敷き、片腕を捻り上げながら、一颯は冷たく忠告をした。


「わ、わかってるよ……」


 翔が怯える理由が、一颯にはよく分からない。が、それも好都合だと一蹴し、慈悲も容赦もなく拘束を続ける。


「三浦、電話はできるか?」

「え? う、うん、できるけど……」


 一颯は、血で汚れた手を服で拭いて、ポケットからスマホを取り出し、登録されている江藤宗次郎の番号を選択して発信した。「ほい」と言って、地面に座る綾香へスマホを放る。


 綾香はあたふたしながらもなんとかキャッチして、耳に当てた。数コールの後、目当ての人物が出る。


 彼女はそれからいくらかのやり取りをして、通話が切れた。


 しばらくすると、路地の入口付近に、白いプリウスが停車する。中からは白髪の老人と、三十歳前後の女性が姿を見せた。二人は並んで、ただしその表情は対照的に、一颯たちの元まで歩いてくる。


「あらら、これまた随分とやんちゃしたねぇ」


 辺りに広がる戦闘の名残を見ても、宗次郎はのほほんとしたまま。


「先生、呑気なことを言っている場合ではありません」


 そう言って、女性は素早くスマホを操作し始める。


「いやぁ、相変わらず瀬野せのさんは真面目だねぇ。――ふむ、じゃあ、とりあえず、藤見君は私と代わろう。流石の君も些かきつそうだ。楽にした方がいい」

「助かります」


 一颯が立ち上がるのと入れ替わりで、宗次郎が翔の背に右手を置く。


 瞬間、翔の表情が驚愕に染まる。


 翔の全身は、何の気なしに置かれた掌一つで、金縛りに遭ったみたいに硬直していた。


 呼吸だけできるのは、宗次郎なりの慈悲だろうか。


 一颯はそんな様子を見て、のそり、のそりと、綾香へと近づいていく。


 その途中、ぐら、と一颯の身体が揺れ、崩れ落ちた。心臓も呼吸も止まるくらいの衝撃が綾香を襲う。


「藤見君っ!」


 四つん這いになって、必死の形相で手足を動かす綾香。全身が重く、特に右足は凄まじい程の熱を持っていて、引きずるようにコンクリートを進む。


 たった二、三メートルの距離が、途方もなく遠い。


「ふじみ、くん……!」


 ようやくといったところで、綾香の手が一颯に届いた。血に濡れたシャツを握り、残った力で可能な限りに身体を揺らす。


「藤見君っ! 藤見君っ!」


 綾香の瞳から、涙腺が壊れたように涙が流れる。


「お、おい……なんだ、なんだ……」


 拍子抜けする程のんびりとした声音で、一颯が目を開いた。


「藤見君っ!」

「い、いや……流石にうるせぇし、そんなに揺らすな……」


 一颯は心底鬱陶しいというように呟く。綾香は握っていたシャツを離して、地面に手をついた。ぼつ、ぼつ、と涙が落ちる。


「なんで……なんでこんなになるまで……」

「――――、」


 綾香の顔は、それはもう酷いことになっていた。


 涙と鼻水に塗れ、髪の毛は乱れに乱れていて、顔も痛ましい程に歪んでいる。傷だらけなのは、本当は彼女の方なのではないか。一颯にはそう思えてならなかった。


 守れたものは、確かにある。彼女には足首以外に目立った外傷はなく、砕ける寸前にあった精神も今は比較的安定しているようだった。


 だけど、何かが足らない。救いきれなかったものが確実に存在する予感がある。


 だけど――


――なぜ、この子はこんなにも辛そうなんだ。


 一颯の容態が、非常に痛ましいものであることは想像できる。だが、それだけだ。自分の怪我でない以上、ここまで苦しそうにする理由はないはずなのだ。


――やはり、届かないのか。


 一颯には、一生を懸けてでも成し遂げたい目的があった。


 それは、優しい人になること。


 誰かの痛みを共に味わい、共に悲しめるような共感性。


 誰かの助けとなれることを喜び、生きがいとするような社会貢献性。


 誰かが傷つけられた時、憤ることが出来るような正義感。


 そういった、誰しもが持っているだろう善性というものを、一颯は持ち合わせていなかったのだ。


 だから、一颯は模倣するしかなくて、でも、偽物だから、どこまで行っても本物には届かない。――そう結論付けるにはまだ早いことを理解はしている。


 色んな書物を漁って、たくさんの人たちを観察して、人の優しさと呼ばれるものを知識として蓄えて。積み重ね始めてから、たった数年程度で諦めるのは傲慢というものだろう。


 だけど――


 こうして眼前に突き付けられると、自分の今までが何だったのかよく分からなくなる。


 どうすればいい。どうすればいい。


 目の前の少女を救いきるために、自分のこれまでを否定させないために。


 綾香の現状を観察、把握し、最善を模索する。


 髪も服も露出した肌も、唯一、右足首が赤黒く腫れ上がっているくらい。一颯が彼女に対して出来る、物理的な事柄はない。


 ならば精神か。罪悪感があるらしい彼女の言動を、一颯は記憶している。だが、その罪悪感の根源はどこにあるのか。


 分からない。それでも何かないかと必死になるうちに、思考はどんどん纏まりを失い、誰にでも分かりそうなことでさえ零れ落ちていく。


 そうして、ひとまず物理的にと、その涙を拭うべく手を伸ばして――


「ぶっさいくな顔だな」


 いつもの無表情で、どうしようもなく間違えた。いや、辺りの空気を、綾香も含め完全に凍結させることに成功したので、結果としては――やっぱり、間違えている。


 その後、一颯と翔は救急車で、綾香は瀬野のプリウスで魔道大付属病院へと運ばれ、治療を受けた。

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