第30話 思いがけない一時

 ━━文久三年九月十日

 伏見 寺田屋


 *京香 side*


 枡屋さんをお客様として迎え入れたのは、日が傾き始めた頃だった。

 これから、どこかへ旅立つつもりなのか。振り分け駕籠という、いわゆるこの時代の旅行用バッグの傍には三度笠に合羽、手甲てっこう脚絆きゃはんが綺麗に置かれている。

「お茶、お持ちしました」

「おおきに。京香はんが淹れてくらはったん?」

「はい」

 頷いて、私は枡屋さんの前に腰を下ろし、皿の上に湯呑を乗せて差し出す。次いで、嬉しそうに頬を緩めながらお茶をすする枡屋さんに、ここを訪れた理由を尋ねると、枡屋さんは私を見つめながら静かに口を開いた。

「しばらくの間、京を離れることになったんや」

「え、どこへ行くんですか?」

「野暮用でな。その前にあんさんの顔が見とうて寄ってしまいました」

 薄く微笑む枡屋さんに、私は気持ちを悟られまいと、作り笑いを返した。


(そうだよね。これからは、もうあの頃のようには話せないんだよね。)


 中立の立場である。と、いうことを忘れていた私は、余計なことは考えず、ただ枡屋さんを持て成すことだけを考えるようにした。

「どれくらいここに居られるんですか?」

「今宵は一晩、世話んなります」

「じゃあ、久しぶりにお付き合いしましょう」

「あんさんさえ良ければ……」

 枡屋さんに、今度は何が食べたいかを尋ねる。と、返って来た返事は、「ふわふわ卵」だった。

 慎一郎さんの為に目玉焼きを作りたいと思ってお遥さんに尋ねた時、初めて習ったふわふわ卵。以降、男性陣に評判の良い献立の一つとなっていた。

「じゃあ、今夜は気合を入れて作りますね!」

 それから、私はお登勢さんにお願いして、足りない材料を買いに走った。

 今時期、美味しく食べられる梨を使ったデザートも食べて貰いたくて、行きつけとなった店で買い物を済ませる。

 風呂敷包みを胸に抱えながら、近道をしようと狭い路地裏に差し掛かった。その時、不意に、後方から口を塞がれると同時に羽交い絞めにされる。その拍子に、抱えていた風呂敷包みを落としてしまう。と、今度は素早く抜かれた短刀を喉元に突きつけられた。

「……っ……!」

 そんな私の目前、険しい形相で永倉さんが息を弾ませながら駆け寄って来る。後方からは、「そこまでだ」と、いう威勢の良い声がして、私は民家の壁に背を預ける男性に、軽く振り回されるようにして、その声の主を見遣った。


(何? いったいどうなっているの?)


「おい、その娘を離せ」


 私は、刀を抜き払い、低く鋭く言い放つ永倉さんと、同様にじりじりとこちらへ詰め寄って来る原田さんに眼で懇願した。


(助けて……)


「……それ以上近づけば、こいつを斬る」

 男性の、少し狂気染みたいような囁き声と息遣いに全身が硬直してゆく。恐怖感から、思わず漏れ出る自分の震えた声が、耳鳴りのせいでやけに遠く聞こえた。

 両者睨み合ったまま、お互いの出方を見定めているかのように動かない。

 と、先に沈黙を破ったのは原田さんの方だった。

「女を楯に取るたぁ、なっさけねぇ野郎だな。大人しくばくにつきやがれ」

 自信に満ちたような笑みを浮かべながら、こちらへ歩み寄ろうとする原田さんに、男性は舌打ちをし、口を塞いでいた方の手で私の胸元を強く引き寄せ後退し始める。

「見廻り組か……」

「おいおいおい、新選組の原田左之助を知らんのか?」

「……新選組だと!?」

 私が、なおも震える足で踏ん張っていた。その時、永倉さんと原田さんが顔を見合わせながら刀を鞘に納め、再び視線をこちらに向けた。刹那、近くで男性の高くくぐもった声がすると同時に、私の足元すれすれに脇差が落ちて、力強く押さえつけられていた腕からも解放されていた。


(え……?)


 それは一瞬の出来事だった。

 永倉さんから腕を引かれ、その場に頽れるようにしゃがみこむ私の目前、男性が腕を押さえ込みながら後退あとじさる光景が目に飛び込んで来る。


(あ……っあ……)


 その男性の真向こう、「安心して下さい。峰内ですよ」と、言いながら尚も男性の鼻先に刀の切っ先を突きつけている沖田さんの、今まで目にしたことのない冷徹な眼差しを前に、私の方が怯んでしまっていた。

「怪我は無いか?」

「……あ、はい」

 風呂敷包みを拾い上げ、私の前に跪く永倉さんに答えて、差し出された包を受け取る。


(良かった。梨もなんともないみたい……)


 中身を確認しながらも、未だ対峙したままの沖田さんと男性を見守っていると、原田さんが男性の両手首を後ろ手に縄でぐるぐると巻き付けていく。

「大人しく縛についていりゃあ、醜態を晒さずに済んだものを」

 未だ悔し気に唇を噛み締めている男性を横目に、刀を鞘へ納めながらこちらへ歩み寄って来る沖田さんの、いつもの柔和な瞳と目が合う。

「立てますか?」

「だ、大丈夫です……」

 永倉さんに支えられ、立ち上がろうとするもやっぱり足が竦んでその場にしゃがみ込む始末。

 その途端、沖田さんは私の前に背を向けしゃがみ込んだ。私をおぶってくれるのだと気づいて、尚更戸惑ってしまう。

「総司、寺島さんのことは頼んだぞ」

 永倉さんが、捕縛した男性を連れて既に歩き出している原田さんを横目に薄らと微笑う。と、沖田さんは、永倉さんに笑顔で頷いた。

 私は、その場を去って行くお二人に改めてお礼を言って、ずっとしゃがみこんだままの沖田さんには、小さく首を横に振って答える。

「もう少しここで休んでいたら、歩けるようになると思いますから……」

「この辺りは危険です。一刻も早く離れた方がいい。さ、遠慮せずにどうぞ」

 振り返る沖田さんの柔和な笑顔に躊躇いながらも、私は着物の裾を捲り上げ、広い背中を前に、ゆっくりと体を預けた。すると、たちまち両腿のあたりに沖田さんの手の温もりを感じる。次いで、私を気遣いながら、おもむろに立ち上がる沖田さんの首元に自分の腕を回し、その手首をもう片方の手で握り締める。

「よーし、じゃあ行きますよ」

「あ、あの……」

「はい?」

 二、三歩歩き出していた足を止め、微かにこちらを振り返る沖田さんから目を逸らし、

「……重いでしょう?」

 なんていう私の問いかけに、沖田さんはくすっと笑ってまた歩き出す。

「思っていたよりは」

 その一言に軽く驚いて顔を上げると、今度は可笑しそうに笑いながらこちらを振り返る沖田さんの、悪戯っぽい瞳と目が合う。

「なんて、嘘ですよ。全然軽いです。そんなことよりも、京香さんに何事もなくて良かった」

 その優しい一言が嬉しくて、私は思わず背中越しにほくそ笑んだ。

 どうやら、沖田さんは源之亟さんから借りていた傘の修理をお願いするために、傘屋さんを訪れた帰りだったようで、私達に気付いてからは、男性に気付かれないように背後から近付いていたらしい。

「借り物は必ず返す。これも鉄則になりましたからね」

 逆に、沖田さんからどうしてあんなことになっていたのかを問われ、これまでの経緯を話しながらも、私は周りの目を気にしていた。

 それは、慎一郎さんと一緒にいた時と同じで、今の沖田さんは隊服を纏っていないし、新選組の名前が広まるのは池田屋事件後だと言われているけれど、このまま一緒にいてはいけないという考えは尽きない。

 だから、見えて来た甘味処で一休みしていくことを伝えたところ……

「御一緒してもいいですか?」

「……あ、はい」

 本当は嬉しいはずなのに、私はやっぱり苦笑いを返してしまう。

 店内では、「美味い」と、言いながらお団子を頬張る仕草がとても可愛くて、いつだったか沖田さんたちが初めて藍へ寄ってくれた日のことを思い出していた。あの時も、心太の上にかかった黒蜜を口元につけながら美味しそうに食べていたなぁ、と。

 私も、一口頬張って納得する。それは、藍のお団子とは違った味わいを感じた。しかも、子供からお年寄りまで安心して食べられるように、乱雑ながら小さくカットされている。

 今更だけれど、あの憧れの沖田総司と二人きりでお団子を食べているのだと意識して、ドキドキが半端ない。 

 小説やドラマの沖田総司は、作者によって描かれ方は違うものの、剣一筋だったといわれていて、陽気で女性には奥手という印象が強かった。本当のところ、本物の沖田さんはどうなのだろう?

 壬生寺で、斎藤さんと共に屯所へ戻る沖田さんを見送った後、明仁さんが言っていた言葉を思い出して1人赤面してしまう。


『それだけは絶対に無いですよ。だって、あの新選組の沖田総司ですよ! 私なんかを好きになるなんてことは……』

『慎一郎との間柄を尋ねられたことがあったからな。まず、好意を持っていると思って間違いないだろう』


 顔だけでなく、耳まで赤くなっているのが分かる。と、早速、熱でもあるのではないかと心配させてしまい、私は視線を泳がせながら返答した。

「お、お団子が美味し過ぎて……」

「そんなに気に入ったのなら、もう一皿頼みましょうか?」

 そう言って、少し離れたところにいる女将さんに声をかけようとする沖田さんを押し留める。

「お、美味しいんですけど、今日はもう」

「そうですか」

 また、お茶を飲んで息をつく沖田さんにぎこちなく微笑んで、私は残りのお団子を頬張りお茶を飲み干した。



 世間話の後、以前、藤堂さんからも尋ねられたことがあった「藍」を出た話題を振られ、私はまた藤堂さんに伝えたように簡潔に話した。すると、沖田さんは少し困ったように微笑んで、小さく首を横に振った。

「私がお尋ねしたいのは、何故、京香さんだけ伏見へ行かなければならなかったのかと、いうことです。明仁さんたちと同郷ならば、屯所うちへ来れば良かったのにと……」

「え……?」

 その意味が分からなくて小首を傾げる私に、沖田さんは照れたように視線を逸らした。

「お雅さんが、女手が欲しいと仰っていたので」

 沖田さんの言いたいことが分かってしまってから、嬉しさと戸惑いが綯交ぜになる。

 枡屋さんと出逢っていなければ、私も八木家でお世話になっていたかもしれないのだから。でも、あえて自分の進む道を選び、もう戻れないところまで来てしまっている。


(何て答えたらいいのかな……)


 本来ならば、大好きな新選組と知り合えたこと。しかも、憧れの沖田総司からこんなふうにお誘いの言葉を貰えること自体が夢のような話な訳で。自分で蒔いた種とはいえ、またもや沖田さんに嘘をつかなければならないこの状況を恨んだ。

「私も、それは考えなかった訳じゃないんですけれど、寺田屋の女将さんと知り合ってからは、私のいる場所はここだって思えたんです。私の実家も甘味処なので、向いているというか。いろんなお客さんとの時間が、凄く楽しいんですよね」

 感じたままに自分の想いを伝える。と、沖田さんはまた明るく笑って言った。

「私も会ってみたいなぁ。そのお登勢さんに」

「きっと、沖田さんとは気が合うと思いますよ」

 そう口にしてから、どの小説やドラマも、主に倒幕派を匿う場所として寺田屋があるということを思い出す。


(もしも、沖田さんとお登勢さんが仲良くなったら、どうなるんだろう?)


 文久二年の春。薩摩藩同士が剣を向け合った、世に言う『寺田屋騒動』は有名な話で、事件が起こってしまった細かい理由などは分からない。けれど、もともと薩摩藩士たちの定宿だった寺田屋で、同志討ちの斬り合いがあったとされている。

 今のところ、薩摩と会津が手を組んでいることから、沖田さん達には気軽に来て貰うことが出来るはず。だけど、寺田屋が新選組の定宿となり、そのうえお登勢さんが新選組の強い味方になったとしたら、これから交流が深まるはずの龍馬さんとお登勢さんの仲はどうなるのだろう?

「京香さん?」

 不意に話しかけられて、私は慌てて視線を沖田さんへと戻した。

「心、ここにあらず。と、いう感じでしたが、どうかしたんですか?」

「いや、その……ちょっと考え事をしてて……」

 また苦笑いで答えると、沖田さんはちょうど通りかかった女将さんを呼び止め、銭入れを取り出し勘定を済ませた。

「次は、京香さんに御馳走して貰うということで」

「そういうことなら、お言葉に甘えて……」

 ご馳走様でした。と、両掌を合わせて軽く頭を下げる私に、沖田さんは満面の笑顔を浮かべた。

「どういたしまして。こんなことならいつでも」




 寺田屋


 その後、沖田さんは心配だからと、私を寺田屋まで送ってくれた。

 辿り着いた寺田屋前では、偶然、お登勢さんがお客様を店の中へと迎え入れている最中だったことから、一緒だった沖田さんを紹介することになったのだけれど、沖田さんが新選組だと名乗った途端、お登勢さんの表情が一変した。

 どこか、呆れたような引き攣った笑みというか。

「新選組ゆうたら、無類の剣客集団やそうどすな。せやけど、それを鼻にかけとるゆう噂も聞いといやす」

「それは、ただの根も葉もない噂です」

 ほんの少し不機嫌そうなお登勢さんに、余裕の笑みを返す沖田さん。私は、お二人に挟まれてただ、様子を見守ることしか出来ない。

 それでも、何とか買ってきた食材を風呂敷包みごとお登勢さんに手渡し、先に台所へ向かうのを確認して、改めて、沖田さんにこれまでのお礼を伝えた。

「今日は助けて貰ったり、御馳走になったり。本当にありがとうございました」

「私の方こそ、渡りに船でした」

「え?」

「いえ。では、また近いうちに伺いますね」

 一礼して、来た道を戻って行く沖田さんを見送りながら、私はまたこれからの事を考えていた。

 いつまで中立の立場を貫き通せるのかと。

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