第9話:傾国の魔女




「ヘイルがいないだと……?」



 ヨナタンハインに連なる高級ホテル街にあって、中でも最上級クラスの評価を欲しいままにするホテル「カスール・カリファ」 その最上階のスイートルームにて優雅にもカクテルを呷っていたトーブ姿の青年が、伝令役からの報告を聞いてわずかに柳眉を潜めた。



 ジャファール・ビン・イスカンダル。ここヨナタンハインの観光事業の元締めにして、グリムヒルデ全島に勢力を及ぼす国際マフィアの若き頭目。浅黒い肌と細部にまで整えられたチンストラップの髭、凄腕の彫刻家によって彫り込まれたかのごとき端正な顔貌に埋め込まれた瞳は、まるで黒真珠のごとき深みをたたえていた。まさにエスラの理想とも言える精悍なかんばせの有り様は、今しがた受けた報告で多少不快感を露わにしようが、侍らせていた乙女たちを失望させるには到底至らない。



「なんでも、熱中症で倒れたとかで……」

「馬鹿を抜かせ。かつて南部紛争の三国国境線クレセント・ボーダーのジャングルで死神と恐れられた生粋のゲリラが、こんな島国の熱帯夜ごときで倒れてたまるか」



 一方で、ジャファールはその漆黒の瞳の奥で一連の茶番の顛末に思いを馳せていた。

 今宵の催しは別段表沙汰に出来ないような案件を扱う会合の場ではない。どちらかといえば日々ねんごろにしている関係者各位への接待とガス抜きを兼ねた懇親会のようなものだ。このホテルを貸し切りにしたのだって、イスカンダルファミリーの頭目の名に恥じぬよう箔を付ける以外の意味合いもない。客を怖がらせることがないよう、物々しく周囲をキズ者連中で固めたりはせず、そういった手合いは会場の方で不逞ふていやからが湧いた際の露払いにと計らっていたのだが、まさかジャファールの想定以上の狼藉を働く者が現れたとでもいうのだろうか……。



「ボス、いかがいたしますか……?」

「ふむ……とにかく何が起きてるのか探れ。もしかしたらすでに招待リストにない顔ぶれが混ざってるかもしれん。そん時は黒服・・ども使ってここに連れてこい」

「了解しました」



 伝令役が襟を正して敬礼し、踵を返して去っていくのを、墨を流したような黒い瞳で見送るジャファールの剣呑な顔に何かを感じ取ったのか、侍らせていた女の一人が声をかけた。



「何かトラブル?」

「ええ? まあいつもの事さ。この世から商売敵が消えてほしいと願う連中はごまんといる」



 その手のトラブルは慣れたものと言わんばかりに、ジャファールはこれ見よがしに鼻を鳴らした。このヨナタンハインの裏社会の情勢は、先代直々の薫陶と並外れた才覚を振るったジャファールの辣腕により、今やイスカンダルファミリーに比類するものが悉く駆逐されるに至っている。その気になれば地元の警察さえ思いのままに動かすことも出来るほどの巨大な力を得て、有体に言えば暇を持て余している若き頭目にとって、こういったトラブルの予感というのはそれだけで彼を興じさせる芳醇な香りとなるのだ。



 と、そこで。ジャファールが話しかけてきた女がいつもの面々にない顔であることに気づいた。



「そういや君、新顔か? いつからウチに?」

「ええ、リリー・ヘイズ。よろしくね」



 リリーと名乗ったその女は蠱惑的な上目遣いで舐るようにジャファールと視線を絡めた。その挑戦ともとれる態度に、にわかに若い血を滾らせたジャファールもまた、瞳の奥に秘めた情欲に火を灯し、改めてその肢体に視線を這わせる。



 楽園の日に当てられた小麦色の肌は、肌理きめのひとひらに至るまでが煌めく太陽の残光を帯び、手脚は絶妙に均整の取れた芸術のごときラインを誇っていた。



 女を極めたかのような慎ましくもふくよかなバストとヒップ。そこを走るウェストの曲線は、神が直に数式を組んで作図したかのような見事な弓なりを描いている。



 そんな肢体を艶やかな赤のイブニングドレスが飾って尚も陰らないかんばせは、「少女」と「女」との間に定められた絶対的な境界の只中に君臨し、極めつけのブルーとイエローのオッドアイが、彫り込まれた眼窩の深淵で宝石もかくやと収まっていた。



 イスカンダルファミリーの帝王マハラジャとしてこれまで数多くの美女をほしいままにしてきたジャファールをして、リリー・ヘイズのその有り様はかつてエスラの民に祝福を授けたとされる麗しき黄金の巫女を思わせた。自身もまたエスラの教えに準じる信徒として、このような絶世の美貌を捨て置けるはずもなかった。



 しかしジャファールは気づいていない。気づく由すらなかった。いま目の前で蠱惑的な眼差しを送っているこの女こそが、西に東にとあらゆる裏社会で悪名を轟かす魔導犯罪者──『毒婦ファム・ファタル』の異名をもつ魔導師、リリー・ヘイズその人であることなど。

 そしてジャファールが鼻の下を伸ばしている今この瞬間でさえ、彼女の仕掛けた幻惑の罠が、食虫植物が花弁を開くが如く待ち受けていることなど。



 彼女の操る精神汚染の魔導式は、彼女の体液を取り込んだ対象の記憶領域に作用する代物であり、たとえわずかな量──例えば香水に仕込ませた彼女の血のほんのひと飛沫を吸い込むだけでも効果を発揮する、極めて強い毒性を持っていた。



 むろん、この段階で操作できるのはせいぜい「リリー・ヘイズ」という名を一時的に対象の記憶から抹消するなどそんなものだが、彼女が彼女リリーであることを認識させないというのは、彼女に対してそもそも警戒すらさせないという事を意味する。この極めて悪質な特性こそが、彼女を国際規模の詐欺師にまでのし上がらせた一因であり、必然、摂取する彼女の体液が多ければ多いほど、対象へ干渉できる記憶の領域はより広範囲に増していく。



「さあ、ボス。グラスが空いていますわよ」

「ああ、すまない」


 もはや他の女のことなど眼中にないのか、ジャファールの意識は彼女にのみ向けられていた。彼は自分のグラスに注がれる酒にリリーの血が混ざっていることなど毛ほども疑うことなく、促されるがままに飲み干していく。



 他愛無い。リリーは舌なめずりしたくなるのを抑えながら、さらに術式の濃度を上げるべく吐息に力を込めた──まさにその時だった。



『ジャファール。すまない、しくじった。ホテルにカチコミが入った』



 よもや今夜使う事になるとは思いもしなかった回線から入った一本の連絡。それはついさっき行方が分からなくなったと伝令があったモーゼス・ギヴソンの声だった。さすがのジャファールも色欲の褪せた顔で応答する。



「どこの手の者だ」

『俺を攫う寸前まで行くとは見事な手並みだよ。奴は連邦のエージェントだ』

「さらわれたのか?」

『すんでのとこで免れた。今はやっこさんとどつき合いの最中だ』

「フン、とうとう連邦の犬にまで目を付けられるに至ったわけか。まあいい、半殺しにしてここに連れてこい。手足の一本や二本なますにしてやっても構わん」

『相変わらず男には厳しいんだな、あんたも。まあ上手くやるさ、会場の方は任せたぞ』

「ああ、せいぜい見せてもらうさ。死神イラー・アルマウトの手管をな」



 そう言ってジャファールは無線を切り、侍らせていた女どもを押しのけて立ち上がると、ヨナタンハインの街を一望するバルコニーに躍り出た。



「ククク。どこの誰だか知らんが、せめて俺を楽しませてくれよな。侵入者」

 


 精悍な顔を肉食獣のごとき凶相に歪ませて、帝王マハラジャは高らかなる哄笑を夜空に轟かせた。




 ◇◆◇




 初撃を躱せたのはまさに僥倖と言うべきものだった。もしアーセムが目の前の男を記憶に刻んでいなければ、無警戒のまま地べたを這いずっていたに違いない。



「モーゼス……ギヴソン」

「ほう。公式じゃ死んだことになってる俺を知ってるってことは、どっかで一度やり合ったかな?」

「抜かせよ死神。お前が仕損じた連中なんて、そう多くはないはずだ」

「そこまでお見通しか、アーセム・レイン。およそ五年ぶりといったところかな」



 凶悪な金の瞳に殺意の炎を揺らめかせながら、含みを込めた笑みで男は応じた。

 その狼のごとき凶相、相対したものを威圧するかのようなトライバルのタトゥーは、奇怪なことに首筋からさらに右頬にまで伸び及んでいた。何もかもがあの時と同じだ。脳裏に焼き付いた記憶とあまりにも一致しすぎていたヘイルの姿に、アーセムは忌まわし気に柳眉りゅうびを逆立てた。



「お前がここにいるのが偶然なはずがない。どこの誰に雇われた? 答えろヘイル!」

「誰にって、俺の飼い主はジャファール・ビン・イスカンダルだよ。ここにいるのが何よりの証拠さ」

「白々しい」



 唾棄するアーセムを前に、あくまでヘイルは嘲るような笑みをもって応じる。余裕ぶっているわけではない。かつてアーセムらと死線を交わしたヘイルとて、彼の力量はよく分かっていた。だからこうして挑発を続け、アーセムに警戒を強いているのである。



 だがその一方で、アーセムは別の疑念に思考がいっぱいになっていた。エニグマことジャック・スコールを追っていた矢先で、彼が行方をくらます直接の原因である男が目の前に現れたのだ。



 だったら、そう……だったら。いったいどの段階からスコールは……?



 ここまであからさまな符合を見せつけられたとあっては、よもやスコールとヘイルになんの繋がりもないと楽観視するわけにもいかないだろう。

 そう──だったら、いったいいつからスコールは彼らを裏切っていた?



 よもや……五年前の三国国境線クレセント・ボーダーにおける越境作戦の時から……。



 すわ、その時アーセムのこめかみ付近で妙な対流がよぎる。それが敵の攻撃の予兆だと瞬時に察したアーセムは、一も二もなく身を翻して攻撃圏レッド・ゾーンから離脱する。

 すると、まるで爆竹のはじけるような音を発して、今しがたアーセムの頭にあった空間が隠すことのない殺意と共に破裂した。



「クッ……真空の魔導式か」



 耳朶に叩きつけられた強烈な発破音にてられながら、なおもアーセムは怯まない眼差しでヘイルを睨みつける。



「さすがにバレたか。まあ通じるたあ思っちゃいないがな」

「なめられたもんだ。一度相対した敵に対して初見殺しの技を仕掛けるなんてな」

「そう目くじらを立てなさんな。天気の挨拶みたいなもんだろう」

「貴様と井戸端会議に花を咲かすつもりはない。再び相まみえた以上、ここで討つ!」

「けっ、連れないなああんたも。俺と相打ちになったあの男はもう少し付き合い甲斐のある野郎だったぜ」

「ふざけたことを……」


 死神と雷神。二つの覇気は互いに交錯し、地下駐車場を戦場の空気に染め上げる。

 握りしめた拳に紫電を這わせながら、アーセムはみなぎる闘志を深緑の瞳に煌々と灯した。

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異世界の情報戦ではすぐに世界の危機が絡んできます 痕野まつり @atonovel

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