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「……何でここに来たの?」

「しー! 大きい声出したら迷惑だよ」

「いや、別に大きい声じゃないし……」

「あーまた! しー!」

「そっちの方がよっぽどうるさいでしょ……」

 人差し指を口元にあてている委員長を横目に、私は紙コップに入ったりんごジュースを飲んだ。あまりおいしくない。

「じゃ、ちょっと漫画取ってくるね」

「勝手にどうぞ」

「冷たいな~」

 とか言いながら、委員長は私たちが座っている狭い仕切りの中から出て行った。

 私たちは今、漫画喫茶に来ている。委員長は何も言わずに私の手を引っ張ったまま、駅前の漫画喫茶に入った。それから流れるように受付を済ませて、前払いの料金は全部払ってくれた。あとから半分出せとか言われたらどうしようかと私は不安に思った。

 私は漫画喫茶なんて初めて来た。小説を読んだ影響で、漫画喫茶には『家出をしたときに真っ先に浮かぶ宿候補』というイメージしかない。つまり、こんな風に放課後に遊びに来るような場所ではないと思っていたのだけれど、それは違うらしい。

 漫画喫茶の中は、薄暗くて、静かで、それでも確かな人の気配がして、まるでお化け屋敷のような不気味さがあった。それに、私の目の前で煌々と光るパソコンの画面には、AVの料金がいくらだとか映っていて、自分が大人の男性の領域に勝手に足を踏み入れたみたいで、言いようのない恐怖感がせりあがってくる。要は、どうやら漫画喫茶は私の肌に合わないようなのだ。

 そんな居心地の悪さを感じながら、りんごジュースを飲んでいると、突然何者かの視線を感じた。首を巡らせて辺りを見回すと、仕切りの上からひょっこりと顔の上半分を出している委員長を見つけた。

「よかった~、この番号だったか~」

 部屋の番号がうろ覚えだったのか、委員長はそんなことを言いながら仕切りを開けて、私の隣のソファにどかっと腰かけた。それから「ほいこれ」と私に漫画本を五冊ほど手渡してきた。

「……なにこれ?」

「どうせ普段から小説しか読んでないんだろうと思ってさー、最近の流行りで柏木さんが好きそうなやつを見繕ってきてあげたよ」

 渡された漫画を確認してみると、全部がシリーズものの第一巻で、そして全部ラブコメだった。高校生の男女やら、大学生のハーレムものやら、女子高生と社会人のイケナイ関係やら、なんやらかんやら。

「……私が恋愛小説ばっかり書いてることへのあてつけ?」

 既に足を延ばしてくつろいだ体勢で漫画本を開いている委員長の横顔に訊いた。

「別にそんなんじゃないよ。恋愛もの書いてるから好きなのかなーって思っただけで、あてつけじゃないよ」

「はあ、そう」

 まあいいか。せっかく私のために委員長が数多ある漫画から選んできてくれたのだから、素直にありがたく読ませてもらうことにしよう。

 適当に高校生男女のラブコメを手に取って、ページを開いた。絵柄が完全に男子向けのそれだったけれど、私にとってはどうでもいい。

 絵柄と同じく、ストーリー展開も男子向けらしく男主人公の視点で進んでいく。女子高生の私には感情移入しにくいけれど、内容は別段つまらなくはなかった。特に突出した特徴がある展開はなく、王道のボーイミーツガール。終始地味な展開が続くのだけれども、なぜだかその地味さがおもしろい。この話は小説に落とし込んだとしてもおもしろくなるだろう。

 ……でも、私はこの漫画がなぜこんなにもおもしろいのかを明瞭に理解することができないから、私の小説はいつまで経ってもおもしろくならないのだろうな、とそんなことも思った。

 私は最後まで読み切ってしまった漫画を閉じた。小説を書き始めてから、傑作や名作に出会うたびに、感動していた以前とは逆に気分がブルーになってしまう。

 二巻を取りに行こうかなと考えながら、ふと隣の委員長に目を向けると、委員長はすぅすぅと寝息をたてていた。胸にのった漫画本が呼吸に合わせて上下に揺れている。

「えぇ……」

 起こした方がいいのだろうか。でも、特に起こす理由があるわけでもない。私が迷っていると、突然ぱちくりと、委員長の目が開いた。

「……ふわぁ~。おはよ~」

 委員長は両手をあげて背筋を伸ばしながら、夕方に朝の挨拶をした。

「お、おはよ」

「……あ、それ、おもしろかった?」

 委員長は片手で目元の涙を拭いながら、もう片方の手で私がまだ手に持っていた漫画を指して、訊いてきた。

「うん、おもしろかった」

「なはは、それはよかった。まあ、それあたしが描いたやつだから面白くないわけないんだけどね」

「は?」

 私は耳を疑った。

 あたしが描いた、とは?

「実はあたし、漫画家なんだよね~。みんなには秘密だぞ~」

 委員長は冗談めかした口調で、あくびをしながら言った。

 ……まだ寝ぼけているだけか?

「信じられない? ほら、作者の名前見てみ?」

 私は急いで本の表紙を確認した。作者名『吉崎シンジ』。これが委員長のペンネーム? 完全に男性の名前だけれど。

「ほら、あたしの名前は吉川で、ペンネームはそこからとって吉崎。柏木さんも、柏木から柏井なんだから、似たようなものでしょ?」

「……本当に?」

 私が委員長の話を信じないのには、二つ理由がある。一つは、普通の一介の女子高生には漫画を描く時間を十分に取れないだろうということ。私のように小説ならまだしも、漫画はものすごく生産効率が悪く、小説家には多くの兼業作家がいるなかで、漫画家はそのほとんどが専業作家であることからも、漫画には多大な時間と手間がかかることは明らかだ。そしてもう一つは、シンプルな私の私情。私よりも先に、創作の世界でプロになっている同い年の人間の存在を認めたくないという、極々単純な私情だ。

「…………あー、ごめん、ぜんぶうそ」

 にひひと笑いながら言う委員長。

 私は一瞬本気でこの女の顔面を殴り飛ばしたくなったが、すんでのところで自制した。

 本当にこの女は、一体何がしたいのだろうか。

「なはは、ごめんごめん。そんな怒った顔しないでよ~。悪かったって」

 狐のような笑顔で委員長は私を宥める。

「……あんたは何がしたいの?」

「んー? ところでさ、柏木さんの最大の欠点って、人のことを勝手に決めつけるところだよね」

「はあ。はぁ?」

 いっそ清々しいほど見事に話の腰を折られた。

 もう私は委員長についていけなくなってきた。なぜこんな話し方をする人がクラスで人望を集めているのだろう。

 突然漫画喫茶まで人を引っ張ったり、突然意味のわからない大嘘をついたり、突然話を百八十度変えたり。

「柏木さんにはその欠点の自覚ある?」

「えぇ、いや、今気づいたけど……」

「なはは、やっぱり柏井先生は正直でいいね~」

 頼むからその柏井先生と呼ぶいじり方だけはやめてほしい。羞恥で狂いそうになるから。

「そしてあたしも、柏井先生と同じ欠点を持っている」

 委員長は両手を頭の裏に回して、天井を見つめた。

「どういうこと?」

 人の事情を勝手に決めつけるのが私の欠点。確かに、それは認めざるをえない。自分の行いを顧みてみると、確かに私が嘘をついていると評した高校生の三分の一くらいは、私の勝手な決めつけであって、本当は嘘つきではなかったかもしれない。十分な根拠もなしに嘘つきだと決めつけてしまっていたかもしれない。それは私がよく反省すべきことだけれど、委員長も同じ欠点を有しているとは、どういうことだ?

「あたしは今まで色んな人と関わってきたし、そして色んな人に裏切られてきた」

「……もしかしてこの話、長くなる?」

「うん、長いよ。でも柏木さんはこういう話好きでしょ? 小説のネタに使えるかもだし」

「……委員長をネタに使ったりは、しない」

「なはは、それは喜んでいいのかな?」

 委員長は天井を見つめたままで、私が一方的に委員長の目を見ている。それにどんな意味があるのかは、小説を書いている私にも読めない。

「それはともかく、話を戻そうか。あたしは本当に色んな人に裏切られた。十年来の幼馴染に悪口を言われたり、ずっと友達でいるって言っていた男友達に襲われかけたり、ある日突然恋人と音信不通になって、その悪口を言っていた幼馴染と私の恋人が付き合っていたこともあったな~」

 全く表情を変えることなく、私の想像以上に重い話を委員長は淡々と語る。

「決して不幸自慢じゃないからね?」

「わかってるよ……」

 不幸自慢をするような人は、もう少し悲しそうに同情を誘って話すだろう。

「まあ、他にも色々あったんだけど、特に決定的なにかがあったわけでもなく、そういうことの積み重ねで、あたしは人間不信になってしまったんだね。晴れて柏井先生と哲学がおそろいになったわけだ」

 私も人に裏切られた経験は数多くあるけれど、どれも委員長ほど酷い事例ではない。だけれど私も、委員長と同じく人間不信だ。

 多分、私は人間不信になるべくしてなったのだと思う。私は生まれ持った性格から、人間不信になることが運命づけられていたのだろう。そして、多分委員長の場合はそうではない。委員長は、元々の性格では人間不信になるような人ではなかったのではないか。でも、周りの環境が委員長を人間不信に染め上げてしまった。委員長は私とは違って、被害者なのだ。

「だからさ、私には本物の友情や愛情ってものが、全く存在しないんだよ」

「………………それは、みんなそうなんじゃないかな」

 私が言うと、委員長はぴくりと瞼を動かして、一瞬視線をこちらに向けたが、すぐに戻した。

「……そういえば、柏井先生の小説にもそんなことが書いてあったね。高校生の人間関係なんて全部偽物だーみたいな。確かにあたしもその通りだと思う。でもね、あたしの場合はもうそういうレベルじゃないんだよ」

 すると、委員長は起き上がって、紙コップのいちごミルクを一口飲んだ。

「あたしは本当に誰も信じていない。学校の友達はもちろん、家族でさえも。あたしは全人類をまず疑っているんだ」

 委員長は今度はいちごみるくを見つめながら、言った。おそらく嘘ではない本心の言葉を並べた。

「……それは、私も?」

「なはは。そんなこと訊かなくてもいいのに」

 さっきより幾分か乾いた笑いで、委員長は私の問いを誤魔化した。まあ、今日初めて話した相手のことを信じる人の方がおかしいけれど。 

 ぎり、と胸が痛んだ。

「……ていう、長話っていうほど長くもない話だけど。どう? 小説のネタになりそう?」

 そこでやっと、委員長は私に顔を向けて、そして委員長と私の目が合った。悲哀を帯びた、寂しそうな目だった。

「た、短編なら……」

「なはは、柏井先生はほんとに正直で素直だね。尊敬するよ」

 今度の笑いは乾いたそれではなく、ちゃんと水気を含んでいた。

「……なんでそんなこと、私に話したの?」

「んー? まあ、小説を読む限り柏井先生はあたしと同類だからね。ちょっとは理解してもらえるかと思って」

「……それだけ?」

「それだけだよ。あたしの行動にいちいち深い意味なんかない。小説じゃないんだからさ」

 と言って、委員長はふっと微笑んだ。

 クラスで一番人望を集める委員長の正体は、私と同じ人間不信だった。そして、私と決定的に違う点は、委員長は平気で嘘をつくということ。私と委員長には、それだけの違いしかないのに、クラス内での評価は真逆だ。最上位と最下位だ。たった、嘘をついているというだけのことで、私と委員長の生活は全く違うものになっている。確かにこの事実は、小説の主題として使えるかもしれない。

 そして、それと同時に、委員長の話とは全く関係ない一つの考えが、私の中にぽつんと浮かび上がってきた。

 人の目を真っすぐに見て、自信を持って自分の真実を語ることのできる人間は、きっとどこにも存在しないだろう。

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