第3話 メンデルスゾーンはお好き?①

 夏休みの最終週。


 小学生が空気がしぼみ始めた風船のようになる時期だ。

 塾から帰宅すると、白い外壁に茶色の窓枠の洋風のボクの家の中からチェロとピアノの合奏が聴こえてきた。隣地の薄暗い杉林から聞こえるヒグラシの高いカナカナカナという声との3重奏となり美しく響く。


(メンデルスゾーンのチェロ・ソナタ第2番…)


 ボクは苦い表情を引っ込めて玄関のドアを開け、大きな音をたてて閉めた。


「ただいまぁ」


 肉を揺らしながらまっすぐキッチンに入り、グラスに牛乳を注いで飲む。机に夕食の支度はない。

 ボクは使ったグラスをシンクで洗って水切りに入れた。

 

(別にいいけどさ)


 ボクらを解放した母は好きなことを始めた。家事の手を抜いた母が楽しそうでボクらは自然と笑顔になった。

 

(でも家で母がと二人でいるのは気に入らない)


タカシ、おかえりなさい。やだわ、もうこんな時間!」


 ボクが居間に入ると、母は時計を見て目を丸くした。騒々しく帰宅したのに聞こえてなかったようだ。

 母たちは練習を中断して立ち上がり、やたら嬉しそうに冷蔵庫から麦茶を出してきて、居間にあるふたつのグラスに注ぐ。トクトクと気持ちのいい音が居間に響いた。


(メンデルスゾーンなんて大嫌いだ、あんな恋人をとっかえひっかえの浮かれ作曲家!)


 ボクの思いに母は全く気が付かず、合奏の改善点を若い丸眼鏡のチェロ奏者の男と話し合っていた。




「ご馳走様でした。では綾子あやこさん、また来週。タカシ君、今度こそ君のピアノを聴かせてくれよ。」


 夜ご飯は弁当かと思っていたが、圧力鍋で作ってあった。ボクの好きなインドカレーだ。

 すりおろした玉ネギと合い挽き肉とモモ肉のぶつ切りを煮込んであり、ナンで食べる。母はナンにハチミツをかける。


 カレーは美味しかったが、それをこいつも一緒に食べたのが気に入らない。

 チェロを背負った丸眼鏡は玄関でボクにお世辞を言った。


(聞きたくもないくせに!子供をめてる)


 母の隣に立つボクの背は夏休みに急に高くなっていた。縦に伸びたせいか少し横が細くなり、兄のお古の服も着れる。


「私も聴きたいけどこの子ピアノが嫌いなの。突き抜けた痛快な演奏をするのよ」と言いながら母はボクの肩に手を乗せた。


 母がボクのピアノをそんな風に評価していたなんて初めて知り、思わずかあっと頬が赤くなるのがわかる。


「じゃあな、!」


 ボクが会話を切るように冷たく言い捨てると、丸眼鏡は少し切なそうに笑って出て行った。


(ちぇ…)


 ふと隣の母を見ると、同じ高さにある顔が彼がいない玄関ドアをうっとり見ていた。




「ふうん…それはアレだ。メンデルスゾーンっていえば恋だろ?」


 訳知り顔でliàngyún jūn がボクこと坂上隆さかのうえたかしと兄・坂上颯さかのうえはやてに言った。

 壺が乗ったタンスに180センチはあろうかという長身でもたれかかって黒い長髪をかきあげる。どんなポーズでもやたらカッコいい。


 リャン・ユンジュンはボクの部屋の派手な壺に住む超絶美形黒髪中国人だ。壺は亡くなった伯父にもらった。

 きらめく黒い瞳とつややかな黒の長髪、切れ長の目とすらりとした鼻、柔らかい笑みをたたえた上品な口元。見れば見るほど端正かつ麗しいつらだ。

 別次元レベチなのでデブスなボクは悔しいという気も失せた。


 彼はボクの部屋にある高さ1メートルの極彩色の壺に住んでいる。

「坂上家を代々守ってきた」と本人は威張って言っているが、実際は何もしない。ただいるだけだ。

 ユンジュンはボクと兄にだけ見える。

 母と父、そしてあの丸眼鏡チェロ野郎には見えない。試しに公園で壺から出てもらったが、誰も気に留めなかった。


「な、なんでメンデルスゾーンをユンジュンが知ってるんだよ!」とボクが言うのと、兄が「確かにね」と笑うのが同時だった。


 メンデルスゾーンといえば恋に浮かれ迷惑な人生を送った人物で有名だが、それをユンジュンが知ってるのが不思議だった。


「俺が何年生きてると思ってるんだ?おまえらの母親、昼過ぎにあの丸眼鏡男が来てからずっと同じ曲を演奏してるせいで耳にタコができたよ」 


 兄とユンジュンが言うのは母が丸眼鏡にでなく恋してる、ってことだった。


(なんだ…)


 明らかにホッとしたボクに、


「おいおい、母さんが恋するわけないだろ」と兄は言ったが、ユンジュンはにやにやしてる。


 ボクの母はそうでもなくてもあの丸眼鏡チェロ野郎は母を狙っている。


(なんでそれを知っているかって?やつのチェロの甘い音色でわかるんだ!)




 ということで、今ボクは丸眼鏡を尾行している。学校帰りに塾に行く途中、駅で彼を見かけたのだ。

 塾はサボる。そんなことしたのは初めてだったが、一応後で塾に連絡を入れておけばいい。


『お腹が痛かったので休みました、母がいないのですいません』などと言っておけば「お大事にね、温かくして寝てるのよ」なんて心配されるかもしれない。


(くそっ、嘘なんて…全部丸眼鏡のせいだ!)


 丸眼鏡はスンとした顔で街中の地下スタジオに入っていった。

 鋳物のドアの分厚いガラス窓からのぞくと、中には10人くらいがいろんな楽器を持っている。


 ボクが覗いていると、「何してるの?」と背後から野太い声をかけられた。


「い、いえ、何でもないです…」


 ボクは急いでその場を離れようとしたが、その熊のような男に行く手を阻まれてしまった。



「へー、綾子さんの息子?可愛いね、何歳?」

「12…歳です」


 ボクは楽器を持つ若者に囲まれてジュースを飲まされていた。演奏の休憩時間だ。母の音楽大学の後輩らしい。


「ほら、射るならまずは子供からよ!」とボクの隣の綺麗な女性に言われた丸眼鏡が「うるさいな」と言って彼女を睨んだ。

 

(ふーん、母の前では大人しいくせに)


 そう思っていたらボクを捕まえた熊男(なんと楽器はピッコロだ!)が、


「『ブラームスはお好き』みたい!ロマンチックぅ」と低い声でうやましましそうに言った。


(ブラームスはお好き?)


 なんだろう、と思っていたら、隣の女性が親切に教えてくれた。





(むむ…要するに、この本の主人公の女性ポールがボクの母、父がロジェ、丸眼鏡がシモンってことか…)


 ボクはさっそくサガンの『ブラームスはお好き』を図書館で借りて読んだ。顔なじみの図書館司書のお姉さんが「坂上君がこれで感想文書いたら先生はさぞ驚くでしょうね」と笑いながら探してくれた。


 確かに、ボクの母も39歳、父は少し俺様だし、丸眼鏡は20代で若々しくて、当てはまるっちゃあ当てはまる。


(でも、なんか嫌だ。ボクらの母さんなんだ…)


 今日は一度も勉強をしていない。ボクがため息をつくと、


「こほんこほん、色を好まざるは聖賢せいけんのほか、まれなるべし」と芝居がかったユンジュンが壺から出てきた。


「な、なんだよ、それ。呪文?」とボクが意味が分からなくて驚くと、


「おいおい、日本人だろ?『土芥寇讎記どかいこうしゅうき』も読んでないのか?江戸時代のかなり評判の書物だったのだぞ?」とわざとしかめっ面をして答えた。


「ど、どかい…?知らないよ!ボクたちは受験勉強に役立つことしか教えられないんだから」


 彼はふくれたボクを横目に説明を始めた。


「江戸幕府の隠密が、水戸の徳川光圀みつくにを評して『色を好まないのは、聖人君子のほかは稀だ』と書いてるんだ。要するに、名君徳川光圀であろうと女を好むものだ、とな。文宣王ぶんせんのうと送り名をもつ孔子コンツーでさえ、『吾、色を好むごとく、徳を好む者を、いまだ見ざるなり』とのたまっている。これは、『私は長く生きてきたが、美女よりも道徳が好きな人間をまだ見たことがない』ってことでな…」


「あーもう!わかったよ、要するに人間は恋をするものだ、ってことだろ」


 早く話を終わらせたくて話を切ったボクの心を見透かして、ユンジュンはニヤニヤしている。


「タカシも恋をしたらわかるさ」と言った。


 でもユンジュンは、『ブラームスはお好き』を読んでいないからそんな冷静な事を言えるのだ。


 母が丸眼鏡に恋をして『シモン、もう、私、お婆さんなの、お婆さんなの』みたいな切ないセリフを言う羽目になったら、あまりに母が可哀想だ。かといって、ボクらをてて家を出て行く母を応援もできない。


 結局ボクは母が恋をするのが嫌なのだ。

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