008:放課後(前)

 さて問題の放課後だ。

 いつもなら一目散に学校から帰り、ウチで攻略中のゲームをするはずなのだが、今日はそうはいかない。いや、今日から……か。

 これからカノジョの個人授業を受けることになっている。

 恋のABCを教えて貰える……訳ではない。

 多分、いや絶対にガチな方のお勉強だ。

 ちなみに俺は『恋のABC』が何なのかは知らない。全然知らない。

 だからお父さんやお母さんに聞いてわかった人は俺に教えて欲しい。

 みんなのお便り待ってるよ。

 はぁ、やはり気が重い。

 このまま忘れたことにして帰ってはいけないものか。それは後が恐ろしいな。

 何か勉強の約束をブッチする良い言い訳が無いものかと考えながら席を立ち廊下へと向かう。


「イツキ君」


「うっ、サキさん」


 教室を出た所でサキさんが待ち構えていた。

 どうやらサキさんのクラスの方が先にホームルームが終わっていたらしい。

 俺が逃げたいと思っていたことを悟られていたのか、廊下で待ち伏せされていた様だ。

 確かにどこかで待ち合わせをした訳ではないので、ここにいることは何もおかしくはないと言えばそうなのだが。


「約束、覚えているわよね?」


 ニコリと笑う彼女の笑顔が「絶対、逃がさないわよ」と言っているように感じる。多分気のせいだ。うん、きっと。


「ハハハ、それは勿論、完璧に覚えていましたよ。サキさんの言葉の一言一句を忘れるはずがないじゃないですか」


「ならいいわ、行きましょう」


「はい……」


 逃げることは……諦めるしかなさそうだ。

 サキさんの進む方向へ俺も足を進め、迷いなく進んでいく。

 しかしそこでひとつの疑問が浮かんだ。

 勉強はどこでするつもりなのだろうか?

 そういえば話していなかった。図書室だろうか?

 この学校では部活動と同様の時間帯まで放課後、図書室が解放される。

 だが図書室に行くのなら反対方向の階段へ向かうはずだ。

 しかし図書室でないのならどこで勉強をするつもりなのだろう?

 考えても仕方ない。目の前に答えを知る人物がいるのだ。

 ならば聞けば解決することだ。


「サキさん、どこへ行くんですか?」


「貴方の家よ」


「……え?」


「勉強は貴方の家でやるのよ」


「ちょ、ちょっと待ってください」


 俺の家、俺のアパートのあの部屋でやるってことか?

 彼女は今、俺の生活圏内まで脅かそうとしている。

 あそこは俺にとってのオアシスだ。

 俺と彼女の関係性を考えるとそこだけは踏み込んでほしくない。

 どうにかして阻止しなければ!


「何? どうかしたの?」


「どうかって言うか、勉強なら学校でして帰ってもいいんじゃないですか?」


 そうだ。別に勉強をするなら学校でも出来る。

 むしろその方が何かと都合がいいはずだ。


「それで? 一体どこでやるって言うの?」


「それは図書室とかーー」


「人の視線を浴びながら?」


 ああ確かに。彼女は周囲の注目を集める。

 放課後の図書室にどれだけ人がいるかは疑問だが、人数がどうあれそんな中で彼女と一緒に勉強とかは俺も勘弁だ。


「えっと、じゃあ図書館は?」


 学校がダメなら外だ。そこでもやはり周囲の注目は集めてしまうのだろうが、見知らぬ人物をジロジロと見る人間は少ないだろう。何よりも俺の生活圏の中にいる人間は少ないはず。多少は学校よりもマシなはずだ。


「図書館は少し遠いわね。それに家とは逆方向よ?」


 そうだったっけ? 図書館とか小学校以来行ってないから忘れていた。

 確かに俺の実家からはそれほど離れていないが、学校を基準に考えると実家のさらに先、今暮らしている部屋からはそれなりに距離がある。となれば図書館はダメだな。


「えっと……なら、喫茶店とかファミレスとか」


「その度にお金が掛かるわよ? たまにならいいけど、これから毎日やることなのだから貴方の家の方がいいんじゃない? 私の家ともそんなに離れていないのでしょ?」


 実に的を射たご意見です。

 てか意外と庶民派なお考えが出来るんですね。ちょっと驚きました。

 確かに、確かにそうなのだが、そうなのだがそうではない!

 やはり俺のアパートのことを知られたのはマズかったか。

 くっ、他に、他に何かないか! サキさんが俺の部屋に入りづらくなる何かはっ!

 ……ひとつだけ、見つけた。しかし、それを言うのは少し躊躇いがある。

 それは俺自身を傷付けることになりかねない。物理的に。

 だがもう、迷っている暇はない!


「いや、けど、ほら。俺一人暮らしですから。女の子が一人で来るって言うのは、その、色々問題があるじゃないですか? 男女が二人っきりになる訳ですし……」


「問題ってーー」


 サキさんの顔がカーッと赤くなる。

 どうやら俺の言っている意図が伝わったようだ。

 あえてそう言うことで意識させ踏み留まらさせる。

 まさに妙案だと言えるだろう。……言えるか?


「あ、貴方、私をそんな卑猥な目で見ていたの!」


「モチロン!」


 あ、しまった。うっかり全力で本音が漏れてしまった。

 だが俺の覚悟は既に済んでいる。

 昨日の平手打ちの速さは身体が覚えている。

 彼女の身体能力の高さを考えるとこの間合いでは避けるのは間に合わない。

 それに彼女から繰り出されるのは平手打ちとは限らない。

 正拳突き、掌底突き、ボディブロー、フック、アッパー、場合によっては金的もあり得る。

 とにかく全身に受け身を取る様に脳から指令を走らせる。

 出来るのは身構え瞬時に受け身を取ることだけだ。

 さあ、いつでも来い!

 しかし、次の瞬間に身体へ伝わると思っていた衝撃はなかった。

 代わりに目の前のカノジョが少し困った様な口調でモジモジと恥ずかしそうに口を開く。


「ダメよ。そ、そういうことは……もう少し、時間が経ってから……」


 あ、れ? こういう反応?

 今すぐにでも抱きたくなったわ。じゃなくて!

 うん、良かった。殴られずにすんだ。

 彼女のこの反応。これは意外と早くにイケるのではないか!?

 しかし、俺は忘れていたこの会話をしているここがどこなのかと言うことを。

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