第12話
仕事は当然クビになった。
警察沙汰でもおかしくないのを辰木の家族が内密にしたいということで、始末書で済むことになったらしい。
後見人として呼ばれた辰木の息子が施設長と話を終えて帰っていく姿を一瞬見たが、一重まぶたで丸顔の小太りな中年だった。
細身のスーツを着たあの男とは似ても似つかず、あの親子が一緒にいる家庭が想像できなかった。
前のホテルの同僚から連絡が来て、自分もやめて別のホテルで働いているが、人手不足だから来ないかと誘われた。
この街から電車で三十分、海沿いの小さなホテルで、中の宴会場は年に二度社交ダンス教室に貸し出しているらしい。
駅の近くのスーパーで買った菓子折りの箱を持って届けに行くと、施設は相変わらず生ぬるく、芳香剤と屎尿の混ざった匂いがしていたが、飾りつけだけはクリスマスのものになっていた。
トナカイやサンタクロースにサインペンで入れた黒い目を見ていると、やはり老人ホームより幼稚園だと思う。
事務所に向かうと、菊池の大声が聞こえた。
「本当にとんでもないでしょ! あんた、あの男が辞めてから入ってきて正解よ。あり得ないわよ。利用者さん誘拐するなんて。最初から何かやらかしそうな男だとは思ってたんだけどね……」
事務所のドアをノックすると、俺の後任の新人らしいひっつめ髪の女と同時に菊池が顔を上げた。
大川にだけはちゃんと謝っておきたいと思ったが、姿は見えなかった。
「いやだ、久しぶりだけど……いつからいたの」
俺は肩をすくめた。
「さぁ。でも、もういなくなりますよ」
袋を押し付けて事務所を出ると田端と出会った。
「お久しぶりです」
何か言いたげな表情に、「迷惑かけたな」というと、田端は目を見開いた。
「本当ですよ、 何してくれたんですか!」
真剣さに返って笑いそうになる。
「介護士も向いてなかったな」
「青井さん、何なら向いてるんですか」
耐え切れずに笑うと、笑い事じゃないですよと言いつつ田端も苦笑した。
帰り際、二○一号室を覗くと、荷物は一切なくベットの上にはきちんと畳まれたシーツと毛布だけが載っていた。
辰木はここに戻ってすぐ検査のため搬送されたというが、まだ入院中なのだろうか。家族が施設を移したのかもしれない。
昼間にこの部屋をじっくりと見たのは初めてだった。
記憶の中の二○一号室はいつも、悪魔が支配する夜だった。
カーテンの外された窓を見ると、丘の上の火葬場がよく見える。この部屋で、男は火葬場とダンス教室を見ながら、無限にも思える連綿とした日々を過ごしていたのだろうか。
目を凝らすと、火葬場の細い煙突が糸くずのような煙を上げていた。
不穏な想像を振り払うように目を逸らし、俺は踵を返した。
老人ホームの外に出ると、通りの街路樹は枯れ果てて、アルミニウムのような色をした空が広がっていた。
寒々しい初冬の光景だ。
往来に出た看板に蔦のようなイルミネーションの電飾が巻きついているが、看板自体が色褪せたカラオケスナックやマッサージ屋のものなのがかえって虚しかった。
通りを渡ろうとしたとき、道を塞ぐようにタクシーが一台停まった。
スライド式のドアから、喪服の三人組が下りてくる。
あの火葬場で煙に変わった故人の遺族たちだろうか。
通りの向こうにも黒づくめの老人が集団がいて、タクシーから下りた三人に手を降っている。
空のベッドと火葬場の煙、わざわざ施設の前に停車した喪服の集まりが重なり、想像が嫌な方へ加速する。
「まさか、な……」
鼓膜を湿すように低く静かに響いた、さよならだという声が蘇る。
俺は早足で喪服の集団に向かって歩き出す。
案外歩くのが早く、距離が縮まらない。
誰が死んだ。
老人たちの方には見覚えがあるような気がした。
線香の香りが鼻先で膨らみ、あともう少しというところで信号が赤になり、道を分断された。
無視して追いかけようと思ったが、弾丸のように飛び出してきた車に阻まれる。
息を切らして、俺は遠のいていく足並みを睨む。
足袋に質素な鼻緒の草履、静脈の浮いた太い足と黒いパンプス。
信号が青に変わる。
俺は駆け出して、後を追った。
足首に留め具がついた子ども用のサボ。傷の目立つローファー。
走りながら視線で追う林立する足の中、まだ数回も履いていないような真新しい人工革の黒い紐靴が目に飛び込んできた。
靴が底を見せるたび揺れるスーツの裾は、喪服にしては明るすぎるアイリッシュグレーだ。
線香に似た白檀を使った、古い香水の香りが漂う。
俺は足を止めた。
あの喪服の老人集団は、雑居ビルの社交ダンス教室で見た燕尾服の男たちではないか。
合図のように、空より一段明度の低い灰色の鳩が一斉に飛び立った。
「悪魔だ……」
呟いたとき、雑踏の中でエナメル質の光沢の革靴だけがくるりと回ってこちらを向いた。ワルツのターンだと思った。
靴の主は、黒い肩と肩の間で一瞬だけ俺の方を見た。
眼を歪め、完璧な微笑みを作ると、口角を上げたまま白い人差し指を立て、赤い唇に静かに押し当てる。
大型トラックが横切って視界を遮った。
一秒が気が遠くなるほど長い。
埃を濛々と上げて、やっと長い胴体が走り去った頃、女の命を吸って生きる悪魔は魔術のように消えている。
ただ、赤信号だけが、暗闇で吸う煙草の先端の炎のように燦然と煌めいていた。
火葬場のインクバス 木古おうみ @kipplemaker
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