第13話 おや、ここはまさか、プレス機の下?

 これでいい、これでいい。


――私は、間違ってない。


 綾香はひたすらそう自らに言い聞かせ、彼の下を去る。


 巻き込んではいけない。自分以外の誰をも、不幸な目に遭わせてはいけない。


 だから、彼に何も伝えなかったのは、正しいことのはずだ――と。


 これを止めてしまえば、きっと押し潰されて、駄目になってしまう。口をついてはいけない言葉が、零れてしまう。そんな予感が、綾香にはあった。


 綾香は一人、震える手足を奮い立たせて、神社前の通りを行く。


 スマホを取り出し、とある人物への通話アイコンに指をかける。


 深呼吸をしてぐっと押し込み、耳元に持っていく。


 綾香は呑気に鳴るコール音を聞きながら、必死に周囲の状況を確認した。


 人通りはある。だけど、目当ての人間の姿は見えない。いや、目当てというのは多分に語弊がある。出来るなら、絶対に会いたくない人物だ。


 だから、確認できなくて良かったと思う反面、今もどこかに隠れているのではないかという不安があって、今にも心臓を押し潰そうとしている。


 綾香は無意識に走り出していた。コール音は未だ止まない。今日、一颯からメッセージが来た時に決めたはずの覚悟が、既に彼女から剥がれ落ちようとしていた。


 そうして、とうとう綾香の足が止まった。身体が、ほんの数分走っただけで悲鳴を上げていた。既にコール音は止んでいる。


 このまま座ってしまえば楽になれる。そんな誘惑が、ひたり、ひたり、と足先から這い上がってくる。


 楽を選べば、そこで終わり。そう分かっていても、綾香には振り払うことができない。


 でもそれも仕方がない。だって、ここ十日間ほど、綾香はずっと一人で戦ってきたのだ。


 唯一、安心させてくれた彼はもういない。もう、頼ってはいけない。彼は、綾香では想像もつかない何かを既に抱えている。


 抱えて、一人で戦って、手を差し伸べてくれて、けれど、どこかちょっと危うい。


 そんな彼に、綾香はもう迷惑をかけたくなかった。


 でも――もう、壊れそう――


 と、折れかけた綾香の首と胴へ、彼女の背後からそれぞれ一本ずつ透明な『何か』が伸びる。


「っ!」


 なぜか悲鳴が思うように上がらず、空気が上手く肺へ送れない。


 たちまち、その『何か』――男は姿を露わにした。


 綾香の口を覆う、男の右手。綾香の身体を縛り上げるかの如く巻き付いている、男の左腕。


 そして背中には、薄すぎず厚すぎない男の胸板。


 綾香に、もう逃げ場はない。


 綾香の混乱する頭は、もはや何も思考できない。ただ、四肢が勝手に振り乱れ、恐怖で涙が零れ落ち、視界が霞む。


「あば、れん、なっ!」


 綾香の頭上から放たれた力むような男声と共に、胴の方の拘束が解ける。男が綾香へ肘鉄を入れようとして、その手前でせき止められて失敗したのだ。


「チッ、あの男の魔道具か!」


 激しい苛立ちを帯びた男声が再び綾香の鼓膜を揺らした瞬間、綾香は弾けるように拘束を振り解き、腕を振り乱して駆け出した。





 足早に鳥居をくぐっていった綾香をぼうっと見送り、神社に一人残された一颯は、違和感を覚えつつも部室に戻ることにした。


 研究棟までは大体二十分弱くらいかぁと、一颯はゆっくり歩き出して、鳥居をくぐる。


 すぐに太陽とコンクリートの照り返しに挟み撃ちされ、じめっとした空気が身を包んだ。


 もう少しで十月なのに、ほんとこの国はどうなってんだぁと、海外もろくに知らないながら文句の一つも思い浮かべないとやってられない気持ちになる。


 そうしてだらだらと帰っていると、もうそろそろ研究棟が見えてくるだろう頃合いで、スマホに着信があった。画面には『三浦綾香』という四文字。


 もう質問か、あと数分でクーラーの元へ行けるのにーと思いつつ、電話に出る。


「もしも――」

『助けてッ!』


 とてつもない大音量に、一颯は堪らずスマホから耳を離した。開口一番鼓膜をぶん殴ってくるとは何事だという文句を抑えて、そのまま聴力が回復するのを待つ。


 その間、綾香は何やら喋っている、というか叫んでいるみたいで、まだ右耳がぐわんぐわん言っているのを我慢して、今度は左耳を近づけ――る前に、通話が切れた。


「はぁ?」


 なんなんだ全くと思いつつ、今度は一颯の方から綾香へ電話をかけた。


 コール音は——規則正しい音色を聞かせ続ける。そのうちに、相手が出ることなく鳴り止んでしまった。


 本当に訳が分からない。一颯はもう一度かけ直そうとして、止めた。そして、気怠さで重く感じる身体を奮い立てて、走り出した。


 目的地は変わらず第二研の部室。初理が上手く捕まってくれることを祈りつつ、一颯は足を加速させていった。


 綾香の電話から一、二分程で、一颯は部室に到着した。中に入ると、部屋奥に、椅子に座って机に突っ伏す初理がいた。


 急ぎ近寄ると、どうやら彼女は寝ているらしい。すぅすぅと、小さく寝息をたてていた。


 女生徒がこんなところで無防備に寝こけていることに問題がないとは言えないが、今回ばかりはその意識の低さに感謝をして、だが乱暴に揺さぶって思いっきり声を上げる。


「白希先輩っ、起きてください! 問題発生です!」

「――んんぅ、う? んー、一颯ぁ、今日はもう無理ぃー」


 僅かに起き上がった初理は、ぐにゃぐにゃと机に倒れ掛かっていく。


 彼女は昨日から徹夜で綾香の魔道具作成に勤しんでいた。だから、こうなるのは仕方がないとも言える。


 が、一颯はすぐに大きく息を吸って――


「起きろぉぉーーー!」


 一段と大きい声に全力の揺さぶり。初理が、まるで電流が走ったみたいに身体を強張らせる。


「お、起きる。起きるから。落ち着いて……」


 初理に言われずとも、一颯は落ち着いていた。緊急性を要する事態であると冷静に判断し、初理に対して手加減をしている場合ではないと理解しているからこその、意図的な乱暴さ。


 ただ、暑さで多少気が立っていることも事実ではあった。一颯は胸のところをぱたぱたとやって、張り付いたシャツの内側に空気を取り入れる。


「どうしたの、一颯。何かあったの?」

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