02『Strawberries and Cream』

 他国の爆撃機編隊ではなかった。

 地球上のどこにも存在しないはずだった。その扁平な体型の主──サソリのような尾をなびかせながら遊泳するそれは。エイと蟲と腐乱屍体とをコラージュしたかのような巨大生物であり、その背から次々と吐き出されているのは。

 無数の焼夷弾──ではなかった。

 人型だ。

 逆光で細部は未だわからないが、ヒトを模している。どよめきと携帯電話のシャッター音。浮塵子うんかの如き群れが、パラシュートもなしに降下してくる。撮影──と誰かが疑問符混じりに呟いた。だったら良かったのになと独裁者と良識人が口を揃えた。アスファルトを踏み砕き、着地したその容貌は。


 だ。


 肉が落ち、されど淡紅色のはだだけは纏った、髑髏のかおをしている。膨大した左腕は成人男性の胴ほどに太く、随所から骨のような突起が飛び出している。中には腹部が破れ、ソーセージ工場の屑籠を彷彿とさせる"中身"がみ出ている個体もいたが──まるで、意に介していないふうだった。

 歩みに合わせ、揺らめくそれらがなまめかしく、しかと脈打っている。


 生きている。

 

 ぬらつきが、有機体であることを執拗に強調している。息をしている。

 胸の悪くなる臭気が鼻をついて、ああこれは白昼夢ではないのだと、この冗談のような化け物たちは瞬きとともに消えてくれはしないのだと思い知らされる。独裁者と良識人は、もう何事も喋ってはくれない。


 透の五、六メートル先、立ち尽くしていたビジネスマンの躰が、真っ二つに割れた。


 髑髏が、棍棒のように発達した左腕を力任せに振り下ろしたのだ。頭頂から股下まで、開けた躰がくずおれる。血飛沫を上げながら、内容物を溢れさせながら。はやはりそういうことをするために発達した部位なのだなぁと目の当たりにして痛感する。透の足許に、血肉と角砂糖状の骨片が跳ねる。と誰かがんだ。独裁者でも良識人でもなかった。始まるぞ──。顎を引いた。全くの同意見だった。髑髏の白濁した眼球が、透を捉えた。


 逃げ惑え。


 逃走と──呼べるものではなかった。

 まさしく惑うしかなかった。だって、もうそこかしこに居る。動作は単調だ。移動とてそう機敏ではない。ただ、逃げ場がない。全速力で、どこに走っていいかがわからない。叫喚と怒号。二、三メートル先に老婆が倒れていた。すぐ傍に、杖と紙袋が転がっている。。役立たずめと罵って、透は老婆の許に駆け寄ろうとして──。

 足首を掴まれた。

 女子大生──くらいだろうか。うつ伏せのまま顔だけを上げて、溶けた飴玉みたいな右目で透を見ている。左目は小刻みに揺れて、割れた額と鼻から止めどなく血が流れている。未だ──降って来てものの数秒だろう。どうして、こんな状態の人がいる。衝突音。車両同士の接触事故か。独裁者と良識人が離せと言って、彼女の顔面を足蹴にする。冗談じゃない。透は、その場に屈んで。

 

 彼女の指を一本ずつ引きはがした。


 すみませんと声にならない謝罪を添えるだけ添えて。

 視界の端──老婆の顔をちらと覗いて。アスファルトに広がる、到底助からないだろう量の血溜まりを見て。ほっとした。善かった。だって、生きていたら、また見捨てなければならなくなる。罪悪が増える。

 地下ならまだ身を隠す場所があるかもしれない。目と鼻の先に青い「LUMINE EST」の文字。地下街に繋がる階段。点字ブロックまで差し掛かって、目を疑った。


 黒い珊瑚だった。


 魚鱗状に爛れたマネキンの手足が、群れを成してバリケードと化していた。うずたかく積まれて越えられないなどという次元ではない。非情かつ執拗。空気の通り道すら許さぬとばかりに、みっちりと犇めいている。

 後退った。

 見れば、タクシー乗り場──新宿駅東口の前にも同様の珊瑚が形成されている。いつの間に。襲いかかる轟音。反射的に頭を庇った。わからない。ただ、なにかが爆発したとしか──。耳は痛んだが、聴力は健在だった。いっそ失ってしまった方が、まだ正気でいられるのではないかと。


 向かいの歩道を小学生の男女が、手を繋いで走っている。


 背格好から判ずるに、前を走る女の子が年長者で、手を引かれている男の子が年少者。姉弟かもしれない。流石に小学生の時分ならば、透も妹より前を歩けていただろうか。おにいちゃん、ひとってしんだらどうなるの? あの問いかけに自分は何と答えたのだったか。背後に、髑髏が肉薄する。危ないな──と思ったときにはもう、男の子の首が宙を舞っていた。幾分軽くなった(あるいは突然重くなった)弟の躰につられた姉がつんのめって、振り向いた彼女の脇腹を。

 顔を背けた。耳を塞いだ。もう走る気力さえなかったが、歩くことだけは止められなかった。イイ感じじゃんと誰かがせせら笑った。


「だから、さっきから誰なんだよお前!!」


 独裁者でも良識人でもない誰かが、腹を抱えて喜んでいる。

 ふと見たビルの屋上に、十三歳の自分が立っていた。あり得ない。そもそも見て取れる距離ではない。あんなものは幻だ──とわかり切ったことしか言わない良識人を殴りつけ、透はそれを指差した。

「飛べよ! さっさと! 飛んでっ、一刻も早く死んじまえ! 飛んでたら、こんなことにはなってなかった!」

 そんな──と、尻もちをついたまま異を唱える良識人のつらに爪先を飛ばす。独裁者を睨んだ。すでに口唇を縫い付けられていた。そうだ、お前には、それが似合いだ。腐った人間たちなどと、対岸の出来事みたく二度と語ってくれるな。他ならぬ自分が、限りなくそちら側なのだから。


 ──そちら側なのだから。


「よく言う」

 学校にもあの雑踏にも。

 結局、どちら側にも適応できなかったのがお前だ。

 車道に、首輪をつけた犬が転がっている。下半身がなかった。襲われたか、暴走車両にはねられたか。赤黒い痕跡を辿るに、ほんの数十センチだが前脚だけで歩いたようだった。

 ひとってしんだらどうなるの。


「案外──どこにも逝けないんじゃないか」

 

 風鈴が鳴っている。

 あの日、透と未紗季は庭を観ていた。縁側にふたり並んで、チューブ状の容器に詰まった氷菓子をちびちびんですすりながら、手入れが行き届いた沙羅樹シャラノキを、泳ぐ夏風を観ていた。

 ──死んだあともずうっとここにとどまっているしかなかったりしてな。

 土に埋められても、灰となり藍だけが残っても、鳥の血となり肉となっても。意識は際限なく攪拌されて。永劫横たわる白い皮膚はだを猛毒のように這っているのは。最初の確実なしるし


 なぜか、海の深みにいる音がする。


 遮られた。

 まだそのときではないと、手前勝手に閉め出されたようで不快だった。

 遠く、黒煙が上がっている。


 星影のような血溜まりに、女性が一人横たわっていた。


 ちょうど今年高校生になる子どもがいるくらいの年齢だろうか。オフィスカジュアルな服装で、辺りにはガラス片が散らばっている。透は上を見て、ああこのひとは落ちてきたのかと悟った。

 目が合った。檻の中で安楽死処分を待つ犬みたいな目だった。


 ここが、ニューヨークのマンハッタンであればよかったのに。


 人々の体格はみな立派で、喧嘩中でも愛してるを伝えることは欠かさず、街角には然して美味くもない塩プレッツェルの屋台があり、ランチを食べようとデリに入ればいきなり外で銃声が響く。

 そうしたら透は彼女の手をしかと握って、せめてここにいるから──と看取ってあげることができただろうか。前脚の静脈にペントバルビタールナトリウムを注射されるその瞬間ときまで。

 

 透は、女性の躰を跨いで進んだ。

 

 いっそ人非人だと見下げてほしかった。

 どこか──爪弾きにされているように感じる。

 髑髏たちが、如何なる感覚器官を以て人間を認識しているのかは定かでない。ただ、明らかに標的外とされているかのような。メインディッシュ──という単語が脳裏を過ぎる。笑えた。こんな一介の男子高校生を、否、男子高校生さえり切れなかった出来損ないをいたぶって何になるというのか。何が、果たせるというのか。


 ただ、死にたくなかった。


 息を殺して、感情を殺して、恐怖と不条理に呑まれるがまま、ただわめくのではなく。目立たぬように振る舞っていれば、案外生かしておいてくれるのかもしれない。

「ああ」

 また、笑えた。

 学校みたいだなと透は思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る