第8話


 ウェーブススライムの騒動で、前とも後ろとも距離が出来てしまう。ようやく前を行く人たちの背中が見えたのは港付近で、そこでは屈強な男たちとの腕相撲が行われていた。たかが腕相撲。されど腕相撲。力比べに精を出す男たちからすれば熱狂の戦いだ。実際、並んで腕相撲をする参加者たちとマッスルたちの周りには野太い歓声を上げる男性たちが集まっているし、これまでのコースではいなかった現場実況までついている。中には筋肉好きの女性も交じっているが、その眼差しはとてつもなく熱い。

「こちらの関門は1人に勝つと先に進めます。10回負けたら10分以上待機ですのでご注意ください。女性はあちらになります」

 スタッフの男性に招かれ、いいのかな、と思いながら私は女性列に向かった。そして、問題なかったな、と思うことになる。待ち構えていたのはこの町で5本の指に入るほど大きな漁船の船長をやっているアロンザさんという女傑で、顔立ちの彫りの深さと筋骨隆々な体躯が相まって、美女というより美丈夫のような女性だ。ちなみに。

「うん? エレンじゃないか。しばらく引きこもってるとか聞いてたけど、やっと出てきたのかい。あんまり母ちゃん心配させんじゃないよ」

 ――母の古くからの知り合いで、私のことを子供の頃から知っている人で、未だに勝てる気がしない相手のひとりだ。

「さあかかってきな。これまでの女は相手にならなくてね。あいつの娘なんだから、ちったぁ楽しませてくれるんだろう?」

 机の上に強く置かれた肘と、待ち構えるごつごつした掌。正直他の人に代わってもらいたいところだが、ここは逃げるわけにはいかない。困難は超えていく。これは愛の試練だ。

 私は何度か深呼吸を繰り返し、アロンザさんの前に用意された椅子に座る。サイズ差があるので、私の肘の下には机と同じ幅の長方形の台が置かれた。そうして組んだ手は正しく大人と子供。手は大きい方だと思っていたけど、アロンザさんの前では微々たるものである。

「レディー……」

 私たちの手を、審判役のおばさんが握った。そして

「ゴー!」

 合図とともに手が離され、私はその瞬間に全力を右手に注ぐ。にもかかわらず、お互いの拳は小刻みに震えたままほとんど元の位置に留まっていた。

「はっはっ、強くなったじゃないかエレン。だがこんなものじゃまだ、負けてやれないよ」

 アロンザさんの二の腕の隆起が大きくなる。それに応じて込められた力に耐え切れず、私の腕はどんどん押し切られ、ややあって、抵抗もむなしく手の甲が台についてしまった。

「勝者アロンザ。残りカウント9。相手を変えることも出来ますが変えますか?」

 審判のおばさんがやけに誇らしげに尋ねてくる。勝てない相手なら変えるのも手だろう。これはあくまでもレースの障害のひとつでしかないのだから。けれど、困難には立ち向かうと決めたばかりだ。

「続けます。アロンザさん。もう一回お願いします」

 腕組みをしてどっかりと座っていたアロンザさんは、にっと笑みを閃かせ、再び腕を台に置く。

「それでこそヒルダの娘だ。気合入れな」

 それから繰り返すこと7回。気合とは裏腹に、私はその全てに敗北していた。あと2回。私に残されているチャンスはそれだけだ。

 どうしよう。もう右腕の感覚がほとんどない。

 やっぱりアロンザさんに勝つのは無理なの?

 確実に先に進むなら、他の人に変えた方がいいんじゃないの?

 追い詰められていく感覚に、私の思考はぐるぐると回りだす。もう何人に置いて行かれた? もう何人に追い抜かれた? このままでは優勝どころの騒ぎではない。心臓がばくばくと鳴り始める。

「顔も体も引きつってるよエレン」

 声をかけられてはっとした。声をかけてきたのは正面にいるアロンザさんだ。鳶色の双眸と目が合った時、ようやく息を止めてしまっていたことに気付き、急に苦しくなって深い呼吸をする。

「そういえばさっき、浜の方で大騒ぎだったみたいだねぇ。何でもウェーブススライムが出たんだとか」

 世間話をするような口調でアロンザさんはのんびり話し出した。つい先ほど自分に起こったことに、私は自分でも情けないほど弱々しく肯定する。

「危うく祭りの日に殺生するところだったけど、参加者の娘が水ぶっかけて冷静にさせたから事なきを得たそうじゃないか。凄いねぇ、あたしにゃ出来ないよそんなこと」

「……いや、あれは、偶然大きい波があったからすぐに落ち着かせられただけで、波がなかったら足元かかる程度しかかかってなかったと思う、し……」

 褒められる言葉がまるで最後の慰めのように聞こえて、一層心が重くなった。すると、頭の上が物理的に重くなり、ぐりんぐりんと動かされる。驚いて顔を上げると、アロンザさんはにっと歯を見せて笑った。

「凄いことだよエレン。あたしには剣で水を巻き上げてでっかいスライムにかけるなんて出来やしないからね。いいかい? あたしには出来ないことが、その娘には出来たんだよ。その娘が体に入った余分な力抜ければ、あたしじゃ勝てないだろうねぇ」

 大きな手が離れていく。そのまま素直に受け取るのなら、アロンザさんは、私がアロンザさんに勝てると言った。勝てる? 私が? いやいやそんなこと……と頭が否定しようとするが、不意に、それがアロンザさんが言っていることなのかと思う。

 体が引きつってる。確かに、自分でもそれは思っていた。上手く力が出せない。単純に気負っていたり焦っていたり、あるいは疲れていたりしたからだと思っていたけど、いや、実際それもある。でも、もうひとつあるのではないだろうか。そう、「絶対に勝てない」と思い込んでいる、という理由が。

 アロンザさんは人の子供だからと叱る手は緩めない。やんちゃな子供だった私は兄や弟、あるいは友人たちと遊んで悪いことをした時などひどく叱られたことが何度もあった。それもあって、「普段は豪快でいい人だけど怒らせると怖い」という印象が彼女にあるのだ。だから未だに「この人に逆らっちゃ駄目だ」と思ってしまう。

 けれど、本当に今も勝てないか、と冷静に考えるとそうでない気がしてきた。まだまだ現役とはいえアロンザさんも年を重ね全盛期よりは衰えているだろう。そして私は、年を重ねて自分でも望んでいない以上に力を付けた。


 本当に、今も勝てない?


 頬を強く張り、深呼吸を繰り返してから、私はキッとアロンザさんを見上げる。

「もう1回、お願いします!」

 強く乞えば、アロンザさんは面白がるように口の端を吊り上げ、大きな手を机の上で構えた。私は今まで通りそれを握り返す。お互いの拳が握り合われてから、開始の合図がされるまでの間、私は意識的に呼吸を繰り返した。全身に酸素を回す様に、滞っていた力を押し流す様に、ゆっくりと、確かに。

 審判の女性が開始の合図を出す。私は一瞬で右手に力を込めた。先の8回とは比べ物にならないほど上手く腕に力が乗っている感覚がする。少しの間頂点で拮抗していた私たちの手は、徐々に徐々に片側に押され始めた。周りがざわめく。予想だにしていなかったのだろう。私だってこんなにうまくいくとは思っていなかった。

 アロンザさんの思惑通りだろうか、私の手は、少しずつ彼女の手を机へと近付けている。負けじとアロンザさんの二の腕や前腕部が膨れ上がるが、それでもじりじりと下がっていくのは止められない。

 もう少し、あとちょっと。周りも息をひそめ見守ってくれている中、予想外の音が場を割った。私たちの手を乗せていた台が、中央から真っ二つに割れてしまったのだ。木片が飛び散り、前方に力を込めていた私とアロンザさんはそれぞれ前のめりになってしまう。転びそうになるのを足を踏ん張って耐えつつ、私はアロンザさんに腕を伸ばしてその巨躯を支えた。ずしりときた重さは先ほど背負った岩以上だが、そこは一応女性相手。我慢して口は閉ざす。

「やだ船長大丈夫ですか? エレンちゃんも」

 審判の女性が慌てて声をかけてきた。体勢を立て直した私とアロンザさんはそれに「大丈夫」と返し、アロンザさんは加えて「エレンが支えてくれたからね」と笑顔で背中を叩いてきた。

「えっと、これ決着はどうしたらいいんでしょう?」

 周りをきょろきょろと見回して審判の女性は別のスタッフに判断を仰ぐ。視線が集まった壮年の男性スタッフは、顎に手を当て唸った。

「決着の前に台が壊れたから、仕切り直しを――」

 恐ろしい結論が耳に届き私は冷や汗を流す。今のもう一度やれと言われて出来る気がしないんですが。異議を申し立てるべきかと言葉を探す言下、私より先にアロンザさんが待ったをかけた。

「馬鹿言ってんじゃないよ。どう考えてもあたしの負けだろうが。あの位置から逆転なんて出来ると思ってんのかい」

 じろりとプレッシャーをかける睨み方をされ、男性スタッフは「せ、船長がいいのでしたら」と前言を撤回する。

「それでは、勝者エレン! 関門クリアです。先にお進みください」

 こほんと咳払いをしてから、審判の女性が高々と宣言した。応じて、周りで動向を見守っていた観客たちから歓声が上がる。私は深い息を吐き出してから、スタッフさんに誘導されるままレースを再開した。

「エレン、頑張んなよ!」

 一度だけ、背後からの応援に応えるため振り向き、今度こそ私は前だけを向く。


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