その日、一羽の蝶がひらひらと空を漂っていた。


 蝶は花の蜜を求めて住宅の庭に舞い降りようとしていた。


 ところが突然、蝶を取り巻く大気の流れが、何の前触れもなく乱れた。


 そして、蝶の羽ばたく行き先が、まるで何者かにあやつられるかのように、道路の方へ、道路の方へとそれていった。


 そこには、ちょうど若い母親がベビーカーを押して散歩をしていた。


 蝶はベビーカーの前をはらはらと通り過ぎると、再び飛翔した。


 ベビーカーの中で、赤ちゃんが蝶の舞うのを指さして、きゃっきゃと喜んだ。


 赤ちゃんが急に笑い出したので、ベビーカーを押していた母親は何だろうと思って、赤ちゃんの顔をのぞきこんだ。


 そこに、スマホを手にした大学生がすれ違った。


 大学生は急に前かがみになった若い母親の胸元を、これ以上集中しようがないほどの集中力をもって両目に焼き付けた。


 そのため、手にしていたスマホの電話番号の入力を、一文字打ち間違えた。





 うるさいな…。


 神野 葵は階下でいつまでも鳴りやまないコール音を忌々いまいましげに聞いていた。


 忌々しい…。


 何もかもが忌々しかった。


 生活のすべてが忌々しかった。


 自分が生きていることも忌々しかった。


 自分が今この瞬間、この世に存在して、呼吸をして、生きながらえていることが苦しくて苦しくてたまらなかった。


 あの日のあの瞬間が、いつまでも脳裏から離れなかった。


 交差点に突っ込む瞬間、目の前に迫るトラック、やばいやばいと叫びながら僕は…僕は…慌ててつかさの自転車の後部座席を飛び降りて…それで地面を何度も転がって…だけど詞はそのままトラックと激突して…。


 他に方法は無かったのだろうか。


 自分だけじゃなくて、詞も一緒に助かる方法は無かったのだろうか。


 どうして自分だけ自転車を降りたんだ。


 詞をつかんで一緒に飛び降りていれば、二人とも助かったかもしれないんだ。


 どうしてその判断ができなかったんだろう。


 なぜあの時、ひとりだけ助かろうとしてしまったんだろう。


 自分は卑怯だ。


 卑怯者の馬鹿野郎で、生きている資格のない人間のくずだ。


 いっそ頭がおかしくなってしまいたかった。


 その方がどんなに楽だろうかと思った。


 何もしたくなかった。


 何も考えたくなかった。


 何もせず、そのまま衰弱して死滅してしまいたかった。


 それでも、いつも決まった時間にお腹がすいてきて、お母さんがドアの外にそっと置いてくれるおにぎりやパンをもぐもぐ食べては、満たされた思いをしている自分を嫌悪した。


 そんな毎日がつづいていた。





 居間のコール音はなかなか鳴りやまない。


 下には誰もいないのだろうか、と思いかけて、平日の昼間なんだから当たり前かと、思い直した。


 しかし、いったん止んだコールが再び鳴り始めたときは、さすがに何かがあったのかもしれないと思って、錆び付いた体をそっと起こしあげた。


 お母さんからだろうか。何か職場でトラブルでもあったのだろうか。


 だとしても、僕のスマホの方を鳴らしてくれればいいのに。あ、電源が入ってなかったんだっけ。そういえばスマホも放置しっぱなしだったよな…。


 うんざりするような気だるさを支えるようにしてリビングに出ると、けたたましくなり続ける電話の受話器を持ち上げた。


「はい。」


「あー、もしもしー、明日予約したいんですがー、えっとー、4人か5人で、19:00からなんですが、席ってまだ空いてます??」


「は??」


「は?」


「え、と、神野ですが…。」


「あれ?あれ?あれ?あ、すみません、間違えたのかな、リダイヤルで何度もかけてたかもしれない、すみませーん。」プツンッ!





 葵は受話器を手に取ったまま、ぼうぜんとその場に立ち尽くした。


 間違い電話だったのか。と気が付くまでに少し時間がかかるほど、唐突なやりとりだった。


「なんなんだよ、もー。」


 受話器を戻すと、ふと、電話台の正面の壁にかかっているはがき差しがキラリと光ったように見え、葵の目に留まった。


 ほとんど整理されてないまま、がさつに放り込まれたはがき類の束。


 その中に、永井 つかさからもらった写真絵葉書が挟まっていた。


 思わず引き抜いて眺める。


 青空に金閣寺の写真。外国人が喜びそうな“いかにも”な京都の景色に、でかでかとマジックで「今年こそ全国行くぞ!!」の一筆。


 そうだ…、あいつ確か京都に行ってたんだ。


 毎年京都で開催される全国高校駅伝大会。その下見だとかリベンジだとかなんとか言いながら、ろくにコースも調べずに一人で行って、観光だけして帰ってきたんだ。リベンジの意味分かってんのかってみんなで笑ったっけ。


 そうだ、だからこのハガキは旅先から送ったとかじゃなくて、詞が帰ってきてから学校で手渡されたんだ…。金閣寺でもらったから記念にあげるとかなんとか言って、その場でマジックで一筆書いて、カバンに突っ込まれたんだ。何が何だかよく分からない。でもその妙なノリというかテンションがいつも笑いをもたらしてくれたんだ。


 このハガキ、こんなところに差してあったんだ…。


 確かにもらった後、丁寧にしまった覚えがない。


 学校から帰ってきてから、カバンのポケットから出てきたのを、その場で適当にはがき差しに差し込んだのも、今思い出した。


 それにしてもこの調子。


 この何とも言えない雑な感じ。


 すがすがしいまでの青空と金閣寺、そして一切迷いのない太いマジックペンで『全国行くぞ!!』、て…。


 詞だ。


 これは紛れもなく、詞の言葉だ。


 ド天然で一本調子で嘘のない、まっすぐな詞の心がこめられた、これは紛れもなく詞の言葉だ…。



 突然、葵はその場に崩れ落ちるように嗚咽おえつした。


 体の奥底から燃えるような感情がつきあがり、呻くような声が漏れるのをこらえることができなかった。


 詞が、僕に何かを伝えようとしている!


 その直感が、葵の全身を電流のように走り抜けたのであった。


 葵は泣いた。


 とめどなく涙があふれだした。


 それはまるでこの数日の間に築き上げた防壁に亀裂が入ったかの如く、裂け目は広がり、決壊はとどまるところが無かった。


 葵はその場にふしたまま、一人でワンワンと泣き続けた。


 むせかえり、滝のように流れ落ちる涙を両手で抑えて泣き続けた。


 泣きながら、葵は謝った。


 詞に、何度も何度も謝った。


「ごめん、詞、本当にごめん…。」


 それが何に対しての『ごめん』なのかは分からなかった。


 事故のことなのか、それとも事故を起こした後の、自身のふがいなさのことなのか、その両方のことなのか。


 葵は泣きながら、全身が何か優しいものに包まれているのを感じずにはいられなかった。


 そして体中を洗い流し、再び立ち上がろうとする気力がみなぎるのを抑えることができなかった。

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