第2話 ボクは勉強しかできない②

黄疸おうだんがでてるじゃない!明日ははやてのコンクールなのに…嫌がらせ?落ちたらあんたのせいよ、あんたなんか産むんじゃなかった!」



 あるし暑い夜、塾から帰ってくると母が僕を見て顔色を変えて怒鳴った。気が付かなかったが洗面所で鏡を見たら白目の部分が黄色になっている。でも。


(これもボクのせい?)


 イラっとしたボクは洗面所まで追ってきてまで小言を言い続ける母に初めて口答えした。


「好きで母さんから産まれて病気になったわけじゃない!なんでもボクのせいにするのは止めてよ、自分がピアニストになれなかった腹いせをボクらで晴らしてるくせに!」


 ボクは母に向かってずっと思っていたことを言ってしまった。

 顔面が真っ白になった母を放っておいて自分の部屋に戻り、壺をしっかり手に取って部屋を出た。階段を降りていると、母が拳を振り上げて向かってきた。

 母は筋が立った拳で殴ろうとしたが、ボクが避けるなんて思ってもみなかったようでバランスを崩して階段3段をゆっくり転げ落ち動かなくなった。


 世界から音がすべて消えてボクは茫然と固まっていたが、しばらくして母がもぞもぞと動くのを見てホッとした。

 ボクは床でうずくまる母を避けるように歩き、壺を持ったまま家から転がるように出た。母が怖くて今すぐに逃げたかった。


「タカシ!」

 

 兄の声が背後から聞こえる。その声には非難の響きはなかったが、ボクは無視した。




「タカシ、家に戻ろうぜ。心配なんだろ?あの母親は悪い方かもしれないが、でも最悪ではない。あと6年我慢して家を出ればいい。いつもタカシがぶつぶつ言ってる通りだ」


 夜の公園にボクは逃げ込み、ユンジュンがグニグニといつものように壺から出て隣に座った。彼がボクのつぶやきを聞いていたと知って赤くなった。


「それに、タカシは気が付いてないみたいだが、あの兄は心配だぞ」


「兄ちゃん?母さんのお気に入りだからきっとボクに怒ってる。明日がコンクールなのに、って」


 ユンジュンはゆっくり頭を振った。


「…タカシの兄は母親を憎んでいる。おまえより深くな。助けられるのは弟のおまえだけだ」


 ボクは小さな頃の兄しか知らない。今、知っているのは彼のピアノの音だけだった。


 兄のピアノの音色からは、苦しみや悲しみ、恐れが伝わってくる。それは自分の心持ちもあってそう聞こえるのだと思っていた。


(でも…もし聞こえた通りの気持ちで兄がいるのなら…?)


 ボクは壺を抱えてもと来た道を走った。ユンジュンがぎゅるりと壺に飛び込んだ。そんな時も、壺にユンジュンが入っても重さが変わらないとは質量保存の法則に則ってないのだな、などと考えていた。

 太い身体が思うように動かず憎らしい。


(病気はもう治ってきたし、絶対ダイエットするんだ!黄疸なんて知ったことか!!)


 そんな風に思ったのは初めてだった。


 やっと家の灯りが見えた時はホッとした。家に帰って安心するなんて久しぶりだった。父の車はない。


「兄ちゃん!」


 玄関ドアを勢いよく開けると、階段下で母に馬乗りになってさしみ包丁を両手に握り、突き立てようとする兄がいた。

 兄はなぜかボクを見てくしゃりと笑い、ボクは心底ぞっとした。

 それはボクが頑なに見ようとしなかったものだ。どろりとしたがこの家にあるのを知っていたのに。


「タカシ…オレはもう限界だ、楽になりたい。責めはオレがすべて背負うから…」

「ダ、ダメだよっ!」


 ボクは猛ダッシュで兄にタックルした。

 2人でからまって廊下に転がり、鈍い音をたてて壁にぶつかって離れる。包丁はくるくる回りながらスライドして廊下の突き当りのキッチンのドアにビイィーンと音をたてて刺さった。

 二人共汗だくだ。ボクが兄にずりずりと這いずって近寄ると、兄は上半身を少し震わせて息を吐き、丸まった。


(良かった!)


「に…兄ちゃんは母さんに愛されて幸せだと思ってた。ごめん、ボク全然わかってなかったよ…」


「オレは…母さんの人形でいる方が楽だった。でも、さっき母さんがタカシに『産むんじゃなかった』って言うのを聞いてたら、自分もピアノを弾けなくなったら言われるんだって…もう終わらせたいんだ」


「ボクはいやだ!あと何年かしたら、いや、今からでも伯父さんちに二人で逃げ込もう!おばあちゃんもいるしなんとかなるよ…」


 必死で言うボクに、兄は頭を下げ手を伸ばした。


「タカシ…オレは頭が悪いからな、ごめん…」


 ボクはバカみたいに汗だくで必死に兄にしがみついた。

 

(兄と話して触れるのは何年振りだろう?)


 ボクは兄を生身の人間じゃないように扱ってきた。

 ただの風景のように。家具のように。

 でも兄も辛かったのだ。

 

 ふと見ると母が上半身を起こしこちらをぼんやり見ていた。ボクと兄は同時にビクッとした。


「明日はコンクールなのよ!」とヒステリックに騒ぎ出すものだと思ったが、何事もなかったのように立ち上がり、固定電話からどこかに電話をかけている。


「隆、病院に行きましょう。もう二人共ピアノは弾かなくていい。習いたいのなら先生を紹介するから」


 どこか憑き物が落ちたかのようにすっきりした、でもやはり少し怒っている顔で、母が言った。声はいつもより2オクターブも低くて穏やかだ。


 それはボクが知らない女性の声だ。

 伯父さんが「いつかきっとタカシもわかるさ」と言ったのを思い出した。伯父が知っているのはこっちの母なのかもしれない。


 兄は空気が抜けたボールのようなへにゃりとした顔をしている。同じく母の変化を感じ取ったのだが付いて行けてないようだ。

 重過ぎる荷物をずっと運んできて、ふいに降ろされて困惑した牛のように。


「兄ちゃん、ボク母さんと病院に行ってくる」


「き…気を付けて」


 急に日常が戻って来たが、ドアに刺さっている細長いさしみ包丁がさっきまでの非日常を証明していた。ボクは思ったより深く刺さった包丁を両手で抜き取り、台所の流しの棚の包丁入れに戻し、待ってくれている母の車に乗り込んだ。





「で、その人は誰?」


 兄はユンジュンが見えるようになった。


 今まで彼が家中を徘徊はいかいしていても誰も気に留めなかったのに、不思議な事もあるものだ。生体の波動なるものが合うと見えるとユンジュンが言ったので、きっと兄の何かが変わったのだ。


「ああ、中国の人だよ。リャン・ユンジュン。見守ってる」と兄に説明する。兄は堂々とした麗人れいじんであるユンジュンを遠巻きに、でもじろじろ見た。


「へー、すごいな。最近誰かの気配を家の中に感じてたんだ。伯父さんからもらった壺に住んでるの?」


「そうだ。宜しくな、兄。しかし兄弟二人共が見えるなんて初めてだぞ」


 そう言われるとなんだか嬉しくなってボクら兄弟は目を見合わせた。


「もう何年くらい日本にいるの?」と兄が質問する。


「遣唐使だったおまえたちの先祖の故郷に来て…1400年くらいだろうかな」


「へー!」とボクがあまりの時間の長さに驚きの声をあげると、


「へー、って、タカシはおおざっぱ過ぎ!めちゃめちゃ不思議だよ?」と兄が呆れた。

 同じ波動を持っていても性格は全く違ってボクはおおざっぱなのだ。


「だってさ、母さんよりユンジュンの方がなことを言うからおかしいと思えなかったんだ」



 母はすっかり変わってしまった。


 ヒステリックにわめいて家にずっといた母が、音楽仲間のサークルに入って施設で慰問演奏なんて始めた。ずっと誘われていたらしい。

 母子3人で話すことも多くなった。一緒に料理も作る。

 ボクは自分の部屋以外の掃除もするようになった。僕の担当は玄関だ。兄はピアノがあるリビング。

 そして母の深い孤独に気が付いた。

 母は家族の生活を黙って支えていた。掃除洗濯炊事の無償労働。そこに感謝はない。当然の恩恵おんけいだと思っていたボクは明らかに傲慢ごうまんだった。

 優しい兄はわかっていたから、ずっと大人しく母の言うことを聞き入れて生きてきたのだろう。


 兄は音大を目指すためのピアノ教師についた。


「今回でやっぱりオレは音楽が好きだってわかった。なんでもいいから音楽に関わって生きていきたい」と恋の話をするかのように恥ずかしそうな兄は、とてもまぶしかった。

 好きなものがはっきりしている兄が羨ましく思う。だってボクには好きなものが一つもない。


 部屋で勉強していると、階下から兄のピアノの音が聞こえる。

 明るくてまん丸いキラキラの珠のように光る音。光を反射して輝く透明なそれは心にすっと染み込んで生きる栄養になる。


「前と全然違う」とユンジュンが壺から出てうっとり聞き惚れながらつぶやく。


 嬉しかった。伯父もいたら同じように言うだろう。


 ボクはもう自分が勉強しかできないなんて思わなくなっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る