第7話


 やがて見慣れた海が近付き、私は前を走る人たちに続いて浜辺に出た。そのすぐ近くにハーフチェックポイントがあり、たどり着いた参加者のそばにスタッフの人たちがすぐさま駆け寄る。

「現在2254位です。あと半分、頑張ってください」

 道中何人も抜きはしたが、やはりあの鐘鳴らしで大分人がだまになっていたのが効いたらしい。想像以上に追い抜けていた。かなり上に来た順位に、私は素直に頬を緩ませる。そんな私に共感してくれたのか、母と同じ年頃の女性は同じく笑顔でぽんと私の背中を叩き、送り出してくれた。私はお礼と共に走り出す。

 折り返し、とは言っても今来た道を戻るわけではない。今度は港の近くの洞窟道に入り、そこからまた別の道に抜けていくのだ。

 つまり、まずはこのさらさらした砂浜を抜けなければならない。恋人と砂浜で追いかけっこ、なんて憧れのシチュエーションだったけど、私は今日この時からそれを捨てる。何なのだ、この足腰に来る強烈な負担は。さらさらと崩れていくから、普通の整備された道はもちろん、土や岩のように強度のある所のように力を入れることもままならない。転ばないようにバランスを取りながら進んでいくと、前方から歓声――じゃない、悲鳴が聞こえてきた。さらに近付いていくと、うごうごうごめく巨大な何かが何事かを叫んでいる。

『わっちの水分がーーーっ! いやああああっ、消滅する! 蒸発するーーーっ!!』

「暴れんなこら! 何でこんなでっかいウェーブススライム打ち揚がってんだ!」

「やーっ、痛い痛い痛い! 砂跳ね上げないでぇっ!」

「こんな暴れられてたら先に進めな――ぶっ!」

「触手振り回すなスライムー!」

『わっちの水分がああああああ!! 海っ、海はどこーーーーーっ!!』

 なんという地獄絵図。コースを埋めるほど巨大なスライムが無数の触手を振り回して大暴れしている。あのスライムはウェーブススライムという、海の中に生息するスライムだ。性格は温厚で、海で溺れている生き物がいるとあの触手で海から引き揚げ陸地まで送ってくれるという大変優しい生き物である。の、だが、今はその触手が人々を傷つける武器となっていた。

 私はその様子を見て、いや、この現状を引き起こした理由を察して、嫌悪に耐え切れず舌打ちする。

「……どこの馬鹿だ、こんな所に召喚したの」

 ウェーブススライムは元々波間を生きる水分の多い生き物なので、体は軽く、陸地に打ち揚げられているのを発見されることは少なくない。その際に水分が蒸発しきって死ぬ直前までいったり、あるいは死んでしまうものもいるので、あのウェーブススライムの恐慌は理解出来た。だが、そもそもあのサイズのウェーブススライムが打ち揚げられるなどありえない。いくら元々が軽くても、あのサイズになれば波が攫えないほどの重量になる。波に攫われたのではなく、自らの意思で来たわけでもない。ならば、あのスライムは間違いなく誰かに召喚されてここに現れたのだ。

 暴れるウェーブススライムは手がつけられず、駆け抜けようとした者たちが次々に触手でなぎ倒され、安全地帯と思っていた場所にいた者たちもどんどん伸びるそれに打ち倒される者が出始める。流石に騒ぎに気付いたらしく、腕に覚えがあるスタッフが次々やって来た。

 このまま待っていればスライムは退治され、レースは続行されるだろう。


 ――でも、それでいいの?

 ――こんな所に無理やり連れて来られた子を、殺すの?


「いやいやっ、そんなの駄目に決まってんでしょ!」

 早く先に進みたい気持ちは強いけど、大泣きして大混乱のウェーブススライムがむざむざ殺されるのを見ているわけにもいかない。

「おじさんそれ貸して!」

「えっ、あ、おいちょっとお嬢ちゃん!?」

 私は近くに来ていたスタッフのおじさんの腕から大剣をもぎ取り、海の方へと駆け出した。それとほぼ同時ぐらいに、観客からひとりの男が飛び出してくる。見るからに優男な彼は、分厚い本を抱えて短めのマントをひるがえしていた。何か口上を述べているのかたくさんの人の視線がそちらに集まっている。もしかしてあいつじゃないか犯人、という邪推をしながら、私は腰ぐらいまでの深さで立ち止まり、振り返った。

 ぐっと腰を落とし、柄を握る両拳に、腕に、体に、足に、力を込める。引いては寄せる波に足が取られそうだが、そこは踏ん張った。

「お・ち・つ・きぃぃ」

 剣の面がスライムに向くように垂直に構え、大きく体をじる。限界まで体を捩じってから、私は強く踏み込んだ。

「なさーーーーーーーーいっっっ!!」

 叫ぶ言下に体の位置を戻し、剣を前へと押し出す。同時に偶然起こった大波にも助けられ、私が想定していた『ほんの少しだけでもかかればいい』程度の量の優に5倍ほどの量の海水がスライムにかかった。近くにいた人たちも巻き込まれたようだが、そこは諦めてもらいたい。私も流されましたからね背後からの大波に。

 流される中、不思議なほど体勢は崩れず、私はウェーブススライムの上、くりんと丸い目の前に降り立った。海水を浴びたおかげか、スライムはきょとんとした様子で大人しくなっている。

「落ち着いた? 海あっちだから。帰れる?」

 声をかけると、ウェーブススライムはぱあああと花開くように明るい様子で海を見やった。

『帰れる! わっちのおうちあっち! ありがとう人間さん!』

 優しく触手で掴まれ、私は触手の伸びる範囲いっぱいの先の地面で下ろされる。レースをやっている、と分かっているわけではないだろう。これはウェーブススライムが溺れていた者を陸地に戻す時の習性だ。なるべく海から遠くへ、という。

 ウェーブススライムは嬉しそうに海に戻っていき、何かしようとしていたらしい件の男は慌ててそれを止めようとしてスタッフに囲まれた。やっぱりあいつかな犯人。魔法使いか召喚士っぽいし、自分が参加出来ないのが不満な過激派かな。

 そんなことを予測しながら、私は先へ進んでいいのか駄目なのか逡巡する。ウェーブススライムのおかげで元の位置から大分進めたが、これはズルにならないのだろうか。あとこの大剣どうしよう。

 後ろを見て前を見てを繰り返していると、スタッフの腕章をつけているハルピュイアの女性が近くに降り立った。

「お姉さん、ここの責任者の人が進んでいいよって。お姉さんのおかげでめでたいお祭りの日に殺傷沙汰にならずに済んだから」

 あ、その剣も返しておくからここに置いてっていいよ。そうカラッとした笑顔で言われ、後ろ髪を引かれていた事案が同時に解決した私は今度こそ改めて前を向く。

「伝えてくれてありがとう、それよろしく!」

「どーいたしましてー。頑張ってね~、海の宝石に愛されたお姉さーん」

 海の宝石? 聞き返したかったけど、これ以上立ち止まってもいられないのでそのまま先に進んだ。するとすぐに、不殺の解決をしたことを褒めてくれているのか、熱と風の小さな精霊たちがこぞって群がり私の服を乾かし始めてくれる。毎度思うが、この町の精霊は随分人に優しい。他の地域でも上手く交流しているところはあるのだが、ここまで協力的な場所は今の所私は見たことがない。だからこそ、この町の口上は「海と精霊と生きる町」になったのだ。

 精霊たちの厚意に甘えながら走りつつ、私はちらりと海に視線を向ける。先ほどから、不思議に思っていることがあった。

(あんな大波出来るほど波引いてたかな……?)

 大きな波が出来るためには波が引く必要がある。けど、私が海に入っている間、そんなに大きく水は引いていなかった。ハルピュイアさんが言っていた「海の宝石」に関係あるのかな?

 しばらく考えたが答えは出ず、私はこれを「お祭りの奇跡」「海神様のお力添え」ということにすることにした。


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