その地の底見えぬ底

「大丈夫? クロート」

「……めちゃくちゃな走り方しやがって、今はどの辺りだ?」

「七層と八層の間くらい」


 肩に担いでいたクロートを下ろし、ヤシリツァがそう伝える。

 現在地は通常生存限界点とされる八層の手前、理由無しに訪れる事は無い危険区域だ。


「応援を呼ぼうと思ったけど、アレが居住区に来るのはまずいでしょ?」

「ああ、賢明な判断だ。オレらだけでアレを対処しなきゃならん事を除けばな」


 クロートの言葉に刺があるが、ヤシリツァは気にしない。

 長い付き合いで、クロートが想定外のトラブルを心底嫌っている事を知っているから。


「ヤシリツァ」

「はいはい」


 クロートが義腕を探り、中から一本の太いチューブを引っ張り出す。そして、それを何を言われるまでもなく、ヤシリツァが近くの水路の中にそっと放り込んだ。

 そして、それを確認したクロートが義腕内にあるレバーを引くと、静かな動作音と共にチューブが脈動する。


「……効くかな?」

「無いよりましだ」


 クロートの義腕には、液体を高圧で噴射する機構が搭載されている。

 その噴射する液体を補充する為のものが、今水路内で脈動しているチューブなのだが、今回は単純に補充だけをしているのではない。


「ヤシリツァ、あまり近付くなよ」

「分かってるってば」


 生存限界点である現在地の水質は、最悪の猛毒であり、高い抗毒性を持つヤシリツァでも、生身で触れれば只では済まない。だが、クロートはその毒が効かない。

 クロートはその猛毒を、義腕内部のタンクに詰められた汚水と入れ換えている。

 やがて、グラス一杯で街一つを、壊滅状態に追いやれる猛毒がタンクに満ち始めると、クロートの義腕の鉤爪が僅かな湿りを帯びていく。


「……もういいぞ」

「オッケー」


 その言葉に、ヤシリツァは汚水が付着した部分に触れない様にして、チューブを水路から引き摺り出していく。それを確認したクロートが、もう一度レバーを引くと、チューブは義腕内に巻き取られていった。

 これで戦闘準備は終えた。後は、あの金魚鉢をどうやって倒すかだ。


「さて、どうする?」

「はい、この水路に落とす」

「名案だが、奴は水路内から現れた。防水は完璧なんだろうよ」

「じゃあ、あの頭を割って沈める」


 自慢の尾の一撃が効かなかった事が、よほど悔しかったのか。太く長い尾を動かしながら、ヤシリツァが言う。

 だが、この事実はある意味明確な指針ともなり得る。

 奴の装備は、あの火炎と出現場所から考えるに、恐らく耐熱性と防水に特化したもので、衝撃に対する高い耐性もある。

 しかし、クロートとヤシリツァは知っている。二人は何年もこの毒溜まりの水路で生きてきた。

 故に、完全な防水はあっても隙間は存在する。

 生きているなら、呼吸が必要になるからだ。


「憶測だが、奴が背負っていたタンク。あれが弱点だ」

「え、あん中に空気入ってるの?」

「昔、転生者が作った装備にそういうのがあった。今無いのはそういう事だ」


 ヤシリツァに出会う前、とある転生者が水中でも呼吸が出来る装備を開発した。あの金魚鉢に似たそれは、元は自分の世界にあったものだったらしく、自信に満ち溢れていたが、結果はその装備を使う者は殆ど居ない。

 その転生者は、内臓が腐りきった状態で水路に浮かんでいた。


「この毒水の中は、オレらのルールは通用しない世界なんだろうよ」


 トレヴァーの依頼の元、その死体の検死に同行したクロートの見立てでは、外傷らしい外傷は無く、ただ肺を中心とした臓器が腐りきっていた。

 あの男が潜ったのはこの前日であり、たった一晩で腐った肉の塊となったという事になる。

 そんな速度で物が腐敗する事はあり得ない。だから、この水路の底には特有のルールがある。 


「作戦は単純だ。あのタンクか、装甲に穴を開けて、水路に沈める。不意討ちでな」

「りょーかい。でも、どうやって? あいつ、足は遅いけど硬いし、あの火を出す棒が厄介だよ」

「……オレがどうにかする。だからお前は、あいつを突き落とせ」


 義腕の動作を確認して、各部を固定しているベルトを締め直す。

 腕を失い、顔を焼かれたあの日、転生者を名乗る女から渡されたこの義腕は、碌な整備もしていないが壊れる気配も無い。

 多少歪みは出ているが、まあ保つだろう。


「……クロート、無茶しないでね」

「けっ、今から荒事やろうってのに、無茶もクソもあるかよ」


 防毒面をずらし、口内に染み出してきた膿を吐き捨て立ち上がり、七層へ向けて歩を進める。

 今回の損失は、あの金魚鉢の装備を売り払って補填する。壊れてもあの装備なら、屑鉄よりまともな収入になるだろう。

 収入を得たら、まずは食糧の買い込みだ。酢の味しかしない酢漬けと無駄に硬いだけの黒パン、何の肉かも分からない脂身だけのベーコン共とは、暫くはお別れだ。

 中層手前まで上がって、生の野菜や肉を買い込む。

 そして薬と布、道具の整備に使う油、新しい毛布を買うもの有りだ。

 ついでに、後ろで息巻いているバカ娘に、あまり薄めていない蜂蜜酒を買ってやるのもいいだろう。金が余ればだが。


「クロート、アタシ麦酒呑みたい。一回だけ呑んだすごいの」

「そりゃ、オレが中層からくすねてきたもんだろうが」


 昔、クロートはあまりの金の無さに、数人と結託して中層区画に盗みに入った事があり、その時に金目の物と一緒に、麦酒の小樽を盗んだ。

 売れなくても、自分で呑めばいい。そう考えての事だったが、それを目敏く見付けたヤシリツァが飲み干していた。


「言っとくが、あの時は本気でお前を売り飛ばすつもりだったからな」

「ごめんってば」


 しかし、毒を盛られていたらしく、同じ様に小樽を盗んだ連中が次々に倒れた。

 だからクロートは、とりあえずヤシリツァを売り飛ばすのはやめにした。


「でもさ、あの麦酒美味しかったよ。こう、麦酒の苦味の中に、ピリッとした辛味があってさ」

「バカ娘、それは毒だ」

「毒?!」


 ギャーギャーと騒ぐヤシリツァを尻目に、クロートは見慣れた水路での現在地を確認する。

 現在地は七層下部、まだ危険区域の中心付近だ。

 少し歩けば五層から続く巨大な吹き抜けがあり、一層から七層途中までの汚水は、各水路からこの立坑部分に一度集合する。

 七層が危険区域とされているのは、この立坑に続く水路の流れのせいでもある。

 七層の水路は流れが速く、特にこの場所に繋がる水路は、一度入れば確実に飲み込まれる。運が良ければ、中心部分から離れた浅瀬の外縁部分に落ちれるが、九割は目の前に広がる底の見えない汚水の底に沈む事になる。

 クロートは降り注ぐ汚水の滝の群れを見上げ、これからの予定を組み上げる。


 あの火炎がある以上、この立坑や狭い水路内で出会す事は避けたい。

 では、どうするか。こちらは戦闘の専門家ではなく、装備も戦闘向きではない。

 そして、相手は装備も何もかもが戦闘向き。

 こちらが唯一勝るものは、単純な土地勘のみ。

 クロートは手持ちの装備を脳内でリストアップし、あまり使いたくない二つの装備に目を付けた。


「仕方ない……、やるか」

「やるって、何を?」

「ヤシリツァ、この先に馬鹿みたいに広い貯水槽があるのは知ってるな」

「うん、あの水が貯まらない貯水槽でしょ。それがどうかしたの?」

「お前の役目は囮だ」

「うえ?」


 間抜け面のヤシリツァを無視して、クロートは作戦の細かい部分を説明していく。

 その内容に、ヤシリツァの顔がどんどん険しくなるが、そんな事は知らない。

 余所者に、この迷宮水路で舐めた真似すればどうなるか。それを教えてやらねばならないのだから。

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