殊更に哀をえがきたがるのは僕らが切なさの使者だから。

はまなすなぎさ

どこにだっていけやしない。

錆びれたベンチで黄金色の空の下、君と二人。

語ることが虚しい時は。





 殊更に哀をえがきたがるのは僕らが切なさの使者だから。そう云ったあのときにいっとう大袈裟に笑い転げた君が死んで、僕がまだ生きているのは、正直いって頭がどうにかなりそうだよ。とめどなく進み続ける現象とやらに、即席だとしてもすぐさまなにかしらの解釈をあてがい続けることができるほど人類は聡くなったのに、感情の御し方だけは未だに誰も彼も、完璧からは程遠くてさ。僕らって本当にどうしようもなくて、滑稽極まりない生き物だよな。だから君もいなくなってしまったのかな。もう知りようがないことだよな。ごめんな。

 夢のような白昼夢に冒されて、君の死体を寝袋に詰めてここまで引き摺ってきた僕だって、いってしまえばこんな世の中では奇行者の仲間入りさえできないだろうな。それくらい突発的な狂気が当たり前になった世界だ。僕もそろそろ飽きてきた。だから最期に君と約束していた景色のひとつでも見にいきたいとおもったのかもしれない。日焼けした時刻表はぼろぼろでもうほとんど読めないけれど、都合よく僕らの周りの時間だけは印字が残っていてさ、それを見るにバスはまだ小一時間は来ない予定らしいよ。だから、もう少しゆっくりお話しよう。わかってる、全部僕の自己満足に過ぎないってことは。君の魂はもうそこにはいないだろうさ。それでいいんだ。

 全く期待していない感覚だったんだけれど、あれはまさに一度自我を失って、放心して正気に戻ったみたいな体験を、上からもうひとりの自分が眺めているみたいだったよ。君を見つけた時

はさ。別に、俗にいう冷静さみたいなものはどこにも持ち合わせていなかったけれどね。取り乱している自分を狼狽ている自分が直視していて、視野は固定されているから狂いの瀬戸際で思考を手放さないのに必死だった感じ。脳内劇場仮説とホムンクルスの無限後退の話を思い出すね。でも実際は僕は二人分の混乱をエミュレートするので精一杯だったから、デカルトも意外と正しかったのかもしれないな。なんて、だからどうだって話だよな。僕にとっても、ましてや君にとっても、そんなことはいまさら至極どうでもいいはずなのに。心の底からどうでもいいよな。

 ねえ、どうしてそうなったのかは訊かないよ。見ればわかってしまうからさ。

 僕らの自我の連続性って本当にないのかな。寂しいよね。寂しいから僕らは語るんだけれど、それってちゃんと考えると、その寂しさの理由に拍車を掛けるだけの愚行だよね。刹那の意識の光だけが僕らを定義するんだって、あれ、誰が証明しちゃったんだっけな。昔の哲学者達の名前は忘れないのに、生きている時代は時間の奔流が凄まじ過ぎて、入ってくる側から記憶の片隅に留めておく心持すら生じないんだよな僕って人間は。君もそうだったら少しは生きるの楽だったんじゃないか。って、そうなる前にいってあげられたらよかったよな。いや、いってもなにも変わらなかったかな。友達なんてそのくらいの距離感が心地いいって、僕ら知ってたもんな。

 こんなに寂しくなるんだったら、怪訝な顔されてでもいってあげたらよかったっておもってしまうよ。我儘でごめん。

 語るのって無意味だ。生き物の構造じゃ感知なんか到底不可能な時間幅で、本当に僕らが文字通り生まれ変わって、いや、生まれ変わり続けているのだとするならば。それなら、ずっと僕らは、僕らではない魂を生きていることになって、過去から一筋に繋がれているはずの記憶も、全部が全部、知らない人から託けられた不確かな伝聞となんら変わりなくなってしまうだろう。だったら語る全ては僕の言葉になり得ない。つらいよ。僕にはそうおもえて仕方がない。というか実際、残念ながらこの世はそのようにできているらしいしね。誠に遺憾ってやつだよ。微細な情報流路が刹那と刹那を糊みたいに繋いで意識の根源となる存在に自己継続性の幻を付与しているのだって、なんとかって名前のその提唱者がいってたのを覚えているんだ。その刹那っていうのが脳が情報統合可能な最小のフレームレートを下回るとき、意識は意識を連続だと錯覚するらしいね。現実の話、時空を構成する刹那なんて何十桁ってオーダで神経処理より遥かに短いから、どんなに緩い近似をしても理論は破綻しないそうだよ。最低だよな。刹那っていう息苦しい籠の中にしか、僕は、君も、いなかったんだってさ。時間が流れるっていう感覚も、そういうところから生まれるんだって。時間なんて流れなきゃいいのにな。流れなかったらよかったのにね。

 こうやって喋ってる僕も、常に生まれ続ける泡沫の連なりでしかないんだなあとおもうと、無性に切なくなってしまうんだよ。

 僕が僕であるっていう感覚が捨て去れないから、余計にたちが悪いよな。それはもう考えの浅い主人公もどきが妄信して救われるような域を完全に逸脱してしまっているから。どれだけ声高に主張してもいいけどしっぺがえしが強まるだけ、自分を確かなものとして定義づけようとすればするほど、自分がそこにいないことを理解して胸がきゅうって引き絞られるみたいになってしまうからさ。僕はここにもういないんだって認められる強さがあったらいいのに。いいのに。

 そうか。

 あったのかもな。

 君には。


 だからもうここにはいないんだ、と僕はおもいたくなってしまって、安易な妄想を頭の中から掃き出そうとした。残された僕が救われた気持ちになったところで、君が終わってしまった事実が変わらないなら無価値なのだ。そういえば、想像という武器によって心の穴を埋めるのは生者の特権だって云ったときも、君は笑っていたね。でもこれだけは正しかったとおもっているよ。だってそうじゃないと、涙が溢れて止まらなそうだからさ。

 初めは心の中でだけ彼に、話しかけていた。のに、胸が抉れてどうしようもないから自然と言葉が声の形を帯びて空気を震わせて、そうしているうちに結局心まで震えてしまって、どうにも収集がつかなくなって袖で目頭を抑えた僕だった。馬鹿だよな。そんなふうにいつでも素直なところが好きだといってくれたときの君が思い起こされる。記憶が美化されたぶんを差し引いても君の顔は本当に綺麗でした。綺麗なままでいるとおもっていたのに。

 初夏の風が、粉塵を舞い上げて空を濁した。山のほうの景色もやや白みがかり、遠さの知覚を絶妙に引き延ばす。僕らは取り残されているみたいだった。どこかから。孤独は、今回ばかりは気持ち良くなかった。僕らが共感しあっていた孤独は、お互いがいてこそ成り立つぎりぎりの孤独の瀬戸際だったんだと今になって理解してしまうのは、あまりにも残酷すぎて、なにかの罰かとおもいたくなるほどで。本当の孤独ってこんな感じなんだな。耐えられそうにないや。

 海は空を映すから青く見えるのだという。遥か頭上に広がる天と、遥か僕らを支える大地は表裏一体なのだ。そういう信仰で昔から世界は満ちてきた。ならば今僕の上のこの空は、一面を埋める刈り入れ時の麦穂を映しているのかもしれない。鮮やかな黄金。切り取られたこの視野の中の世界だけは、僕らを祝福している気がした。これはありふれた弔いの感覚なのだとおもう。世界がある瞬間に統合された意思を示すような偶然があると、人はそこに神秘を見たがる。そういうものに気持ちを委ねないと、本当に、どこか望まぬところへ行ってしまいそうだった。バス停の雨除けが同じくらい暖色の光に濡れぼそり、照り返す光量で網膜が焼かれるのでうっすらと目を閉じる。瞼の隙間に挟まれた空間が景色を回折して滲んだ世界にこの瞳に張り付くぬるさは無関係だとおもいたかった。頬もぬるくなって、君を包む布の上に音を立てて滴り弾けて。僕は、言葉を完全に失った。眩さの粒が雨のように僕らを打つ。時の進みを忘却してしまうほどに。

 深みに吸い込まれるように無心になって、小さな思考が言葉を得る前に消えるような、何も考えていない時間を、何秒でも、何時間でも続けながら外の温度に微睡むのなんて、僕には造作もなかったはずなのに。空っぽになったところに憶い出が割り込んでくるから忙しなく漣が立ってしようがないよ。ねえ。君は本当に死んだのかな。覆ったそのチャコールグレーのモンベルの中で、君の体はいまでも形を変え続けているというのにさ。

 それは君が願った魂の作用だってのに、魂はもうそこにはいないなんて、僕には難しいよ。

 ひとの手首から先が花のように咲いた、そういう形容が正しいとおもえる大木の幹のようにざらついた結晶が、破けたドラフトチューブの縁からゆっくり伸びてきていた。一昨年の夏、二人で組んだ篝火が焼いてしまったジッパーの火傷痕を突き破って。ねえ、それが君の手なら、握り返すのもやぶさかではないよ。でもそれはもう、たぶん君ではないよね。君の残滓だ。この世からいなくなった君が遺した物質のどれを、どこまでを君だと定義しようが、あるいはしまいが、僕の自由だから、僕は君の意識が入っていた器は君だとおもってかけがえなくおもうけれど、その手を君だとは認めない。認めてしまったら、僕は──。

 待っていた車両がくたびれた金属音を立ててステップを解放したとき、夕陽を透過したその結晶は天を掴もうとするかのように四本絡まって伸びていた。空っぽの天だ。救いを求めるようにも、祈るようにも見える指先の形状だった。そこにもう君はいないのに、まるで世界が君の意思を汲んだみたいに立ち現れるのはむごいよね。君をそんなふうにしたのは、世界なのにさ。

 このままでは運べないから、置いていくよ。

 事前に調べた通りの手順で触れないように見えている箇所、できるだけ根元に近い表面を刃物で削ると、脆い焼き菓子のように折れて、地面に当たって願いの腕達は砕け転がった。朽ちた切り口から風に舞う黒い粉塵。汚染された空気。ゆっくりと腐蝕するバス停のポール。禄に舗装されていないアスファルトに落ちていく、二の腕から先の形をした何か。鏤められた欠片達は小さな凹凸にめいめいに囚われて勢いを止める。群がった生き物達が養分として吸収され、目視できる程度の粒に成長する様はかなり醜悪だった。蟲の脚の形をした結晶が天に伸びる。腐蝕が連鎖する。君みたいな死に方をした生き物は、死んでから世界を穢していくんだよ。昔それを僕に教えてくれたのは君だったろうに。君はそういうの不本意におもう人間だったんじゃないのか。自らがいなくなったあとのことなんてどうでもいいとおもってしまったのか。

 責めるつもりなんてないよ。

 そうだよね。それが普通だと僕もおもう。きっと君は正しかったんだろう。

 二本、三本、四本。残りも手際よく切り落とすと、周囲の様相は簡単な沼のようになって、僕は魂魄還りの影響に取り込まれないよう注意を払いながらステップを駆け上がった。少し計画性がなかったかな。僕ってやつはいつもそうだ、大事な君の最期なのに、ぐだぐだでごめんな。風を乗りこなした黒砂が寝袋の足先を融かしてしまったのに気づかなくて、右足の親指を模した結晶がもこもこと、両手では数えられないくらいの本数同時に生えてきていた。一本ずつ切り落としている暇はないと焦った僕は、愚かなことに一振りで根刮ぎ指を切り落としてしまう。拡大した断面から盛り上がる膨らみは脚三本分を形成し始めていて、自暴自棄になった僕は恥も外聞もなく首だけ捻って車内に叫ぶ。「迷惑を承知ですみません。どなたかテープとか、布とか、なにかひとくらいのものを包むものを持っている方はいらっしゃいませんか――」

 怒りも不満も漂っていない完璧な無表情で、音割れしたスピーカから車掌兼運転手のアナウンスが鳴り響く。「券売機の下にかかってるやつをご自由にお使いください。還り咲きを抑える材質でできてるやつですので時間は稼げるでしょう。」ヒントのおかげで視野に意味を齎すことができたのか、僕の網膜上には簡単にその安っぽい養生テープみたいなやつが像を結んだ。僕ってやつは、本当に不注意だ。振り向いた先にご丁寧にかけてあるのに全く視えていなかった。この一刻を争う事態に。礼をいう間も惜しんで育った結晶を切除し、闇雲にテープを巻いて穴という穴を塞いだ。不格好になった親友の死体を引き上げて息も整えずにまくしたてたのは不躾だったかもしれない。「もう出ていただいて大丈夫です。ありがとうございました、助かりました」

 いい終わるが早いか既に発車していた車体は、地面に転がった黒い脚を粉々に磨り潰して停留所を去っていく。席に着くとどっと汗が噴き出て、声を発するどころではなかった。「気にしなくていいですよ、よくあることです。タイヤも耐咲なので心配ありません。」音質の悪い無機質が降ってくる。どういう気持ちで喋っているのか皆目見当もつかなかったが、余裕がないので今は素直に厚意に甘えることにした。しばらくして窓の外に視線を遣ると、遠く離れた出合島の看板を縦に這うように黒煙が立ち上り、辺り一帯に渦巻く沼が侵攻していた。加速度的に勢力を増す崩壊領域は、重力に従って呑み込まれる瓦礫の姿をも一瞬で黒く塗りつぶしてしまう。黄金色の絨毯が瞬く間に闇に覆い尽くされ、燃える空の下には一足先に画一的な夜が生じていた。「あの、すぐそこまで腐蝕が来てるんですが、あの、大丈夫なんですか、」元凶である自覚も乏しく怯えて訊く僕に、「大丈夫です、よくあることです」と返す車掌。このやり取り自体を何百回と繰り返しているような落ち着きようだった。僕らの地域ではまだそれほど魂魄還りの被害は報道されていなかったはずだが、この運転手は被害の大きな地域で生き残って転勤してきたとか、そういう背景を持っているのだろうか。詮索しても無意味だが、明らかに異常な肝の据わりようにおもえた。それとも僕が怯えすぎているだけなのだろうか。いたたまれず車内を見渡すと他に乗客はいなかった。僕にはその状況が既に途方もなく恐ろしいものに感じられて仕方がなかった。

「緊急連絡、緊急連絡。こちら東西ルート十七時五十九分福留行き、出合島停留所にて腐蝕域の発生を確認、国対への連絡を要請します。はい、既に確認済み。そうですか。了解、本車両は特別の事態に陥らない限り平常ルートで運行を継続します。」僕にはこれが平常だとはとても信じられなかった。心なしか景色が速く流れている気がしたものの、それが運転のせいなのか僕の気持ちの逸りのせいなのかもわからなかった。示し合わせたかのように青信号が続くので交通規制も守られている。不気味で吐き気がしてきた。

 頭がいっぱいで、君のことがしばらく僕の中から忘却されていた。

 爪先に鈍痛を覚えて視線を下げると、僕の靴を喰って黒色結晶が侵入しているみたいだった。聴くに堪えない悲鳴をあげて切り離すも消えない痛覚。溶けた左の靴を乱暴に脱ぐともう足先はくろずんでいて、躊躇しているうちに足首まで腐蝕が進みかけていたので、僕は我を忘れて踵より先をナイフで掻き切った。酷い痛みだった。血は既に赤黒く、傷口は熱を伴って固まって、呻きながら床に体を倒すと、塞ぎ損ねていたのだろう隙間から、歪に微笑む君の頭の形をした結晶が覗いているのに気がついた。眼球は二つ以上あったが、視認より前に車体が大きく跳ね上がって宙に投げ出されてしまう。その異形を直視しなくてよかったとおもう余裕はなぜかあった。

 ぽっかりと腐り落ちた床。その傍には君がいた。罅が入って折り紙のように曲がった車体が流れるように目に入る。「こいつは予想できなかったなぁ」という車掌の声が聞こえた気がした。初めてひとらしく感じたのは、マイクを通していない肉声だったからなのか。諦念が混ざっているように聞こえたからか。その振動は僕の体を天井と壁に一度ずつ強く打ち付け、気を失う――と恐怖するには十分な隙間だけを残し、僕の意識からあっけなく光を奪った。


 

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殊更に哀をえがきたがるのは僕らが切なさの使者だから。 はまなすなぎさ @SNF

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