20 栄光

 ガルータ地区の守備隊本営で、アントニオは一人所在なさげにしていた。すでに敵が退いてから1時間ほど経つが、子爵は陣頭に立ったまま戻って来ていなかった。

『ガルータ守備隊、ガルータ守備隊、こちらイゾルテ。アントニオはいるか? ドウゾ』

遠くと話す箱{無線機}の当番をしていた若い士官が手招きしたので、アントニオは駆け寄って応答した。

「はい、アントニオです。ドウゾ」

『"白"だ。通信終わり。ドウゾ』

「"白"ですね、了解です。通信終わり」

傍らで聞いていた士官はその謎めいた会話に疑問を持ったが、相手が子どもとイゾルテなので何も言わなかった。アントニオは肩に掛けていた鞄から3通の書状を取り出すと篝火に投げ込み、城門の上にいるスキピア子爵の元へと走っていった。



 ドルク軍の夜襲は最初こそ勢いがあったものの、準備していたイゾルテ・カクテルで城外が再び火に飲まれると、その後は散発的に矢を射てくるだけだった。そして北の海が燃え上がって暫くすると、潮が引くように暗闇の中に下がっていった。おそらく陽動が無意味だったと悟ったからだろう。それでも子爵は、再びの夜襲に備えて城門の上で暗闇を睨みつけていた。そこへアントニオが走りこんできた。

「閣下、人払いを。イゾルテ殿下からです」

そう言って彼が鞄から取り出したのは、遠くと話す箱{無線機}に似た黒い箱{トランシーバー}だった。一瞬意味を掴みかねたが、少年が差し出した小さな箱{トランシーバー}から声が聞こえてきた。

『聞いているか、子爵』

その声は間違いなくイゾルテの声だった。

「イ、イゾルテ殿下ですか? これはいったい……」

『これは遠くと話す箱{無線機}とは違う。こちらとそちらで同時に話すことができるし、我々の他には誰も聞いていない』


 それは軍幹部にも聞かれたくないことを密かに話したいということだった。アントニオ少年がわざわざ派遣されてきたのはそのためだったのだ。子爵はそれが帝位に関する話だと直感した。彼は部下たちとアントニオを下がらせた。


『叔母上から聞いたぞ、子爵。9年前、叔父上から後事を託されたそうだな』

「……はい」

『私は今夜、正真正銘の魔女となった。イゾルテの名は永遠に呪われ、忌み嫌われ続けることだろう』

「…………」


 それが何のことを言っているのか確かなことは分からなかったが、北の海が燃え上がったことと関係していることは容易に想像ができた。子爵はかつて地獄の坂の事を語った時の、イゾルテの冷たい目を覚えていた。彼女は必要とあればどんな非道も行える人間だと彼は思っていた。だが子爵は、彼女がミランダに見せる優しい一面も知っているのだ。彼女が望んで非道を行う人間だとも彼は思ってはいなかった。


『あなたに叔父上や私と同じ責任を背負えるというのなら、それをこの場で示して見せろ』


 グナエウスの代わりにイゾルテを試していたつもりだった子爵は、自分が大きな間違いを犯していたことに気付いた。その資格を問われていたのはイゾルテではなく、子爵の方だったのだ。

 御前会議の席で、なぜ自分を指名したのかと問うた子爵に対して、イゾルテはグナエウスなら問わなかっただろうと言い放った。そのことについて、彼はずっと考えていた。彼女の意見には彼も同感だった。日陰に生き日陰に死んだ義兄なら、唯々諾々と命令を受け入れたことだろう。彼に否やはなかったはずだ。

 だがグナエウスは彼女が幼いころに死んでいるのだ。彼女が公人としてのグナエウスを知っているはずがなかった。ならば彼女をしてグナエウスを理解せしめたのは何なのだろうか? おそらく彼女は、グナエウスと同じように皇位継承者の日陰で生きるものとして、それでも国に尽くさねばならない皇族として、彼に深い共感を感じているのだ。だからこそ実際に今、彼女は自分とグナエウスを同列に並べたのだ。グナエウスが兄の盾としてその身を犠牲にしたように、彼女は魔女の汚名を受け入れて非道を働いたのだろう。

 その一方でイゾルテは帝位を狙っていたはずだ。日陰から出て太陽の下を歩こうとしていたのだ。彼女はグナエウスとは違うはずだった。だが彼女はドルクにその身を差し出そうとしたのだ。帝位を狙う野心的な姿を見せながら、その一方で国の為に自分が叩きのめした敵国に、自分を恨むもので満ち溢れたドルクに嫁ごうとしたのだ。

 ひょっとして彼女には野心など無いのではないだろうか? 帝位を望むのも全て責任感の現れなのではないだろうか?

 現皇帝ルキウスは決して無能ではない。だが、彼がもし無能な皇太子であったならグナエウスはどうしたであろうか? もちろんテオドーラがイゾルテより有能かどうかということは問題ではない。問われるべきは彼女の夫となる人物がどうかということであり、それはまだ誰だと決まっている訳ではない。

 だが今となっては、それが誰だったとしてもイゾルテ以上の適任者だとは子爵には思えなかった。この3日の戦いで、彼は自分がイゾルテの掌の上にいることを思い知らされていた。彼はイゾルテの用意した戦場で、彼女の用意した武器を使い、彼女の予想した通りの戦果を上げたに過ぎなかった。例え指揮官がアントニオ少年だったとしても、イゾルテならば同じ結果に持ち込めたかもしれない。


 ならばなぜ彼が指揮官として選ばれたのか? それは彼を試すためだったのだ。彼が果たしてグナエウスの責任を引き継ぐに値するのか、それを証明させるためだったのだ。

 では彼に何をさせたいのか? 彼女はガルータを橋頭堡として重要だと言っていた。彼はてっきり牽制と補給路を脅かすためだと思っていたが、このタイミングで行動を起こすということは敵主力に対する逆撃にほかならない。門を出て襲いかかれというのだ。20万に対して2000で逆撃を加える、なんと無謀な作戦だろうか!


「……どうしろとおっしゃるのです」

『以前言っていたな。おぞましい坂に足を踏み入れ、雄叫びを上げると。覚えているか?』

それは地獄の坂(瓦礫と死体の山)に怯える兵士を、どのような言葉で鼓舞するかという話だった。その時彼は、言葉ではなく行動で示すことで奮い立たせると言ったのだ。

「はい、覚えています」

『舞台は整えてやった。

 敵は怯え、壊乱している。

 門を開き、逆撃を加え、敵将を討ち取れ』


 それは彼の予想した通りの無謀な命令だった。だが彼は言ったのだ。行動で示すと。そうやって怖気づく味方を奮い立たせると。

 そして彼女は言ったのだ。物理的な対策は考えつくと。だが心理的な対策が思いつかないと。

 それはつまり、勝つための算段は付けてやるから、自分を信じて行動しろということではないだろうか? 彼女の算段が如何なるものかは、彼はこの3日間に嫌というほど思い知らされていた。それなら、彼がいまさら彼女を疑うべきではなかった。今試されているのは彼の方だ。行動で示すという、彼の言葉が試されているのだ。


 だが彼女の言葉は更に続いていた。

此度こたびは9年前とは違う。

 この戦いを、お前自身の手で終わらせるのだ』


 子爵は彼女の言葉に戦慄した。彼は自分を義兄になぞらえていた。彼女も子爵がグナエウスの後継者足りうるのか測ってる。その彼にグナエウスの身代わりとして、9年前のルキウスのように戦いの決着を付けろと言っているのだ。

――そうか、これは日陰の身でありながら帝位に就こうというイゾルテ殿下からの、日陰の身のままで死んでいった義兄上への手向けでもあるのだ。そしてそれに手を貸すことで、日陰者が日なたに出ることを認めろと言うのか……!


 子爵は落ちた。彼はこの命令を断ることが出来なかった。彼はそれが自分の鬱屈した願いであると気づいたのだ。この方には永遠に敵わない、彼はそう悟ってしまった。この方のお側でお仕えしたい、彼はそう思ってしまった。

「畏まりました、殿下。あなたのご下命に従います。私の忠誠は殿下のものです」

だがその応えは素気すげないものだった。

『勘違いするな、子爵。

 子爵の忠誠は、帝国と皇帝にのみ向けられるべきだ』

それは明確な即位宣言だった。自分を皇帝として認めろという、最初の命令だった。

「失礼しました。私の忠誠はのものです」

未だに炎を吹上げてドルク軍を威嚇する暁の姉妹号に向かって、子爵は深々と頭を下げた。

『宜しい。では行け、子爵。

 プレセンティナに勝利を』


 子爵は湧き上がる感動と、終世の主を得た喜びに震えながら、雄叫びを上げた。

「ウォォォォォォォォォォォオォォ!!!」


 その声に将兵の目が集まると、子爵は矢継ぎ早に命令を下した。

「これより敵に逆撃を加える! 狙うは敵の本陣だ! この戦いを、我らの手で終わらせる!

 騎兵は城門の前へ! 歩兵はその後ろだ! 弓兵以外は全て打って出る!

 出撃の後、城門を閉じろ! 戦いが終わるまで、我らは決して帰らぬ!

 投石機はカクテルを全力で発射せよ! 当たらなくても構わん! 周辺の敵を壊乱せしめよ!」


 兵士達が慌てて整列を始めると、ベルトランが駆け寄ってきた。

「コルネリオ、俺も付いて行ってもいいよな!?」

「自由にしてくれ! だが待ってはやらんぞ! その格好で付いて来れるのか!?」

全身甲冑をガシャリと鳴らしてベルトランが項垂れると、整列した兵士たちの間から笑い声が漏れた。


 子爵は彼らの先頭で馬に乗ると、再び大声を上げた。

「門を開け!

 敵本営は東北東、丘の上だ!

 全軍、我に、続けぇぇぇぇえぇぇ!」


 その軍勢はわずか1300程であり、騎兵に至っては子爵を含めて10騎ほどしかいなかった。もともと数少ない騎兵は、ウロパ側の水際防衛に引っ張りだされているのだ。わずかにいるのは城壁内の伝令用として連れてきた馬だけだった。普通なら二の足を踏むところだが、子爵は歩兵どころか他の騎兵さえ置き去りにして城門を飛び出すと、イゾルテ・カクテルの炎の間を縫ってドルク軍の中へと飛び込んで見せた。


 ただでさえ夜で見通しがきかなかった。月明かりは蠢く人影を見せるばかりで、それが敵なのか味方なのか、生者なのか死者なのかも判然としない。その闇の中で化け物のような船が炎を吐き、仲間が生きながら灼かれるのだけは、ドルク兵達にもよく見えていた。海から逃げ戻ってきた兵士たちはみな、魔女の名を口にして怯えきっていた。

 そこに突如敵が現れたのだ。海の上で地獄を見てきた者達には、今炎の中から現れた敵の姿は、彼らを追いかけてきた亡者の軍勢に見えた。陸の上ですらも安全でないと知った彼らは、悲鳴を上げながら再び東に向かって駈け出していた。そして一度潰走が始まれば、その混乱は容易に全軍に伝播するものだ。

 突然炎の中から現れたプレセンティナ軍に、ただでさえ混乱していたドルク軍は、一斉に崩れ始めていた。


 子爵は5人、10人と敵を切り払ううちに、立ち向かってくる敵が居なくなったことに気付いた。ふと気づけば、敵も味方も既に同じ方向に駆けていた。あまりにもあっさりと崩れたドルク軍に、子爵は感動を覚えていた。

――これが殿下の算段の結果か……!


 馬を走らせながら周囲を見回すと、彼は2時の方向に一際大きな天幕を見つけた。まさか逆撃を喰らうなどとは思わなかったのだろう。多数の篝火が煌々と焚かれ、闇の中に将旗が浮き上がって見えた。子爵は頭上で刀をくるくると回して注目を集めると、大天幕に向かって振り下ろした。

「2時の方向! 突撃に、移れぇぇぇぇえええええ!」


 その突撃はとても足並みの揃ったものとは言えなかったが、先頭を駆ける子爵の気迫が乗り移ったかのように一丸となってドルク軍の戦陣を駆け抜けた。歩兵たちも必至に駈けていた。先頭を走る騎兵が、逃げまわるドルク兵が邪魔になって思い通りに走れないのがわずかな救いだった。

 子爵が100mあたりまで近づいた時、大天幕から飛び出して来た5、6人の一団が馬に跨るのが見えた。その一団が東に向かって逃げ出すのを見ると、彼はその一団に鼻先を向けて馬にムチを振るい、怒号を上げた。

「どけぇぇぇぇえぇぇえぇ!!!」


 潰走するドルク兵達は一団の行く手も遮っていて、彼らも思うようには進めなかった。だが子爵の前では、怒号に気圧されるようにドルク兵が割れて道が開いた。彼は味方の大半を置き去りにして、数騎の伴を従えただけで一団に迫った。

 一団を離脱した3騎が時間を稼ごうと立ちふさがったが、子爵の脇を固めていた騎兵達が槍を投げて牽制するうちに彼一人はその脇を駆け抜けた。指呼しこかんまで敵将に迫った子爵は、刀を振り上げると敵将に向かって投げつけた。

「くらえぇぇえぇ!!」

ぐるんぐるんと回転しながら山なりに宙を飛んだ刀は、馬の後ろ足を絡まるように切りつけ、悲鳴を上げて横倒しになった馬の背からは敵将が転げ落ちた。

 子爵は一気に距離を詰めたが、最後に残った護衛が慌てて引き返し彼の前に立ちふさがった。無手になった子爵は、槍を繰り出してくる護衛に対して馬を竿立ちにさせて牽制すると、その槍先をむんずと掴んでそのまま無理矢理に奪い取った。そしてその槍を振って護衛を払いのけると、彼の血がしたたる槍先を、落馬した敵将の喉元に突きつけた。敵将も護衛も凍りつくうちに、追い付いてきたプレセンティナの騎兵達が彼らを押し包んだ


 敵将は立ち上がれぬまま、憎々しげに子爵を睨みつけた。

「刀を投げるとは……恥知らずめ!」

「私の恥も誇りも、お前の決めることではない。だが、私の主は寛大なお方だ。降伏するなら、命までは取られぬだろう」

敵将はしばらく逡巡したが、やがてボソリと呟いた。

「ワシの名はヒシャーム。貴様の名は」

「スキピア」

「貴様の主は」

「イゾルテ殿下だ」

それを聞いたヒシャームは、突然楽しそうに笑い出した。

「ふ、ふ、ふはははっはっは。そうか、どこまでも魔女の掌の上だというのか」

そしてピタリと笑い声を止めると、再び真剣な目で子爵を睨んだ。

「だがな、魔女の使いよ! このワシの恥も誇りも、全ては神とウラト陛下の決めることだ。決して魔女の決めることではない!」

ヒシャームは血に濡れた槍先を掴むと、自ら喉を貫いた。

「ごぼっ、ぼぼっ、ごぼ」

ヒシャームは言葉にならぬ言葉を血とともに吐き出すと、槍先からゆっくりと滑り落ちた。


 子爵は血の海に沈むヒシャームを見つめながら、彼を豹変させた魔女の名の重みを感じていた。きっとこの戦は魔女の名を広めることになるだろう。そしてそれを代償として、彼は敵将を討ち取ることができた。


「敵将ヒシャーム、討ち取ったりぃぃぃいいいいいい!!!」


 追い付いてきた歩兵たちが、子爵の声を聞いて勝鬨を上げた。

「ウゥゥー! ヤァアー! ウゥゥー! ヤァアー! ウゥゥゥ!」

その勝鬨は、3kmほども離れたガルータ地区に届いた。残っていた弓兵達も勝鬨を上げ、それが海峡にいた暁の姉妹号と対岸のペルセポリスの港にまで届いた。



 早暁、子爵は暁とともにガルータ地区に凱旋した。そこには1人の市民もいなかったが、100万市民の歓声が海峡を越えて彼を迎えた。彼の戦功は既に遠くと話す箱{無線機}で皇宮にも伝えられており、敵が撤退したことは『アテヌイの目』で確認されていた。それは既に市中にも伝えられて、市民を熱狂させていたのだ。だが彼が求めたたった1人の声は、彼の胸元から聞こえてきた。


「子爵、ヒシャームを討ち取ったそうだな、よくやった。叔父上の責務を引き継ぐに足ると認めよう。だが、子爵。もしお前が望むなら――」


 ― 私がお前を至高の座へと導こう ―


 それはプロポーズだった。皇帝となるイゾルテの、伴侶となれという命令だった。イゾルテに忠誠を誓った以上、彼に否やはなかった。

「仰せのままに」

その静かな声の裏で、彼の心は湧き出る感情に翻弄されていた。

 彼はイゾルテに認められたことを誇りに感じていた。

 彼はイゾルテと築く未来に希望を感じていた。

 彼はイゾルテと生涯を共にすることに喜びを感じていた。

 彼はイゾルテに恋をしていることに気付いた。


 こうしてペルセポリスは守られ、全市は喜びに満ち溢れていた。だがその陰で、思わぬ凶報がイゾルテを待ち構えていた。

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