ボクは勉強しかできない

海野ぴゅう

第1話 ボクは勉強しかできない①

「このつぼを大切にするんだ。タカシをきっと




 ボクは学校帰りに電車に乗って病院に来た。塾は休みだ。


 ボクが病室に入ると、伯父はベッドで上半身を起こしていた。

 酷くやせていたが顔色が良いのを見て酷くホッとした。昨夜両親が伯父の病気が重いと小声で話していたのを聞いてしまい、寝られなかったのだ。

 拍子抜ひょうしぬけしたボクは、大好きな伯父に会えなかった1か月分の話をした。


 学校のこと、受験志望校のこと、塾のこと、近所の白い犬のこと。


 落ち着いてきたボクに伯父は微笑ほほえみ、枕元の壺に手を伸ばした。


 病室になぜがあるのかと気になっていた。伯父がとても大切にしている壺なのに。

 伯父は病院のベッドで不思議な笑みを浮かべて、高さ1メートル・胴回り60センチはあろうかという白地に中華風極彩ごくさい色の絵柄の壺をボクに手渡した。

 小学6年生にとっては結構大きい。

 ボクは壺を割らないよう病室のすみの机に慎重に置き、伯父のそばに戻った。

   

「いいの?」


 兄ではなくボクに、というのが気が引けてたずねた。


「もちろん。間に合って良かった」と言って苦笑いしたのだった。


 ボクらはその後も沢山話をした。

 宇宙、鉱物、海、外国。

 伯父の話でボクの小さな世界が広がる。そんな宝石探しのような時間は終わり、いつの間にか外は暗くなっていた。


「もうお帰り。綾子あやこさんが心配する」


 伯父はいつものように優しくボクの頭をでて言ったが、その手のがいつもよりもずいぶんと弱弱しいことにボクは気が付かない振りをした。

 伯父の顔色は明らかに悪くなっている。ボクが来ただと思うと罪悪感が芽生めばえたが、どうしても伯父と居たかった。


 ちなみに綾子とはボクの母だ。ヒステリックで口うるさい母の顔を思い出してボクの世界が一気に灰色に塗りつぶされる。


「…うん」

「そんな顔をするもんじゃない。いつか隆も母親の気持ちがわかるさ」


 伯父はボクを安心させるように今度は軽く抱きしめてから、病院のスタッフに頼んでタクシーの手配をしてくれた。大事な壺を抱えて電車に乗りたくなかったので助かった。


「バイバイ、伯父さん。夏休みにゆっくり来るから」




「…隆、泣くなよ」




 ボクが「じゃあね」と軽く挨拶あいさつして病室を出て行こうとすると、伯父が言った。


(そんなにボクが母を怖がっていると思ってるの?)


「母さんに怒られても泣かないよ、もう12歳なんだ。でも心配してくれてありがと、伯父さん。またねっ」


 ボクは苦笑いの伯父に元気よく手を振って病室を出た。





 その夜 伯父は亡くなった







タカシはまたピアノさぼって!毎日の練習の積み重ねが大事だっていつも言ってるでしょ?!お兄ちゃんと違ってあんたには才能がないんだから努力しなさいっ!!」


 伯父がいない世界に馴染なじめないまま夏休みに入った。

 日に日に強くなる母の圧に押しつぶされそうだ。朝10時から夕方まで塾で勉強し、家に帰るなり部屋に上がろうとするボクが気に入らないのか、小言が毎日降り注ぐ。


「成績が良かったらいいってもんじゃないのよ。あんたは本当にどうしようもない子ね!」


 母の言葉を背中に受けながら階段を上る。足が重い。早く安全な自分の部屋に入りたい。

 扉を閉め、きっちり整頓せいとんしてある机に向かって塾の復習を始めると、階下から中学2年生の兄のピアノの音が聴こえてきた。


(ビクビクした音…)


 母の機嫌を取る為に弾いているのがありありとわかるピアノ。母の満足げな表情が目に浮かぶ。


 ボクはヘッドホンを付けてウォークマンで洋楽プレイリストを選んだ。流れてきた女性歌手の曲は圧力に負けず変化する勇気を持てという。しかしボクは変化できない。


 ボクはピアノが嫌いだ。


 強制的に3歳から習わされ、上手く弾けないことが至上の罪悪のように責められる。弾いても弾かなくても怒られるので、最近は触れもしなくなった。

 兄は中学生2年生になっても従順に母に従い、毎日5時間以上練習している。

 指の為に体育の授業に出ない。でもコンクールには出る。


 ボクは運動も嫌いだ。


 生まれつき身体が弱く、黄疸おうだんで眼球の白い部分が黄色くなる度に病院に行く。

 激しい運動は止められていたが、大人になると治る病気なのでもうすぐ運動をしても良くなるだろう。だが今さらしたくない。薬の影響と運動不足で太っているからだ。

 タカシでなくフトシだと小学校でずっと陰口を叩かれる日常。慣れているのに、先生がわざわざボクが太っている説明始めた時は死にたかった。忘れもしない4年生の時だ。


(なぜわざわざボクを教材に?太っていることを恥じてクラスの隅っこで息を殺して時間を過ぎるのを待っているのがわからないのか?)


 もし自分の子供だったら先生はそんな授業をしない。

 あのひど鈍重どんじゅうでデリカシーのない、黒メガネをかけた男性教師は…確かミズノだ。記憶から抹消したいが、顔も名前も覚えている。覚えていたくないのに消えない。


 だからボクには勉強しか取り柄がない。

 勉強は努力のぶんだけ点数で成果が返ってくる。模試では全国で100位内に入っている。伯父と同じ学校を出て、彼みたいになんでも知ってる大人になりたい。そしてこの家を出るのだ。


 しかし伯父はもういない。ここは灰色の世界だ。毎日少しづつ灰色がくなっている。


(世界が黒になったらボクは…)


 勉強に集中できず、大きなため息が出た。


「はあ…」


「なんだ、小学生がため息なんて!」


 その時、ボクのため息について言及する声が聞こえた。ヘッドホンをした耳から聞こえたのでなく直接頭に響いている。


「だ、誰?」


 ボクはヘッドホンを外して自分の部屋を見渡した。誰もいないはずだ。目の前の机、本棚、タンス…そこまで行って目を疑った。


「はじめましてだな。俺はliàngyún jūn 。ユンジュンって呼んでくれ。間違っても日本語読みでウンクンとか言うなよ。おまえの伯父はいつも嫌がらせでそう呼んでたから先に言っておく」


 タンスの上に置かれた壺の横には、腰までの艶やかな黒い長髪に端正な顔立ちのすらりとした男性が微笑んでいた。

 背は180センチはあるだろう。服は京劇きょうげきの衣装のようにきらびやかで、隣の壺の極彩色の柄に似ている。

 親しみを感じる笑顔の彼に悪意がなさそうなので、とりあえずボクはたくさんある疑問の中からひとつ質問した。


「ユ…ユンジュン…さん?あの、なぜここに?」


「ユンジュンと呼べ。俺はタカシの軍師だからだ。坂上さかのうえ家の先祖は遠い昔に中国から日本に来た技術集団の末裔まつえいだ。そして俺はおまえの先祖の親友だった」


(え…?じゃあつまりはユンジュンは全くのということじゃあないか)


 しかし、ボクは伯父の言い方に含みがあったのを思い出しピンときた。


「伯父さんの軍師だったの?」

「そうだ。おまえの伯父のマナブはいい奴だった。俺は好きだったよ、とても…」


 大人のくせに伯父を思ってぽろぽろと大粒の涙を流すユンジュンを見ていたら、ボクも泣けてきた。

 最後に伯父と泣かないと約束した。ずっと今まで我慢していたのだ。


「ボクも…大好きだった。伯父さんがいなくなって、本当に大好きだったってわかったんだ…もっともっと話したかったよ…嫌がられてもいいから毎日病院に行けばよかった…それならもっとっ…話せた…のにっ」


 ボクらは二人で泣き倒した後、友達になった。灰色になったボクの世界に少し色彩が戻っていた。




 毎日の塾の後、コンビニでおにぎりを買い、腹を満たす。そして夜の9時まで図書館で勉強した。

 家に居る時間を出来るだけ減らしたかったのだ。しかしどうしても帰らないわけにはいかない。身体はでかいが小学生なのだ。

 お金は伯父がくれたのをちびちび使っていた。伯父は祖母と二人暮らし、物書きで独身だった。


「遅いわよ、塾の後何してるの?早く帰って練習しなさい!」


 帰るなり口うるさい母親を無視して階段をあがり、部屋にこもる。兄のピアノの音。ルーティンだ。しかし一つだけ変わった事がある。


「おかえり。家でちゃんとしたご飯を食べたほうがいいぜ」


 ユンジュンは自分の背丈の半分しかない壺から顔だけだして言い、ゆっくり身体もひねり出した。いつ見ても面白い中国雑技団みたいな動き。


「嫌だよ。聞いてたろ?母さんがピアノピアノ言う前でご飯なんて食べたくないし食べられないよ」


「聞いてた。でもタカシ、顔色悪いぞ」


 ユンジュンは全身を壺から出して、「んー」と言いながら背伸びした。その屈託のなさに救われる。

 彼はボクを思い通りにしようなんて思ってない。そもそも助けようとも思ってないように見える。ただだけだ。全く軍師だなんてよく言ったものだと思う。

『そうだろ?』とニコニコ伯父の笑う顔が目に浮かぶ。そうだ、伯父はいつもニコニコしていた。


「うん」


「よしよし」


 ユンジュンは伯父のようにボクの頭をぐしゃぐしゃと力強く撫でた。懐かしくてボクはまた泣きそうになる。でももう泣かないと決めた。


 伯父との最後の約束だ。


 ユンジュンは毎日の出来事を聞きたがるので、塾や図書館の話をする。

 塾の友達や先生はボクがピアノを弾かなくても太っていても気にしない。模試の成績がいいという理由だけでボクを認めてくれる。図書館の係員さんもボクが小学生だから常に目をかけて話しかけてくれた。


 父が車で帰宅する音を合図にユンジュンは壺の中に還り、ボクは電気を消してベッドに入る。スバルの水平対向すいへいたいこう4気筒きとうターボエンジンの音は独特ですぐにわかる。

 母のヒステリーも止められない父をボクはひそかに軽蔑けいべつしている。

 伯父の弟なのに父はユンジュンが見えない。伯父と父は全く正反対の人間なのだ。


 父は高校球児で身体はムキムキ、会社でも野球部に入っている体育会系だ。

 音大出の母は家でピアノの先生をしている。他人の子供には上品で優しく的確な指導で評判が良く、遠くから習いに来る生徒もいる。

 なぜこんな正反対の二人が結婚したのかは謎だ。


 父はボクら兄弟に野球をして欲しがった。しかし兄はピアノファーストなのでしない。ボクは身体が弱い。


「隆の身体が強かったらなぁ」と残念そうに言われるが、ボクはなんて答えればいいかわからない。


 ボクは両親を失望させるばかりのどうしようもない子供だ。 

 勉強しかできない。

 だから毎日勉強ばかりしている。ボクの最後のとりでを守るので必死なのだ。


「あんま頑張るなよ」と寝る前に壺から聞こえた。いつも伯父さんが言ってたセリフ。


 ユンジュンと話して心が落ち着いたボクは、いつもより早い眠りについた。伯父に無性に会いたかった。



 その日の夢では伯父に似た男性とユンジュンが、だだっ広い草原で精悍せいかんなこげ茶色の馬に乗って笑っていた。


 ボクはあちらの世界に行きたいと切実に思った。

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