神野 葵は素晴らしい素質を持つランナーだった。


 中学時代に3000mで県の記録保持者。でも本人は陸上部でもなんでもなく、卓球部。すなわちほとんど誰からも何の教えを受けないまま、天性の素質だけで県内に名前を残すほどの実力を持つ、天然の原石だった。


 高校入学時には地方の名門高校からの誘いもあったが、それを断って普通の県立高校に入学し、陸上部に所属。

 理由は、家からバス一本で通えるから、そして駅伝がやりたかったから。


 そう、うちはなぜか高校駅伝だけはそこそこ県内でも名の知れている強豪校なのだ。だから駅伝やりたさに入ってくる生徒も多くて、俺もその一人だったりする。


 自慢じゃないが、俺は中学時代に市のマラソン大会で優勝したこともあるのだ。もちろん中学生の部だけど。


 だけど、俺のそんなささやかな自信も、葵と並んで走ってみると粉々にふっとんでしまった。


 色白の、ひょろりとやせ細った高身長、およそ今までに人と争ったことがないような、大人しく控え目な物腰。ところが走り出してみるとその姿は一変し、次元を一つも二つも超えたような衝撃をもたらせるのだった。


 葵は、まるで大草原をかけめぐるガゼルか何かのように、全生命力を躍らせるように走った。


 その一歩一歩の躍動には力があり、空を舞うような軽やかさがあり、なによりも美しかった。


 俺はあっという間に突き放されて、その背中が遠ざかるのを眺めながら、自分はこの部活の中では永遠にエースの座につくことは出来ないだろうな、と思い知ったのだった。


 監督の指導の下、葵は日ごとに進化を遂げていった。


 なまじっか今まで誰からも指導を受けたことが無かったせいもあり、フォームを整えてからの葵は飛躍的に成長した。


 そうはいっても駅伝は団体戦。初年度は善戦むなしく惨敗。でも2年になった今年は全国を狙えると言われていた。



 なのに、この状態だ。


 高校駅伝の県予選は1週間後。


 俺が抜けてしまい、その上葵まで抜けてしまったら到底勝負にならないだろう。


 代わりの走者は1年の宮川か、最近好調の稲見か…。しかし二人とも、葵の代わりは到底成り立たない。


 全国は届かず、そのことで葵はさらに自暴自棄になり、そして永久に立ち直らせることができなくなってしまうだろう。


 やはりなんとしても葵をこの状態から復活させなければ。


 しかし、今の俺のこの状態…。


 生きていた時はこのような霊体になれば全知全能の神のような特殊な力が備わると思っていたが、実際は全くの無力。


 物を動かすとか人の夢枕に立って話しかけるとか、どうやらそういう現象を起こすのには途方もないエネルギーが必要なようで、自分にできることといえばせいぜい分子レベルで、物質の流れにほんのわずかな変化をつけることぐらい。



 例えば、ほとんど質量がない、空気の流れのようなものにほんのわずかに影響をおこし、ちょっとした気流の乱れを起こすとか…。


 または、光の屈折を一瞬だけずらすとか…。


 応用をきかせて人の神経に少しだけきっかけを与えて、何らかの気づきをうながすこともできるのかもしれないけれど、これは既に何度か葵に働きかけたところで全く無駄だと分かった。


 葵の意識を、ユニフォームやシューズに向けるようにしても、むしろ内向してしまうし、中学時代のトロフィーや賞状に視線を向けようとしたところで、一切興味を失っていて何も進展しない。


 結局、意識が内側にむかっている限り、外からどんな働きかけをしたところで全部素通りしてしまうのだ。


 だんだんいら立ってきて「この、ばか!」と葵の頭をはたいてすり抜ける。


 この怒りが盛大なポルターガイスト現象でも起こせば少しは違ってくるのかもしれないけれど、自分にはそこまでの力がないらしく、残念だ。


 そもそも葵がこの部屋に閉じこもっているのがいけない。こんな狭い空間の中では手の施しようがない。


 まずは葵をこの部屋から日の光の下に出すことだ。


 部屋から出しさえすれば、次の手に結びつくはずだ。


 部屋から出しさえすれば…。



 ちょっと…恥ずかしいけれど、必ず次の手に結びつくはずだ…。

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