03『EYEWALL』

「二千万円。中卒と高卒の生涯年収の差だよ。高卒と大卒だったら確か四千万だったかな。つまり、いま高校に通うだけで水原は平均二千万円得をする。最悪居眠りしていても時給が発生するバイトだと思えば、気が楽じゃないか? もちろん中退して高卒認定試験を受けるという手もあるけど、結局何かしらの事情があって卒業できなかったことに変わりはないわけだから、引っかかる人は引っかかるだろうし。なら通信制はどうかというかと、これは水原も察しの通り、いまの社会で物を言うのは学歴よりコミュ力だからね。いじめだとか、喧嘩だとか、そういう人間関係の問題を処理する力。十代のうちにそれを学べないのはちょっともったいない──と俺は思うよ」

 以上が、やっぱ行かないと駄目だよな──というもはや独り言なのか質問なのかさえ判然としない、透の虚ろな呟きに対するイケこと池袋莞爾いけぶくろかんじの助言である。

 

 日曜日──透と莞爾は新宿三丁目駅近くの喫茶店に来ている。

 昭和の風情を残す純喫茶といった佇まいで、店内は存外混みあっていたが、勉強会をするには申し分ない静けさだった。ここなら同じ学校のヤツには会わないだろう、という莞爾の言葉から察するに、どうやら透の立場も考慮した上での選択らしい。

 勉強会と言っても互いの不足を補い合うわけではない。

 前期中間試験学年一位だった莞爾が不登校児である透の不足を一方的に補うという、透にとってはまさしく補習であり、莞爾にとってはもはやボランティアである。


 ──だから、身の回りのことは概ね一人でこなさなければならなくて。


 そう、莞爾の方から誘われたのをいいことに。自分から助けを求めたわけではないのだからと。不登校になって以降、透は自らの方針をあっさり撤回したのである。

 虫が──良過ぎる。

 それゆえ、これは莞爾の時間を奪ってしまっているのではないかと。透なりに負い目を感じることもあるにはあったが、こうしてマンツーマンで教わっていると案外何とかなるのではないかと。至らぬところを適宜補ってもらいさえすれば何とか。そんな甘過ぎる見解からつい漏れた呟きが"あれ"であり、対する莞爾の淀みない事実陳列が"それ"である。

「まあ、色々言いはしたけどね」

 莞爾はす、とコーヒーを口に運んだ。


「俺はまた水原と学校で会えたら嬉しいなって思っているだけだよ」


 言って、端然と笑った。

 透もつられて微笑み返したいところだったが、コーヒーを一口啜る所作も含め、莞爾のそれほど様になってはいないだろうなと思うと、どうにもぎこちないものしか浮かばなかった。


 水原透が池袋莞爾に一目置いている理由は、彼が美形で文武両道、分け隔てなく親切だからである。あくまで透の主観だが、この三拍子を揃えた男に惹かれない人物の方が稀だろう。

 加えて──この辺りは当人がぼかしているので真相は定かではないが。

 父親は議員秘書で、祖父は元官僚。軽犯罪レベルなら難なくもみ消せるうえ、都内一等地にある池袋家は何故かストリートビューで見るとモザイクがかかっている。街でからんできた不良三人を一瞬で叩きのめした。複数の女子大生と同時に交際している。そもそも都立の高校に通っているところからして不自然だ、なぜ芸能人や政財界の子どもが集まる有名私立に行かないのか、中学時代きっと何かやらかしたに違いない──トカナントカ。

 いずれも本人に確認したことはない。


 兎角、斯様なゴシップの渦中にあってなお莞爾は頑なに優雅なので。


 いついかなるときも結局クラスの中心にいて、羨望を集めている。

 そんな印象がある。


 このガス燈のような男は、本来ならば透のような蛾とは縁遠い存在だった。光を発するものに蛾は群がる。透は派手派手しい蛾から反感を買いたくないので、いつもガス燈を遠くから眺めるのみに留めている。

 だのに、いま不登校児と優等生は休日の喫茶店でこうして顔を突き合わせている。


 これは、ガス燈の方から蛾に歩み寄ったという稀有な例であるからに他ならない。


 ところで。

 蛾は何も光が好きで集まっているわけではないらしい。詳しい仕組みは忘れてしまったが、あれはガス燈の明かりを月明かりと誤認した結果、近づいてしまっているだけで。

 とどのつまり、知らず知らずのうちに集まっているだけなのだ。

 だからこそ、透は余計にと思っている。


 透がトイレから戻ると、莞爾は携帯電話の液晶に見入っていた。

 鼻梁の鋭い精悍な顔立ちは、こうした照明の下で見ると俳優の誰それに似ているというより、さながらギリシア神話の青年神である。笑うと案外年相応で愛嬌もあるのだが。

 目の焦点がけている。手許を覗かずとも、彼が何を見ているのかは察しがつく。


 莞爾は、他人の嫌厭けんえんの情や反発心を観るのが好きだった。


 極端に排外的な思想。全知全能でないとわかっているものをさも全知全能であるかのように謳い、槍玉に挙げる扇動。可哀想というオブラートに包んだ劇薬。あなたのためを思ってという呪縛。二元論で語れぬものを二元論に当てはめようとする不毛。安全より安心をとる感情の奴隷。正義を盾に骨の髄までむしゃぶるハイエナ。権威を悪用した世論の誘導。我こそは大衆の代弁者であると信じて止まぬ盲者。挑戦者を嘲笑う者と身にあまる挑戦を焚きつけて搾取する者。循環論法によって"狂化"される信仰。一度きりの過ちさえ許容できない衆愚。誰かれ構わず石を投げ、石を投げ返してきた者たちを相手取っての下らぬ応酬。

 加担はしない。

 煽りもせず、ただ眺めているだけ。

「楽しいのか?」

 莞爾の焦点が、透へと切り替わった。


「楽しもうとはしてない。誤解されやすいんだけどね、俺は何も他人の偽善を嘲笑いたいわけじゃあないんだ。『われわれはみんな偽善者であり、他人の偽善を糾弾すれば、それは単に自らの偽善ぶりを悪化させるだけだ』とジョナサン・ハイトも言っている。俺は探しているんだよ」


 ああ、と透は生返事にならざるを得ない。ジョナサン・ハイト。哲学者か何かだろうか。

「たとえば、有名人に殺人予告を送るヤツだって、気分によってはステーキを食べたりするだろう?」

「まあ、そうかもな」

「試験会場に爆破予告を送るヤツだって、アマギフほしい人挙手をしてと言われたら多分手を挙げるだろう?」

「そりゃあ──そうなんじゃないか。人間なんだし」

 欲望の方向性が違い過ぎる。

 ふと、自分が食べる動物を自分で殺さなくてはならないなら、皆菜食主義者ベジタリアンになるだろう──という俗説が透の脳裏に浮かんだ。そう、"俗説"。屠畜解体のプロセスに吐き気を催すことこそあれ、牛や豚をその手にかけたくらいで人はまず菜食主義者になどなりはしない。肉がどこからともなく湧いて出る恵みではないと体感したところで、である。


「ああ、水原の言う通り。だから、こんなに憂鬱なんだよ」


 そう言って、莞爾は頬杖をつくや口許を綻ばせた。

 表情と発言がどうにもちぐはぐで、透はただ当惑した。

                ※

 海の深みにいる音がする。

 教室によく似た空間だった。出入口がなければ椅子も机も黒板もない。あるのは教壇と光源の知れぬあおい光、床一面幽かに漂う水模様を映している。それから、黒いマネキンの集積によって閉ざされた窓枠。これより先に外界があるなどと一縷いちるの望みを掻き抱くことさえ許さぬ猟奇的密度。うち魚鱗状にただれた手はすべて部屋の内目がけて伸びているものだから。囚われの身である彼女に対する渇望、あるいは縋る亡者を彷彿とさせる。

 さながら、海中の牢獄。


 ここは、もう二度と君を離さないという誓いの具現。


 教壇を背に立つ莞爾の眼下には、少女がひとり仰臥している。

 忘れもしない顔だった。

 けれど、忘れもしない声で語りかけてくることはなかった。

 少女の躰に四肢はない。長い間、水に晒されてふやけた肉がもろもろと崩れて、骨ごと何処いずこかへとさらわれてしまったようだった。

 ただ──は綺麗に残っているので。

 取り戻せばいい。今度こそ離さなければいい。彼を選んだのが誤りであったと甘美に思い知らせてやればいい。

 昏い牢獄にふたり、移ろうのは碧い水模様ばかり。

「迎えに行くよ。必ず」

                ※

 珍しいですねという若い女性スタッフからの不意打ちに、莞爾はただでさえ大きな目をみはった。やや遅れて、それがトレーに乗っているベイクドチーズケーキを指しているのだと気づく。確かにこのカフェでドリンク以外を注文するのは初めてかもしれない。良いことでもあったんですかと尋ねてくる女性スタッフに、莞爾は僅かに思案したあと、

「これから良いことがあるんですよ」

 と返した。


 せっかくなので見晴らしの良いテラス席に座った。

 ベイクドチーズケーキをフォークで一口大に切って、口に運ぶ。まったりとしたチーズクリームの舌触りとさっぱりとしたサワークリームの余韻。昨夜母が何の記念日でもないのに買ってきた専門店のバスクチーズケーキと比べれば随分チープな味だったが、それが返って莞爾のはやる気持ちを幾分抑えてくれた。


 柄にもなく、池袋莞爾は浮かれているのである。


 黒のジャケットとスラックスのセットアップ。気分は革靴だったが、これから起こることを見越して、結局履き慣れたスニーカーを選んだ。靴下が目にもポップなワイングラス柄なのは、彼なりの少しばかり気の早い祝杯である。平日の朝、この格好で家を出るところを両親には見られていない。否、別に見られても構わなかったのだが──。


 なぜだか、気が引けた。


 携帯電話が震える。要らないよ──という透からの返信。返信を重ねようとして、ふとこれは彼に届くだろうかと疑念を抱く。易々と死なない手筈にはなっているだろうが、錯乱して携帯電話を落としてしまう可能性もなくはない。

「まあ、いっか」

 兎角、"宣戦"は大事だ。指を進めようとして。

 

 どろりと、


 陰影がテラス席を呑んだ。

 食器が、テラス席と店内を仕切るガラスがおののいている。地震──という悲鳴に近い声が聞こえた。だったら良かったのになと彼女ならば無邪気な笑みのひとつ、見せてくれただろうか。


 太陽光を断たれたガラス張りのビルは、きらめくことを忘れて、いよいよ墓標めいている。


 コーヒーの容器についている蓋を外す。何のことはない、表面に立つさざなみが見たかっただけだ。胸の高鳴りに口角を上げながら、天を仰いで。莞爾はただでさえ大きな目を瞠った。

「待ってた」

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