第14話 二兎追う者は、車裂き

 目を擦りながら、まだまだ眠いという顔が一颯を向いた。だが、一颯は構わず用件を口にする。


「今すぐ三浦に渡した魔道具の追跡をお願いします」


 学内で作成された魔道具が学外に持ち出される場合、それには発信機等を用いて、常に捕捉できる状況が確保されなければならない、という規定がこの学校には存在する。


 個人のプライバシーよりも、公共へのリスクを重く見た結果の保険的措置。本当に、魔道具には自由がない。


「え、追跡って、学校から許可はもらったの?」

「緊急なんです。そんな暇はありません」

「駄目よ一颯。ルールはきちんと守らないと」


 あんたにだけは言われたくないという言葉を、一颯は飲み込む。


「呑気に会話している時間すら今は惜しい――いいから、大人しく、やれ」


 一颯は初理を威圧できるように表情と声音を偽造した。どこから見ても本物には程遠いが、今はこれが限界であった。


「む。――はぁ、ほんとに一颯は強引ね。分かったわ、一颯、スマホを出して」


 一瞬、本当に僅かに不満げな顔をした初理は、PCディスプレイの電源を入れる。


 画面はすぐに明かりを灯し、デスクトップのとあるアイコンをダブルクリックした。現れた小窓にパスワードを入力すると、小窓が消える代わりに、画面全体に学校周辺の地図と、その地図内に複数浮かぶ青色の目印が表示される。


「三浦の魔道具のコードはこれです」


 一颯はとある青色のファイルのとあるページを開き、初理の手元にどかりと置いた。初理が作業を始めると分かってすぐに棚から取り出しておいた、依頼関係の書類をまとめたファイルである。


 初理は、綾香の魔道具内蔵の発信機に充てられた、英数字含む文字列を入力する。街全体を映していた画面が、とある一つの目印を中心にして縮尺を拡大させた。


 一颯はスマホの「tracker」と銘打たれたアプリを起動させる。初理がカタカタとPCを操作して、一颯のスマホの画面に、初理のPC画面と同じ光景が映し出された。


「問題なさそう?」

「はい。ありがとうございました」


 一颯はそう告げるや否や、部室を飛び出した。階段を駆け下り、受付前を駆け抜けて、外へ。相変わらずじめじめとした空気が一颯の身体に纏わりつき、一気に気力が削がれる。


 だが、一颯の足は止まらない。


 スマホの画面では、部室で見た時と同じ位置で青いピンが突っ立っていた。


 意図的に止まっているのか、動けないのか。場所は——彼女と待ち合わせた神社から更に行った、細い路地だ。現地点からの予想到着時刻は、全力疾走を継続し続けることを前提に、目算で今から五分後といったところだろう。


 常人なら、全力疾走という名の無酸素運動を五分もの間続けることはまず不可能。


 だが、一颯には少しも速度を緩める気配がない。一息で道路を横断し、通行人の横を走り抜け、近道とばかりに駐車場の柵を飛び越える。


 依頼を請けたことに対するあの時の後悔は、どんなに身体を動かしたって、一颯の中から消えてはくれない。


 だが、それはそれ。一颯は、自らの最大の目的を忘れてはいなかった。





 生命を脅かされることへの恐怖が、ぼろぼろの綾香を辛うじて繋ぎとめていた。


 綾香は両手で口を覆って息を殺し、震える身体を押さえつけて物陰に潜む。涙でぐしゃぐしゃになった顔もそのままに、彼女はひたすらあの男に見つからないことを祈っていた。


 助けはもう呼べない。転んだ拍子に、スマホは壊れてしまった。


 この場からも動けない。スマホが壊れたついでに右足を挫いて、それでも無理して動かし続けていたら、とうとう言うことを聞かなくなった。


 自分は今、自らの浅ましさに対する報いを受けているのだと、綾香は思った。


 綾香は、あの男を救おうとしていた。


 それは、傷つけてしまった相手に対する罪滅ぼしであり、自分が誰かの役に立つ存在であることの証明行為でもあった。


 だが、綾香はすぐに困難を感じて、簡単に無関係の人を頼った。


 こんなのは矛盾だ。


 罪悪感も承認欲求も自分だけのものなのに。


 あまつさえ人を利用して、解決しようとした。楽になろうとした。


 結局、自分が可愛かっただけなのだ。


 だから、罰が下る。悪いことをした者には、それ相応の苦しみが与えられる――


 そんな懺悔にも似た諦念と、得体の知れなくなってしまったあの男への恐怖が、綾香を完全に飲み込み、しかし、この二つが互いに同居は許さないとばかりにせめぎ合ってくれるおかげで、綾香はなんとか繋ぎ止められていた。


 だが、刻限は近い。その時が来れば、この均衡は崩れ、どちらかに振り切れて、綾香は壊れてしまうだろう。


 その先にあるのは、精神の破滅か身体の破滅か、それとも両方か。


 そして、遂にそれは辿り着く。

 

 彼女から見られない位置で、それまでは露わになっていた己の姿を消滅させ、限界まで身を丸くして耐え忍んでいる彼女の姿を、今、捉えた。


 今度こそ成功させる、あの時のような失敗は二度と繰り返すまいと、男は慎重にその路地に足を踏み入れていく。右手に持ったカッターが、男だけにしか聞こえないカタカタ音と共に、男だけにしか見えない殺意を反射させ始めた。


 否、男に殺意はない。命を奪うつもりは、男にはなかった。


 ただ、その不要な精神、人間性に、ちょっと退いてもらうだけ。そのくらいの権利は自分にもあるはずだと、男は信じて疑わない。


 光も満足に届かない物陰の目の前で、男が綾香を見下ろした。ゆっくりとしゃがみ込み、男の両腕が綾香の垂れ下がる首元へと伸びる。


「動くな」


 男は左手で綾香の首を鷲掴みにしつつ、カッターの刃を押し当てた。瞬間、綾香の身体が跳ねる。刃が少し食い込んで、首筋からつうっと血が零れた。


 綾香の身体の震えが勢いを増していく。瞳からは、大量の涙が溢れ出していた。


「お願い……もう……許して……」


 綾香は掠れる声で、次第に視界に映り始めた男へ許しを乞う。それは心の上げる悲鳴の一部が漏れ出たような、悲痛な願いだった。


「黙れ。しゃべるな」


 男はそれを一蹴する。だが、綾香にはもう、男の言葉を受け入れるだけの余裕がなかった。


「いや……いやっ! いやぁぁぁああああ!」


 限界だった。


 恐怖に締め上げられ、綾香はもう正常な思考もままならない。


「ぐっ、暴れんじゃねぇ……!」


 不規則に振るわれる手足が、男の身体を襲う。更に食い込んでいくカッターなど、綾香の頭にはもうない。


 そのうちに、振り上げられた足が男の鳩尾に食い込んだ。漏れ出す空気と共に、男は後退を余儀なくされる。




その一瞬、綾香の姿が再び周囲へ晒されたその時を、一颯は見逃さなかった。

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