黒ノ都

姫乃 只紫

Phase1

水原 透

01『LOSER』

 未来がわからないから、こんなものばかり見ている。

 シルバープレートのキーホルダー。作為的な劣化と光の反射、映り込みに目を凝らして──。自嘲。それは、とうに埋葬した手続きだろうに。贈り主に倣い、同じく腰にでもつけようかとしばし悩んで、結局ブレザーのポケットに仕舞った。誕生日プレゼント、おそろいだね。きっと、そこに収まっているくらいが丁度よかった。

 

 ここが、ニューヨークのマンハッタンであればよかったのに。


 新宿東口駅前広場に並んだ一向に借り手のつかない空き看板を背に、せわしく行き交うイタリアブランドの革靴(その大半は恐らく中国製)や量産型スニーカーを眺めながら、水原透みずはらとおるはそんなことを考えている。

 無論、心からの願いではない。

 元よりの地に特別な憧れなどない。

 人々の体格はみな立派で、喧嘩中でも愛してるを伝えることは欠かさず、街角には然して美味くもない塩プレッツェルの屋台があり、ランチを食べようとデリに入ればいきなり外で銃声が響く。

 透の描くアメリカ像は、フィクションの寄せ集めと十六年の歳月がつちかった偏見でできている。

 ただ、ところ変われば──あまつさえ海の外ともなれば、魂もそっくりそのまま変わるのではないかと。環境が変われば、取り巻く人が変われば、自ずと水原透も変われるのではないかと。そんなむなしい期待を寄せてみただけだ。

 眉間にしわを刻む。どうせ周りからは待ち合わせ場所に中々現れないクラスメイトに、痺れを切らしているふうにしか見えないだろう。事実、透の通う都立高校はここから徒歩十分圏内にある。


 しきたり通りの平和のなか──。


 所詮、自分なんてそれっぽっちだ。

 曇った空からもれ出たが、墓標のように犇めくビルへと射しかかる。女性の笑い声と軽やかなヒールの音。コーヒーの匂いが鼻を掠めて、誰かが携帯電話のシャッターを切った。


 中学一年生の頃、透が自ら死を選ぼうと思ったのは単調な日々に厭気いやけが差したためであって、もしかしたら死後の世界はここにはない刺激に溢れているのではないか──という期待からだった。

 しかし、飛べなかった。

 放課後の教室、窓のさんに腰掛けて片足を宙にほうったとき──上履きの中の指が縮こまった。焼きつけろとばかりに解像度が上がって、肩甲骨がぎりりと絞られて。


 これで、お終いなのは寂しい。


 実に、ありふれた言い訳だった。

 否、あのとき旅立つことができたとして、そこに求める何かがあったとは限らないではないか。そもそもこの腐った現代にて生まれながらに余生を貪る腐った者たちの魂が巣食う場所に、望むほどの価値などあろうはずが──。


 は、いいだろ。


 安っぽい口上の独裁者気取りを黙らせる。

 要するに、十三歳で自ら死を選ぶだなんて──何か格好良くないかと思ったのだ。

 殊更何がつらかったわけでもない。だから、両親だって、教師だって、クラスメイトだって、警察だって、ワイドショーのコメンテーターだって。動機らしい動機を掴めず、一様に首を傾げてくれるに違いないと。

 一介の中学生の死が、不特定多数の大人の情動をつかの間とはいえ翻弄できるだなんて。

 何だかそれが、堪らなく高尚なことのように思えていた時期があった。

 それっぽっちの話だ。


 ──おにいちゃん、ひとってしんだらどうなるの?


 あの問いかけに何と答えたのかはもう憶えていない。

 憶えているのは、そういうのは母さんか父さんに訊いてくれと心の中でぼやいたことだけだ。


 ポケットの携帯電話が震える。

 取り出して──眉間の強張りが少しほぐれる。母親ではない。しかしながら。深呼吸を挟み、応答ボタンに触れる。相手の第一声を待った。


「──お兄ちゃん?」


 耳馴染みのある少女の声。

 水原未紗季みさき──今年で中学二年生になる、二つ歳の離れた妹だった。

「どうした? その──珍しいな。こんな時間に」

 もうすぐ授業が始まるだろうに大丈夫なのか、という言葉はかろうじて呑んだ。

 それは、透が言っていい立場ではない。

「ごめんね、いきなり。ただ、ちょっと心配だったから──」

「心配? どうして?」

 なるべく心当たりがないふうを装う。

 それは妹相手にすることじゃないだろう、もっと自然体でいいんだ。独裁者を黙らせる以外能のない良識人が知ったふうな口をきく。うるさい、肝心なところで役に立たないくせに。


 自分を──守ってはくれないくせに。


「ええっと、昨夜ゆうべお父さんとお母さんと学校のことで揉めてたみたいだったから。ゴメンね、何か──気分悪いよね」

 揉めてた──という未紗季の言葉に、透は力なく笑うしかない。

 透が望むなら通信制高校への転入を検討してもいい、それでも世の中は学力以上に対話力がものを言うので、できることならいまの学校にそのまま通ってほしい、まずは保健室登校からでも始めてみてはどうか──という至極真っ当な母の提案に、透は終始俯きっぱなしだった。


 問題は、まあ引きこもりでないだけマシだろうという父の発言に母が難色を示したことで──そのときちょうど未紗季がリビングに降りてきてしまったこと。


 父としては、尋問でいう"良い警官"を演じたつもりだったのかもしれないが。その一部だけを拾って二階に引き返した未紗季からすれば、あれはまさしく揉めていたのだろう。

 とはいえ──。

「別に、そんなことないって」

「ホント? 良かったぁ」

 あれは、どちらかと言えば父と母が揉めていたのだと伝えるのも何やら違う気がする。

 結局のところ、全ての非は自分にあるのだから。首に縄をくくってでも登校させないあたり、良い両親なのだから。

 透が、事を矮小化するのもおかしな話だ。


 透にとって、未紗季は単なる妹ではない。

 他人と距離を置きがちな自分が、を以て接することのできる数少ない存在だった。未紗季は幼いときから人一倍気を配る性分で、透が何か話したいときは敏感にそれを察してくれたし、基本透が楽に話せることしか話題にしなかった。

 いつだって他人を優先するあまり、抱え込み過ぎて。

 そうした思いの丈を透に打ち明けてくることもあった。

 あの妹が、兄である自分を頼ってくれている、心配する機会を与えてくれている。


 それが、透の小さな誇りだった。


「ねぇ、お兄ちゃん」

「ん?」

「──学校、行ってる?」

 心中、嘲笑がもれる。

 ほら見ろ、良識人も独裁者も、ここぞというときに黙っている。


 透は、夏休みが終わってからもう半月ほど登校していない。


「母さんが、何か言ってたのか?」

「ううん」

「そうか──」

 会話が途切れた。

 透の考えでは人間が自らの意思で行動できないことは、明確な死を意味していた。学校は死を促す機関と呼ぶにふさわしかった。教室という牢獄に生徒たちを束縛し、ゆくゆくは歯車として精密に機能することを刷り込ませる。誰より秀でることではなく、足並みを揃えることが美徳とされる。だから、個性という個性は削ぎ落される。息をするように、いじめや登校拒否が起きる。噛み合えぬ歯車は、即刻爪弾きに処される。


 は。


 唇の動きだけで制した。大切な妹には、聞こえていない。

 誰か──その独裁者気取りに猿轡さるぐつわでもしておいてくれ。

 そういうのは、せめて手酷くいじめられてから言え。毎晩うなされるほど、校門を前にするだけでそうになるほど追いつめられてから言え。勉強についていけなかったわけではない。初めての中間試験の出来だって悪くはなかった。

 ただ──。


 不登校をしなければ、ぐちゃぐちゃに壊れてしまいそうだった。


「うまくいかなかったらね」

「──ああ」

「私のところ、来ていいからね」

 未紗季の声は、限りなくやさしい。


「家にも、学校にも居づらかったら、私のところ──あっ、でも家じゃないならどこだろ。とにかく、迷惑だろうななんて思わないで。会いに来てくれたらそれでいいの。そんな感じじゃあ、頼りないかな?」


 ──頼りないかな。

 ああ、一体この世界のどこに、兄に頼られることをあるべき姿とする妹がいるのか。

「──どうしたの?」

「いや、何でも。ただ、ありがとうな」

 口を衝いたそれは、間違いなく本音のかけらで。

 学校では、まずあり得ないことだった。

 思いの丈を言語化してはいけない。そうした主義を徹底しているうち、他人の目が怖くなった。どんな印象を持たれているのか、どう評価されているのか、気にしたくないことばかりが気になった。

 そんな自分を支えてくれたのが、未紗季だった。


 必然彼女と向きあう箇所だけではあるが、透の殻に窓をつくってくれていた。


「そう言われると、ちょっと照れちゃうね」

「それと、偶にはそっちも──俺を頼ってくれよな。その、できるだけ相談とか乗るよ」

 ああ、なんて醜態だ。

 学校も行っていないくせに、普通の高校生さえ演じ切れないお前に、何を頼れというのだ。清く正しく立ち回れている彼女が、お前から何を学ぶというのだ。お前によって傷つけられた両親を癒す唯一は、今や水原未紗季なのだ。彼女こそが自分たちの教育に間違えはなかったという証なのだ。十三歳で死に損なったお前ごときに──待て。待ってくれ。

 せめてそういう石を投げるのは。


 このひとときが、終わってからにしてくれ。


「うん、ありがとう。お兄ちゃん」

 未紗季は、それ以上喋らない。

「じゃあ、そろそろ切るな。また連絡してきてくれ」

「うん、お兄ちゃんが迷惑じゃないなら──そうする。お兄ちゃんも」

「ああ」


「よく──わかんなくても連絡して」


 思ってもみなかった条件だった。

 ただ、未紗季らしいと思った。

「困ったらじゃなくてか?」

「困ったらでもいいけど、別に困ってなくても。電話でもメールでもしたいなって思ったら」

「ああ、そうする。じゃあ──また」

 そっと通話を切った。

 ホーム画面に戻って──メールの通知に気づく。

 イケからだった。透が不登校になってなお、交流の続く唯一のクラスメイト。

 本文には「サボり仲間は必要?」とだけある。ここで「待ってる」などと返そうものなら、今日は祝日だろうと言わんばかりの晴れやかな笑みとともに現れる展開は目に見えているので。笑みを滲ませ、「要らないよ」とだけ返した。


 ──家にも、学校にも居づらかったら。


 ひとり、雑踏の只中に戻る。

 お前の居場所などどこにもないのだと。妹に縋る他ないのだと、不登校の兄という役柄しかあぶれてはいないのだと、囲まれて突きつけられている気がしてならなくなる。

 幼い頃から、助けを求めることが苦手で。だから、大抵のことは一人でこなさなければならなくて。事実、こなせていたかどうかはわからない。ただ、他人を遠ざけている以上は、違わぬ実力が伴わなければと日々足搔いてきた。


 張り詰めていた糸は、ある日突然切れた。


 きっかけは──あり過ぎて思い出す気にもなれない。

 強いて上げるなら、他人と同調するしか能がない連中と同じ空気を吸いたくなかった。そう、自分だけがこの腐った世界でこれからも己を貫いてゆくのだ。自分は周りとは違うのだから。気づいている側の人間なのだから。そうだろう? 今、骨組みより離れた時間を生きているのは、お前が目醒めている側である何よりの証──。


 それで。


 それで、果たせているのがか。

 学校を牢獄だと蔑んで、当たり前を守れる人たちを見下して。同調以外能がない連中と空気を共有したくないと叫ぶなら、なぜこんなところにいる。人ごみに身を隠せば、少しは孤独が紛れるか。

 結局、どこかでこの背景の一部になりたいと望んでいるのではないか。

 そもそも──この大人ぶった思考だって、自分を構成員として正しい方へ導かんとするこの良識人だって、透は反吐が出るほど嫌いだ。

 未紗季といて心地いいのは、彼女の前で演じる「何とか頼れる兄であろうともがく水原透」が、百歩譲って見るに値するからだ。


 自分の中に、自信をもって肯定できる人格が、ただの一つもない。


 きっと、もう取り返しのつかないレベルで。自分もまた、毒されてしまっているのだ。いっそ、全部なかったことになればいいのに。リセットできたらいいのに。今度は。今度は。


 ──家にも、学校にも居づらかったら"俺"に会いに来てくれていいから。


 水原未紗季の居場所となれる水原透でありたい。

 たった今、彼女からもらった言葉の数々は。

 いずれ自分が掛けてやれたらと、夢見ていたものばかりだったのに。


 と、


 背筋をうそ寒いものが走った。

 ──近い?

 革靴が、ヒールが、スニーカーが。歩みを止める。かつてない怖気おぞけに、辺りを見渡す。幾人かは、まだその兆しを感じ取ることさえできていない。接近を予感できていない。それでも──。


 何だか、大差がないのではないかと。


 広場に、通りに、影が落ちる。

 黒雲が太陽を遮ったにしては、それは不吉なまでに濃く。気温が急激に下がる。背にしている空き看板のガラスが戦慄わなないている。

 透は、ゆっくりと空を見上げて──。

 手から、携帯電話が滑り落ちる。

 全身の細胞という細胞めがけ奔走する「逃走」のシグナルを不可解が遮断した。

 副都心の空を、黒い扁平なシルエットの群れが覆っていた。

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