ルンバ

 リカは、女性らしい立ち振舞いを身に付けたい(……あわよくば痩せたい)そう思って、やっとなけなしの勇気を出して、ダンススクールの扉を開いた。


 数ヵ月前から会社の最寄り駅にダンススクールを見つけてからというもの、横目で見ながら通りすぎること数十回。チラシを手に取り眺めること数十回。


 誰かに背中を押してほしい!とも思っていた。


 が、そんなことをしてくれる人もいないわけで。


「こんにちは!」中から中年のスリムな男性が出て来て声をかけてきた。

「こ、こんにちは!あの!私っ社交ダンス、やってみたくて!見学させてほしいんですけど!」緊張して、早口でマシンガンの様に一気に話をしてしまった。


 中年の男性は、にこやかに「そうですか、ありがとうございます。スリッパに履き替えていただいて……こちらへどうぞ。」と教室の中に案内してくれる。


 そして、教室の窓のあたりに長いソファーがあり、そこへ座るようにと。紳士的なエスコートに、なんだか本当にとんでもないこと世界に足を踏み込んでしまったかと狼狽うろたええる。


 中年の男性は、リカの横に浅く座って、

「申し遅れました、狭山と申します」

 と、名乗った。

 それから、社交ダンスの経験はあるか、どんなレッスンを受けてみたいか、何かきっかけになったことなどを質問してきた。


 リカは、緊張してアワアワとしてしまうが、狭山が「どうぞリラックスしてください」と優しく言葉を投げ掛けてくれたので、持ってきていたペットボトルのお茶を一口飲んで、ゆっくり話し出した。


 立ち居振舞いの勉強、運動不足の改善、初心者であること、会社の近くに教室があったこと……そして、『ルンバ』に憧れていること。



 ルンバは、ゆったりとした曲で男女を表現した、大人らしい種目。

 男女の恋模様を見ているようで、リカは見ていると胸がきゅっとする。


 狭山が穏やかな声で「では、タイミングがよかったですね。今日のグループレッスンはルンバですよ」と言った。


 間近でルンバが見ることができるのね!いつもはスマホやタブレットでの液晶越しだったから、心がぱぁっと明るくなった。


 すでに慣れているであろう人達のグループ。私よりはるかに年齢が上のようだけれど。でも気にしないわ、そんなこと。


 お世辞にもスタイルが良いと言えるような人も多かったけれど。


 曲が流れた。


 ここはどこかの道端か?と思ってしまうような、楽しくおしゃべりしていた生徒の方々の表情が、一瞬で変わった。


 ロマンチック……


 男性と女性が見つめ合って、微笑みを浮かべて「今この時がとても幸せ」と言いたげなゆったりとしたステップ。すると、女性がするりと男性から距離を置いてしまうかのようにターンして、男性はその手をきゅっと掴んで。「もう行くわ」「待ってくれよ」そんな会話している様。


 リカは息をするのを忘れるほどに見入ってしまう。


 グループレッスンなので、途中で中断し先生が指導するのだが、そんなことは全く気にならなかった。


 ──私もやりたい。


 横で一緒にレッスンの様子を見ている狭山に告げた。

「私にルンバ教えて下さい」


 狭山は穏やかな笑顔で、このダンススクールの説明を始めた。


 グループレッスンに空きがなかったことと、比較的時間の融通がきくということで、個人レッスンになった。リカがなんのステップもわからない初心者であるのも、個人レッスンに決まる大きな一手だったが。


 グループレッスンに比べたらレッスン料も高いけど……キチンと踊れるようになりたいし、周りの目を気にせず練習できるのなら、メリットばかりな気がした。

 さっそく、入会金とレッスンのチケットを購入して。


 それから、ダンスシューズを買いに行く。


 あ、練習着もいるわね。スマホにメモする。


 3


「こんにちは~……」

 教室の扉を開けて、スリッパで入り口すぐの小さなカウンターで挨拶をする。


「こんにちは!」狭山が顔を出したので、ちょっとほっとした。

「初めての練習ですね、今日は私がお相手させていただきますね」

 リカはそれを聞いて安堵。緊張しやすい人見知りで初めて会う先生とうまくコミュニケーションがとれるか不安混じりで教室に来たのだった。顔見知りの狭山が教えてくれるなら安心だ。


「お着替えはあちらで」と狭山の手をかざした先に、教室の角に靴箱などで見えにくくなっているところがあった。カーテン式の簡易的な着替えスペース。

 さっそく、買ったばかりの練習着に着替えて「よしっ」と気合いをいれる。


「では……」


レッスンが始まる。

 ハイヒールには慣れているが、リカの動きは奇っ怪だ。足をつける時は、つま先から。着地したら、体重移動をして、また二歩目をつま先から着地させて体重移動。


 ギギギ……と音を立てるような足の運びに、完全に腰は引けてしまい、足だけなんとか動いているような感じだ。


 な、なんだこの私の動きは……

 大きな鏡の前で自分を見たときの衝撃といったら……


「さ、狭山先生……私、関節可動式のマネキンか何かなのかもしれません……」


 狭山が大笑いする。


「狭山先生~!笑ってる場合じゃないですよ~!」

もうリカは恥ずかしさよりも、初歩的なステップすら踏めない自分に情けなくなってしまって。

 ちょっと涙声である。


「大丈夫ですよ、初めてでスッと出来てしまったら、私どもの仕事はなくなってしまいますよ」

「本当ですか……?」

「本当です。焦ってはいけませんよ。特に、ルンバは」

「え?」

「ルンバは、特に、陰と陽を表現する為の、緩急というものも必要ですからね」

「そうなんですね!」

「他の種目でも、必要にはなりますが」

 最後の一言はちょっとおどけた口調。


「結局、全部に必要なんじゃないですかぁー!!」

 リカは、笑って大きな声で言ってみた。


 まだまだこれから!

 諦めないわ!


     ♪


 レッスンは狭山先生だけに教えてもらう、と決めて毎週土曜日に一時間。


 家でも研究して、半年。

 それなりになんとか形にはなってきた。


 顔は常に真顔で笑顔の欠片も出せないけれど。


「今度、スクールのパーティーがあるので、僕と一緒にルンバを披露してみませんか?」

「はい!是非!」


 まだ、不安はあるけれど、パーティーまでは二ヶ月ある。きっと大丈夫。


 なにより、狭山先生がリードしてくれるのだから。


 けれど、それは実現しなかった。


 狭山先生は、事故で急逝してしまった。

 よくある話、と言われてしまえばそれまでなのだけれど……居眠り運転のトラックが歩道に突っ込んでしまって。そのまま。


 狭山先生よりもずっと若い高橋先生は、狭山先生とリカの練習をよく見ていたからか「狭山先生の為に、僕と踊ってみませんか?」と声をかけてくれた。


 高橋先生のことはスクールで何度も見かけていたし、たまにリカの振り付けの手本を見せてくれていた。


「狭山先生の為に……」リカはこの言葉を噛み締めて。


「はい、お願いします」


 そう、涙ぐみながら答えたのだった。


     ♪


 狭山先生。狭山先生。

 見ていてください。


 狭山先生が教えてくれた、私のルンバ……

 先生を想って踊りますから。


 曲が流れ始める。


 目の前にいる高橋先生が、狭山先生に一瞬見える。

 似ても似つかないのに。


 ゆったりと二人で星空に包まれながら手を繋ぎ歩くようにステップ。二人が歩く道を照らす微かな光。緩やかに月のポーズで表現する。「ずっと側に居たいわ」と優しい笑顔を浮かべて、するりと距離を取るけれど、「大丈夫よ決して離れはしないわ」そうまた戻る、腕の中へ。


 でもね、狭山先生、またお会いしたいのよ……リカの微笑んでいた顔は、自然と表情が切なくなり、遠くを見つめる。

「今でも探しています」と言わんばかりに左腕を長く長く指の先まで美しく伸ばす。

 ぐいっと引き寄せられ、「やはり居ないのね……」切なそうにもたれ掛かる。


 そしてまた、二人の愛をゆっくり感じるような、互いを信じるような、滑らかなステップにターン。そうっと足を高く上げてから、つま先からの着地。


 狭山先生、見ていてくていますか?

 もう二度と一緒には踊れませんけれど。

 どうですか?上達したと思いませんか?


 ルンバ、踊れるようになりました。


 狭山先生、大好きでした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る