第8話:サマエルの毒牙




 塞がれた視界と、うねりをあげて回転する換気扇の重たい金属音。周囲ではどこからか水がしたたり落ちるような音が広く反響している。鼻をつくのは鉄錆の混じったような古びた油の匂い。猿轡を嵌められているわけでもないのに、口元は固く真一文字に閉じられ、自分の意思で動かすことは出来ない。恐らくは薬剤によって表情筋の一部を司る神経系統が凌辱されているのだろう。



 ここは何処なのか、もう一体どれだけの時間をここで過ごしているのだろうか。公国におけるエルズ共和国大使館潜入作戦の折、どうやら不覚をとって拉致監禁の憂き目に遭ったジャクリーン・ガストは、固く縛られた拘束具に文字通り手も足もでないまま、屈辱に塗れた時間に苛まれていた。



 今のところ、際立って手荒な真似をされたわけでもない。仕事柄、敵の捕虜になった際の対処法をその身に強く染み込ませ、常人には耐えられない程の苦痛に対する覚悟を訓練によって心得ていた彼女だったが、誘拐犯の自身に対する処遇はいっそ拍子抜けしてしまうほどだった。



 何か情報を吐かせようと躍起になっているでもなく、かと言って恨みたっぷりに痛めつけられるわけでもない。身体の自由を奪うだけ奪ったまま、後は不気味なまでの放置である。



 それだけに誘拐者の思惑はようとして知れない。ナイトフォッグの一員として諜報の世界に身を置いてはいるものの、実地にて作戦を展開するただの一兵卒に過ぎない彼女の人質としての価値は、祖国のお偉方の重い腰を上げるには到底至らない。

 そもそもにおいて、ナイトフォッグの任務は無支援自己完結が原則だ。仮に敵に拘束されたとしても、本国の直截的な救援など望めない。いざとなれば、ジャクリーン・ガストという諜報員の存在など一切関知されず、捕縛先でどこぞの海に沈められるか、はたまた山に埋められるかされてジ・エンドである。



 一方で、敵方はこちらが諜報員であることを承知しないまま事に及んだ可能性もわずかながらある。それも極めて個人的な目的の為に。百戦錬磨のエージェントに一切悟られることなく背後を取り、まんまと誘拐せしめたその手際はその目的とは不釣り合いなほどに洗練されてはいたが、何も聞いてこない、何もしてこないという事は、ジャッキーを誘拐することそのものが目的だったとしか考えられない。



 そこに思い至った時、ジャッキーは曰く薄ら寒い感触を覚えた。それはこの後自分がどんな目に遭うのかという予想に直結するがゆえの悪寒だった。



 一体どんな辱めを受ける事やら知れたものではない。チーム内でも最年少とはいえ、それでも今年で24歳を迎えるジャクリーン・ガスト女史ではあったが、発育に乏しいその容姿は少女と見紛うばかりに幼く可憐。とてもではないが極秘部隊に籍を置くエージェントにも、本気で術式を展開すれば竜巻を起こすほどの魔導出力を誇る傑物にも見えまい。彼女の素性を何も知らないのであれば、劣情を催した暴漢が──たとえそれが目的とは不釣り合いなほどに熟達した手際であっても──彼女を拉致監禁し、今こうして辱めを齎そうと企てようとする理屈にもギリギリ筋は通せる。



 しかし、どうやらそんな無理筋が通るというわけでもなかった。

 彼女を縛っている拘束具は、安い暴漢がにわか知識で覚えた緊縛などとはわけが違う。軍や警察機関が凶悪な魔導士を護送する際に使用する対魔導拘束椅子である。これに縛られていたがゆえに、ジャッキーは独力での脱出が叶わないまま流れに身を任せざるを得なかったのだ。

 こんな物を用意する手合いが、嗜虐趣味に傾倒した暴漢であるはずがないのだ。



 そこから導き出されるのは、相手はジャッキーが特殊部隊員であることも、そして魔導士であることも完全に理解した上で、このような狼藉に打って出たという事実に他ならない。



 では、いったい何のために……?

彼女の脳裏を巡り巡る思案は、結局のところはその疑問に立ち返らざるを得なかった。



「すまないね、さぞ退屈な思いをしていることだろう」

「……!?」



 唐突に語りだしたその声に、ジャッキーも思わず瞠目に息を呑む。

一体いつからそこに居た? 目隠しをされていたとはいえ、水滴の落ちる音からしてかなり響く空間だ。仮に足音に気を払って近づいてきたにせよ、気配の隠し方が尋常ではない。

 そもそもここまで徹底して拘束している相手を前に、今更足音を気にしたところで虚をつく以外の意味などないはずだ。



「そう警戒することはない……とはいってもそれは無理な相談なのだろうが」

「んんんんん───っ。んんん──────っ!!」



 相手の目的を探りあぐねていたジャッキーにとって、向こうからの接触は渡りに船だった。大した抵抗にはならないだろうが、せめて喋る程度の自由くらいは、主張しておいて損はあるまい。その意図を察したのか、誘拐犯はいっそ不気味なまでに柔和な声音のまま、「いいだろう、今君の声を返してあげよう」と言って、一発指を弾いた。



 その瞬間、何やらジャッキーの両頬から針が抜けたような感覚がし、まるで痺れから解放されたかのような強烈な弛緩が彼女を襲った。



「いきなり大きな声を出さない方が良い。長らく同じベクトルで緊張状態を維持していたからね、変に動かせば筋肉を傷めることになる」

「…………」



 なるほど、薬剤ではなく電気信号による筋硬直。ジャッキーの体内に残留した薬物を解析し、その調合パターンから足がつく可能性を危惧しての措置といったところだろう。猿轡を嵌めなかったのも、万一彼女が呑み込んで自決してしまう事態を防ぐためだったという事だ。どちらにせよ、「奴」が目的を達成したのちに彼女を殺し、死体を跡形もなく消し去る算段を立てていたのなら必要のない措置。つまり犯人は、彼女が脱走、あるいは救出される事態を少なからず計算に入れて事に及んでいる。であれば、まだしばらくは命を取られる危険はないと見ても問題はないと判断できた。



「こんな形での再開は至極残念だが、まずはひとこと言わせてくれ。久しぶりだね、ジャクリーン」

「その声。まさか、あなたは……っ?」



 黄泉の国までひっくるめれば、こんな手段にも目的にも筋の通った説明を付けることが出来る人物が一人だけいたことを、ジャッキーは五年ぶりに聞いたその声音で確信を得た。



「スコールさん……でもあなたは五年前に死んだと聞きました。あなたは結局帰ってこなかったと」

「確かに部隊の前から姿は消した。だがあいにく、私もなかなかどうして死に損ないでね。今は多少なりとも自由の身というわけさ。まあ、それも私の書いた筋書きの一幕ではあったのだけどね」

「……どういう意味ですか?」

「ははは、それを君ごときの女に話すほど、私が迂闊な男に見えるかね?」

「…………」



 それもそうだろう。力なき少女でしかなかった五年前ならいざ知らず、今やジャッキーとて曲がりなりにもナイトフォッグの末席を穢すもの。かつてはアーセム・レインと共に部隊の双翼を担っていたこの男が、そう簡単に口を割るとは思えない。それがたとえ、かつての身内が相手であったとしてもだ。それが分からない彼女ではない。しかし次の瞬間、スコールは自らが口にした言葉を翻し、



「まあ、それでも君になら、私の描く物語の半分は話してあげてもいい。益体のない思案に耽るよりは、君にとっても多少は有意義な思考材料になるはずさ」

「それはどうも。ですがあなたなら分かるでしょう。今の私には人質としての価値なんてありません」

「それは君たちの連邦情報局お国の都合の話だろう。あのアーセムが囚われの君を放っておいたままにすると、本気で思っているのかい?」

「それは……」

「君にはいま相反する二つの気持ちが沸き上がってきたはずだ。彼らには祖国の為に任務を全うしてほしい。そして願わくは自分を助けに来てほしいと」

「…………」



 まるですべてを見透かされているかのようなスコールの物言いに、ジャッキーは押し黙るしか術を持たなかった。



「私の知っているアーセム・レインなら、おそらくはそれを叶え得るのだろう。彼はどんな苦境であれ心底諦めない。およそ考えもつかないようなアクロバットで、さながら神話や叙事詩の英雄のごとき豪傑ぶりで彼は私と対峙し、そして君を助けに来るのだろう」

「そこまで分かっていながら、どうしてわざわざ私を捕らえる必要があったのですか?」

「簡単な話さ。君を人質に取っている以上彼は定められた任務から背を向けることは出来ない。文字通りあらゆる手段を取ってでも、彼は私の元に至るだろう。その苦境、その信念、彼を彼たらしめるそのすべてが、この私に新たな福音をもたらすのさ。トライデントも君も、いわばそのための舞台装置マクガフィンに過ぎない」

「何を言っているのかさっぱり分かりません。ただ一つはっきりしているのは、今のあなたはどうしようもなく狂っている。あなたはもう、ナイトフォッグのジャック・スコールなんかじゃないっ!」



 ジャッキーが声高にそう言ってのけると、スコールはさも愉快気な哄笑をもって応じた。



「五年前はたかだか訓練生に過ぎなかった君が、いったい何をもって私の狂気を語るというのかね?」



 口調こそ未だ柔和なままのスコールであったが、その言葉の裏に潜んだ殺意の冷気を、ジャッキーは塞がれた視界の奥でしかと感じ取っていた。



「愚かなるジャクリーン、君は未だ何一つ分かっていない。なぜ君がこうして捕らえられ、一人蚊帳の外で脾肉ひにくたんをかこっているのか」

「それは、私が油断して……」

「弱いからだよ。ジャクリーン、君は私と対峙するに値しない。君がここにいるのはただそれだけの理由だ。君が私の描く物語の舞台装置マクガフィンとして選ばれたのは、君が誰かに助けられる側の人間であったからに過ぎない。君はアーセム・レインという男を動機づけるための、一本の導火線ヒューズに過ぎないのだよ」

「なっ……」

「なんだ、そんなことも分からなかったというのかね。これには私も少し興が覚める」



 スコールはいっそ大仰なまでに鼻白んで見せ、「仕方ない」とかぶりを振ってから、



「同郷のよしみだ。君を少し教育してやるとしよう」

「…………」

「質問だ、人間の最大の弱点とは何だと思う?」

「それは……」

「それはね、恥、だよ。羞恥心などという生易しいものではない。極度に研ぎ澄まされた恥というのは、身を削ぐ刃の痛みも、臓腑はらわたを焼く炎の熱さも、子宮を凌辱し自尊心を根こそぎにするような苦痛さえも凌ぐ害毒だ。それは人を楽園の果実を口にする前の獣の姿に立ち返らせる」



 一見、何の意味もない問答に思えたかもしれない。しかしジャッキーの答えを待たない一方的な物言い、その言葉からもはや隠そうともせずに発せられる、スコールの氷点にも至る悪意が、これから自身に降りかかる責め苦を予感させる。それはさながら枕元を這いまわる蛇蝎のごとき陰湿さをもって、彼女の心を責め苛みにかかっていた。



「心から祈ろう。君がこの試練の果てに新たなるもうひらかんことを」

「いや……やめて……」



 そして、彼の言葉が意味するところを知るのも、その予感の先にあるのだと……。 

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