第16話 鬼ごっこ? 俺は鬼の方が好みかな。

 驚きを零すと、射殺さんとする視線が一颯に向けられる。


 視線の彼の額からは玉のような汗が流れ落ち、いつもならワックスで整えられているだろう髪が、風呂上り時みたいに乱れていた。


 そして、一颯はその男の正体をはっきりと理解した。


 水嶋翔。


 教室内での穏やかだった彼の面影はどこにもない。目の前のあれは、もはや獣と形容すべき存在に思え、翔の顔を真似た妖怪変化の類なのではないかと疑ってしまう。


――落ち着け。


 一颯はほうっと息を吐くと、動揺した心を切り離した。怜悧な覚悟が瞳に戻る。


 魔道具の恩恵は失われた。おそらく原因は、魔道具の過剰使用からくる魔力枯渇。最重要器官である脳への供給分を確保すべく、魔力生成機関でもある全身の細胞が酷使され、ダメージを負っているのだ。


 まだ軽度だろうが、あの状態から快復するには、通常、二十四時間以上の休息が必要。


 もう翔はまともに戦えまい。一颯とてぼろぼろだが、痛みさえ無視すれば、無傷の時と変わらず淀みない動きを再現出来る。


 翔が未だ握り締める不格好な凶器も、もはやただの玩具だ。大した脅威ではない。


――どうやら、天が味方したのはこちららしい。


 むしろ翔の方が見放されたと言うべきか。なんせ向こうは人であることを捨てているようなものである。神のその恩恵も、動物までは管轄外だろう。


「ぐぅっ、うがあぁぁっ‼」


 獣の如き怒号と共に、跳ね上げられる凶器。その疲労を感じさせない、目の覚めるような刃の煌めき。


 だが、予備動作から全て、始めから見えている。ならば容易い。


 一颯は、その動きに合わせるように右拳を突き出した。


 右腕と右腕が交錯する。一颯の右頬を掠めるカッターと、翔の顔面を捉える右拳。おそらく鼻骨が折れたのだろう。不快な感触と音が一颯の拳を伝い、翔がコンクリートへと叩きつけられる。


 痙攣を繰り返し、鈍重な動きで体勢を立て直そうとする翔。


 だが、もはや肉体は限界のはず。意思だけでその壊れた身体が再生しないように、意思の力だけで失われた魔力と体力を補填するのは不可能。妄想の産物である。


 しかしその眼光に衰えはなく、殺気がとぐろを巻くようで。


――なに……?


 加えて、翔の四肢に力が戻り始めている。


 まるで彼のその殺意が、身体を強制させているような。


――そんなことが有り得るのか……?


 だが現に、目の前のあれは魔力枯渇状態から回復しようとしている。いや、むしろ――


 再度、翔の跳躍。だが、今回、一颯は攻撃を合わせられない。それどころか、左肩を貫かれ、より深く抉ろうと迫る翔を押さえるので精一杯だった。


 速度が飛躍的に上昇している。


 これが火事場の馬鹿力というやつなのか。翔の全身の筋力が、一時的に強化されているようであった。


「う、ぐぅ……!」

「殺す――殺す――!」


 翔の口から呪詛のような言葉が零れた。


 少しずつ少しずつ、一颯の左肩に血みどろのカッターがめり込んでいく。だが退くわけにはいかないと、一颯は全身に力を満たす。


「ふじみ、くん……? ――っ⁉」


 不意に、一颯の背後でぼんやりとした声と、息を呑むような気配がした。


 綾香が正気に戻ったらしい。いつまでも壊れているよりかは幾分かマシか。


「――そこで大人しくしとけよ。もう少しで片が付く」


 虚勢であることは明らかであった。脂汗は止めどなく、いつもの無表情が歪みに歪んでいる。


 だが、今、綾香に変な動きをされては上手く守れない。彼女には、大人しくその安全な場所で待っていてもらわなければならない。


 一颯は両足に力を籠め、左肩ごと翔を押し返す。


「ぁぁぁあああああああああああああ‼」


 カッターは既に骨にまで達した。ごりごりという感触が神経を逆撫でる。全身の痛みが脳を焼き、目から火でも噴き出しそうだ。


「藤見君やめてっ! もういいっ、もういいのっ!」


 涙声混じりの綾香の叫び。


「三浦――逃げられるなら、逃げろ。無理なら、そこで耐えていてくれ。――大丈夫だ。お前は必ず助かる」


 一歩、また一歩と一颯は翔を押し返していく。


「ごめ、ごめんなさい……」

「お前は何も悪くない――!」


 抱えきれなくなった罪悪感が漏れ出したみたいな謝罪を、一颯は即座に否定する。


 真実など一颯は知らない。だが、泣きじゃくる綾香へかける言葉としては、これが最善のように思えたのだ。


 いや、もしかしたら、ただ否定したかっただけなのか――


 だが、少なくとも、やるべきことは決まった。


「っ――!」


 おもむろに、翔が頭を引いた。


 頭突きが来る、と思った時にはもう遅く、鈍い音が響くと共に、一颯の視界に星が舞った。頭の芯にまで届く衝撃は、一瞬、一颯の思考を漂白させる。


 一颯の拘束が緩んだ隙をつき、翔が一颯から距離をとったのも束の間、再び翔が一颯に襲い掛かる。


 後ろには守護対象がいる。一颯に避けることは許されない。額から垂れる血が視界を遮ったところで、拭っている余裕もない。


「ああああああ!」


 肉薄してきた翔は、先程のような拘束を嫌ったのか、今度はカッターを無茶苦茶に振り回し始めた。


――速い。


 その全てを捌ききることは不可能と直感した。


 一颯は真っ赤に染まった腕を盾にして、致命打だけは防ぐ。


 こびり付いた赤黒い血肉で銀光は既に鳴りを潜めている。だから、刃物としての働きは満足にこなせないだろう。


 だが、縦横無尽に舞う右手と、時折差し挟まれる左手の殴打が、一颯の反撃を許さない。


 それでも――いや、だからこそ一颯は一歩踏み込んだ。


 傍から見れば無謀とも言えるそれは、冷徹なまでの状況判断の結果である。


 引くことは許されず、立ち止まっていたところでジリ貧なことは明白、ならば、反撃出来る位置まで身体をねじ込めばいいのだと。


 ガードを固め、翔の懐へ突貫する。そして、そのまま腹部に潜り込むようにして、両腕でがっしりとホールド。


「っ――はな、れろ――!」


 すかさず引き剥がそうとする翔の膝が顔面にめり込んで、カッターの柄に背中を抉られる。だが、これで――


 一颯は渾身の一撃を翔の脇腹に見舞う。はっきりと、肋骨の折れる感触がした。悶絶し、その苦痛を怒りに換えて暴れる翔。


――なら、まずはその怒りを。


 一颯の手は止まらない。不格好にしがみつき、何度も何度も、目の前の男へ向けて拳を振るう。


 片方が壊れればもう片方を。もう片方も壊れれば、今度は別の箇所を。


 冷たい意思で、理性的に、効率的に。ただ目の前の機構を壊すためだけに。


「――、」


 壊し、壊し、壊す。


「ぐ――あ――がぁっ――!」


 度重なる苦痛に、とうとう翔の腰が砕けた。投げ出されるように二人の身体が転がる。


 げほげほと血反吐をまき散らし、膝を震わせる翔とは対照的に、全身の怪我など些事とでも言うように立ち上がる一颯。


 内側がぐちゃぐちゃの翔と、血みどろの一颯。そんな二人の視線が交錯した。


 狂乱に眩む瞳と、冷たく透き通る瞳。


 その一方が、揺れた。





「――っ」


 とうとう気付かされてしまった。


 一点の曇りなく狂騒に染め上がっていたはずの心には、既に不純物が挿し込んでいた。


「なんだ……なんなんだ……なんなんだよお前は⁉」


 翔は血反吐をまき散らして叫ぶ。その言葉にもはや迫力は皆無。


 翔は震えていた。全身を苛む痛みと恐怖を思い出してしまっていた。


 目の前に立つ男は、異常だ。あんなものは決して人間ではない――!


 男の身体の至る所から血が滴り落ちている。血とは命を廻す媒体であり、それが失われるということは、すなわち、命を失っているということ。


 一滴、一滴、零れ落ちる度に死が近づいているはずのあの身体。それを意に介さず、ただ標的を見据えたまま、男は翔に向かって歩いてくる。


 どうして。なんで。


 あれだけ殴って、あれだけ切り裂いて、どうして当たり前のように動いている!


 ゆらり、ゆらり。血に濡れた両腕や上半身を揺らして、男は近づいてくる。


 そうして、ゆっくりとその腕が――


「く、来るなっ。俺にっ、触るなぁっ‼」


 ずざっ、と翔は尻を引き摺って後退る。


 どうすればあの魔手から逃れられるのか。翔はそれだけを模索して、すぐに絶望が覆う。


 あの男には、苛立ちも怒りも憎悪も軽蔑もない。始めから何もないのだ。


 つけ入る隙がない。何をしても、表情一つ変えず、いずれ確実にこの身体を壊す。


「やめろっ! やめろぉぉぉっ!」


 から回る翔の手足。次第に狭まる距離。


「――やっと、捕まえた」


 一颯の掌が、翔を捉えた。

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