2 失敗

 それから次の稽古日までの一週間、僕は家でも学校でも溜息が止まらないぐらい鬱々とした気分をひきずることになってしまった。


 寝ても覚めても、サクラさんの悲しげな瞳が頭から離れない。こんな大ミスをやらかしたあの時の自分を、足腰が立たなくなるほどブン殴ってやりたいぐらいだった。


「……なーに暗い顔してんだよ、楠岡?」


 教室にて、そんな風に声をかけてきたのは、悪友の長谷川だった。

 この五街道北高校にて知遇を得た、のっぽで馬面のクラスメートである。

 わりあいスポーツは得意なほうなのに中学時代から万年帰宅部だそうで、今はバイクを買うためにファミレスのバイトに燃えている。そのとぼけた笑顔を見返しても、僕の気分が晴れることはなかった。


「ちょっとね……バイト先で、ヘマをしちゃったんだよ」


「バイト先って、町おこしイベントの雑用係だっけ? そんなん、落ちこむようなことじゃねーだろ。たかがバイトなんだからさ」


「お、どうしたどうした? 楠岡も社会の厳しさってやつがわかってきたかあ?」


 もうひとりの悪友、広田までやってきた。

 こちらは小柄でずんぐりとしており、度の強そうなメガネをかけている。僕や長谷川では太刀打ちできないレベルのゲーマーであり、新しいパソコンが欲しいとか何とか言って真っ先にコンビニで働きだしたのが、こいつだ。


 思えば、この二人がアルバイトなどを始めなければ、僕の人生もここまで歪曲しなかったのだろう。三人で無邪気にゲーセン巡りをしていたあの頃が、懐かしくてたまらなかった。


「オレもさぁ、レジの金が合わないとかナンクセをつけられて、昨日はさんざん説教されちまったよ! そしたら最初の入金の時点で、店長が計算違いしてたんだもんよー。怒られ損だっての! 頭にくるよなー」


「へーえ。……だけど、僕の場合は完全に僕のミスだったんだよ……」


 そう言って深々と溜息をついてみせると、ふたりはたいそうけげんそうな顔をした。


「そんな落ちこむぐらい、説教をくらったのかよ?」


「ひでー職場だなあ。町おこしの雑用係なんて、どうせ大した時給じゃないんだろ? そんなとこ辞めて、ウチの店で働くかあ?」


「そういうわけにはいかないよ。自分のミスなんだから、なんとか挽回してみせないと」


「クソ真面目だなあ、楠岡は。バイト先に、気になるコでもいるのかよ?」


 僕は愕然と、長谷川の馬面を見つめ返すことになった。

 長谷川は、得たりとばかりににやにやと笑いだす。


「何だ、図星か。いや、オレのバイト先にもけっこー可愛いコがいるからさ。そんなコの前で説教されたら、カッコ悪すぎて落ちこむだろうなあって思っただけなんだけどよ」


「何だよお前ら、エンジョイしてんなあ。オレなんて、毎日おっさんと二人シフトなのに」


 女は二次元にかぎる! ――などと、ふだんは豪語しているくせに、広田はずいぶん羨ましそうだった。現段階で、僕はちっとも人から羨まれるような状況ではないのだが。

 それにしても、エンジョイて。


「ま、そーゆーことなら、頑張れや。可愛い女の子のためだったら、頑張り甲斐もあるってもんだ」


「……そういうのとは、違うんだよ」


 と、反射的に否定してしまったが、実のところは違わないのかもしれない。

 僕は、ただひたすらサクラさんを悲しませてしまったことだけを後悔し、気に病んでいただけなのである。


(……やっぱり、何だか不純だよなあ)


 ちょっとした自己嫌悪まで併発してしまい、僕はますます重苦しい気分になってしまった。

 そうこうしているうちに担任の教員が姿を現し、長谷川と広田も大あわてで自分の席に戻っていく。


 いつも通りの、退屈なホームルーム。

 きちんと着席したクラスメートたち。

 茶色いブレザーに包まれた、いくつもの背中。

 何だか、現実感が希薄だった。


 きわめて慌ただしいプロジェクトの活動によって、どこかの感覚が変調をきたしてしまったのだろうか。教室の中でおとなしく座っている自分と、『イツカイザー』の稽古に忙殺されている自分。そのイメージが、重ならない。どちらもまぎれもなく自分自身であるはずなのに、とうてい同一人物だとも思えない。


 胸の奥で、何かがモヤモヤとわだかまっている。

 その正体が、わからなかった。


 ただ、わかるのは――長谷川や広田はいいやつらだし、この先もずっと仲良くしていきたいとは思うけれど、ゲーセン巡りをしていたあの頃に戻りたいとは、まったく感じていないということだけだった。


 理由は、たぶん明白だ。

 そこに、サクラさんの存在がないからなのだろう。


 不純でも何でもいい。とにかく僕は、自分の失点を挽回したかった。

 サクラさんに、二度とあのような表情はさせない。

 本日は水曜日で、夜になれば、また体育館での稽古がある。溜息まみれの生活は今日で終わりにするのだと、僕はこっそり心に誓っていた。


 しかし――

 実のところ、世の中はそこまで都合よく出来てはいなかったのである。

 その日、僕はサクラさんと、思いも寄らぬほど激しく決裂する羽目になってしまったのだった。


                    ◇


「あ、ゼンくん、おつかれさま」


 その日もサクラさんは、笑顔で僕を迎えてくれた。


 五北中の体育館。午後の七時。

 通算四度目の稽古――ということは、僕がこのプロジェクトに参加してから、ついに一ヶ月が経過してしまったということだ。


 何だかんだで週に三回ぐらいは顔をあわせているというのに、いまだサクラさんに笑顔を向けられると、頭がクラクラしてしまう。

 しかしそれも、しかたのないことだろう。サクラさんは、それぐらい魅力的な女性なのだから。


 何はともあれ、稽古である。

『ケムゲノム』はちぎれた右腕をガムテープでつなげただけの無残な姿で、僕の前に立ちはだかっていた。


「『ケムゲノム』の改良案はまとまった! 来週までには補修するから、今日は遠慮なくやってくれ!」


 台本を握りしめたカントクが、メンバーを代表してがなり声をあげる。


「先週は不完全燃焼で終わってしまったから、今週はそのぶんも気合いを入れていこう! とりあえず、『イツカイザー』と『ケムゲノム』の格闘シーンを頭から!」


 先週と同じように『イツカイザー』の装束をまとった僕は、大いなる緊張感と決意を胸に、『ケムゲノム』と相対した。


 先週はあのアクシデント以降、稽古らしい稽古にならなかったので、この一週間は一日おきのペースで「補習」をさせられた。しかし、その時はいずれも僕だけが衣装をまとっていて、金子さんはジャージ姿だった。

 よって、『ケムゲノム』と対峙するのは、あのアクシデント以降、初めてであったのだ。


「三月の公演は、第一話と第二話の二部構成なんだからな! いいかげんにペースを上げていかんと、お話にならん! ゼンくんも金子くんも、気合いを入れて頑張ってくれ!」


「はい」


 高鳴る心臓を抑え込みつつ、僕はファイティングポーズをとった。

『ケムゲノム』も、ゆらりと触手を振り上げる。


「それではまず、頭から通してみよう。……アクション!」


 カントクの声とともに、足を踏みこむ。

 慎重に。

 慎重に。

 頭の中に叩きこんだ台本の通りに、動きをなぞる。


 とにかく、間合いを間違えないことだ。

 同じ失敗は、絶対に繰り返さない。

 僕は、これまでとは比較にならぬほど集中し、懸命に、忠実に、『イツカイザー』のアクションを演じた。


 が――

 三分とたたぬうちに、カントクから「ストップ!」の声をいただいてしまった。


「あれ? ……僕、何か間違えましたか?」


 いくぶん焦りつつ、僕はカントクを振り返る。さすがに今日ばかりは何も間違えてはいないはずなのだが――カントクは、ブルドッグが梅干でも食べてしまったような面がまえで、僕の姿を見すえていた。


「間違えたっちゅうか何ちゅうか……ううん、何と言ったらいいのかな」


 などと、カントクは珍しく口ごもる。

 すると、サクラさんがその代わりに、すっくとパイプ椅子から立ち上がった。


「ゼンくん、どうしたの? 何だか……まるで別人みたい」


「……別人?」


 さっぱりわけがわからない。

 しかし、とりあえず、ほめられているとは思えない。僕は、こんなにけげんそうな目つきをしたサクラさんを見たのは初めてのことだった。


「体調でも悪いの? この前の稽古より、動きがすごく悪くなってるよ?」


 サクラさんがこれほど直接的に批判してくるのもまた初めてのことで、僕は激しく動揺してしまった。


「そ、そうですか? まあ、ちょっと緊張はしてるかもしれないですけど……おたがいに着ぐるみを着て稽古するのは、あの日以来ですし……」


「緊張……?」


 サクラさんの目が、いっそう不審げに僕を見る。


「それならしかたないけれど、なんだか『ケムゲノム』をかばってるみたい」


「ああ……そりゃまあ、先週と同じ失敗をするわけにもいかないですしね」


 僕は何気なく、そう答えた。

 それが、サクラさんの逆鱗に触れるとも知らずに。

 サクラさんは呆れかえったかのように、大きな目をいっそう大きく見開いた。


「なに言ってるの、ゼンくん? あんなの、失敗のうちに入らないよ。強度の弱さはこちらの責任だし、カントクも遠慮なくやってくれって言ってたでしょ?」


「そ、それはそうですけど……」


「私も、『気にしないで』って言ったよね?」


 サクラさんは、何をそんなにムキになっているのだろう。

 僕は、あわてて弁解することになった。


「それでも、サクラさんたちが一生懸命作った着ぐるみを壊しちゃって、僕は責任を感じてるんです。もう壊さないように気をつけながら、うまくやりますよ」


 その言葉で、ついにサクラさんは爆発した。


「だから、その発想が間違ってるの! アクション・シーンのために作られた着ぐるみが、ちょっと倒れたぐらいで壊れてたらどうしようもないでしょ? それは私たちの責任! そんなことでゼンくんが全力を出せなくなるなら、私なんて造形師失格だよ!」


 サクラさんがこんなに大きな声を出すのも、初めて聞いた。

 今日は、何もかもが初めてづくしだ。

 そしてサクラさんはあんまり表情も動かさないまま、ただその黒い瞳を激情に燃えさからせていた。


「そ、そんな感情的にならないでくださいよ。それに……ミスをしたのは、僕なんですから。同じミスをしないように気をつけるってのは、当たり前のことでしょう?」


「……ミスじゃない、失敗じゃないって言ってるじゃん。ゼンくんはよけいなことを考えないで、お芝居に集中してくれればいいんだよ」


「よ、よけいなことって言われても……」


 それでも僕は、もうサクラさんにあんな悲しそうな顔をさせたくなかったのだ。

 サクラさんは、「もういいよ!」と、ひときわ大きな声で言い捨てると、黒いワンピースをひるがえして僕に背を向けた。


「そんなゼンくんの演技は、見たくない! お先に失礼します!」


 そうしてパイプ椅子の上でおとなしくしていた黒猫エドガーをひっつかみ、サクラさんはものすごい早足で体育館を出ていってしまう。

 呆然としているのは、僕ひとりではなかった。


「いやぁ……サクラくんがあんなに怒る姿は、初めて見た」

「造形・美術の責任者としてのプライドを、いたく傷つけられたのでしょうかねぇ」

「……腑抜けた演技をするからだ」


 カントクは仏頂面で禁煙パイプをかじりたおし、

 オノディさんはあわれみをこめて僕を見やり、

 ヤギさんは不愉快そうにそっぽをむいている。


 僕は――途方に暮れるしかなかった。


「あ、あの、僕の演技は、そんなにひどかったんですか?」


「ひどいというか何というか……用具室で誰か別の人間と入れ替わったのかと思っちまったよ」

「ホントですね。へっぴり腰で、勢いがなくて、まるきり別人みたいでした」

「……あまりにぶざまで、卒倒しそうになった」


 そこまで、ひどかったのか。

 僕は、のろのろと『ケムゲノム』を振り返る。

 金子さんは無言のまま、触手の腕でぽりぽりと頭をかいていた。


「あのなあ、ゼンくん。本音をぶちまけさせていただくと、俺たちは全員、本当だったら誰よりも自分が『イツカイザー』になりたい、と思っているんだよ」


 ひどくあらたまった口調で、カントクがそう言った。


「だけど俺たちは見ての通りの体格だし、サクラくんは女性だ。だから、泣く泣く他の誰かに『イツカイザー』の役を託すしかなかったんだ。キミにとっては知ったこっちゃないだろうが、それは生半可な思いではないってことだけは知っておいてほしい」


「……はい」


「正直に言って、さっきのアクションを見せつけられたとき、怒るよりもまず悲しくなっちまった。キミはキミなりに考えてのことだったんだろうが、着ぐるみなんざ、いくらでも修理がきくんだ。そんなもんは俺たちが徹夜をしてでもフォローしてみせるから、キミにはアクション・シーンを極めることにだけ集中してほしい。……サクラくんも、そんなような気持ちでいたんじゃないかな」


「…………」


 マスクの中で唇をかみ、僕は思わずうつむいてしまった。

 その肩に、くにゃりと何かが触れてくる。

『ケムゲノム』の、触手だった。


「えーっとな、あんまり上手いたとえ話じゃないかもしれないけど……俺はレスラーで、ヒザを故障したから引退したって話は知ってるよな?」


「……はい」


「うん。それで最後の半年ぐらいは、ボロボロのヒザをひきずって試合をしているような状況だったんだけどさ。それでも試合の相手に手加減されたら、それ以上の屈辱はなかったと思う……というか、それで頭にきて相手をムチャクチャにぶん殴って病院送りにしたのが、俺の引退試合だったんだ。あ、ここにはもう俺の居場所はないんだなって痛感させられちまってね」


 そう言われても、僕にはいまいちピンとこない。

 ただ、サクラさんのプライドや、『イツカイザー・プロジェクト』にかける情熱を踏みにじってしまったのだろうな、ということは、ぼんやりとだが理解できた。


「……サクラさんには、後で僕から謝ります」


 僕は、腹の奥底に熱い塊を感じながら、その場にいる全員に呼びかけた。


「真剣にやりますから、稽古をつけてください」


「……それじゃあもう一度、頭から」


 カントクの言葉にうなずきかえし、金子さんも自分の定位置にひきさがる。


 僕は、腹を立てていた。

 もちろん、自分自身にだ。


 サクラさんの気持ちに、そこまではっきり同調できたわけではない。

 ヤギさんが言う通り腑抜けな僕には、そこまで物事に熱中できる人間の気持ちなんて、やっぱりきちんとは理解できないのだろう。ましてやそれがこんなヒーローごっこでは、なおさらだ。


 しかし、この空間に存在することを選んだのは、僕自身なのである。

 たとえそれが、好きになった女性のそばにいたい、という不純な動機でも――いや、だったらなおのこと、僕のやるべきことははっきりしていた。


 そして僕は、サクラさんへの気持ちが「憧憬」から「恋心」へと昇華してしまっていたことを、今さらながらに再確認する羽目になった。


 僕はとっくに、サクラさんに恋してしまっていたのだ。

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