第2話 疫病

 2020年代に入り人類は近現代始まって以来の大規模災害に見舞われる。スーザウィルスの爆発的流行である。

 WHOの発表では全世界で九億人以上が感染し、470万人以上が死亡した。空気感染するこのウィルスは肺と小腸に深刻なダメージを与え、肺胞を破壊され呼吸不全で亡くなったり、小腸の重篤な潰瘍からの出血により死亡するケースがほとんどであった。

 発症者は感染者の3%程度にすぎなかったが、発症した場合の死亡率は先進国でも10%近く、ましてや発展途上国や紛争当事国ではこの比ではなかった。中には国家としての機能をほぼ失った国まで現れた。


 恐怖のウィルスの大流行で、日本においても国外においても政府においても医療においても市民においてもパニックに近い様相を呈した。何せ21世紀に入って人類にとって初めての疫病流行である。全てが手探りであった。少しずつスーザウィルスへの知見を深めながら、疫学的に最も適切であろう、と推定されるやり方で対抗するより手立てはない。ところが、ある制度が打ち立てられればそれに反対するデモが起き、それとは逆の政策が立案されれば暴動が起きる。政策だけでなく治療や予防に関し様々な推定や仮説が挙げられたが、それらはそのいずれもが確たるエビデンスを有していなかったため、常に激しい反駁はんばくを受け、あらゆる国が先行きを見出せないまま混迷の度を深めていった。ワクチンの普及などによって世界がこれを乗り越えるまでに、4年から10年の年月がかかるだろうと推測され、その間の犠牲者と経済的損失は計り知れないものであった。


 大流行が始まってからおよそ十ヶ月後の大混乱の中にあっても、スーザウィルスの予防法についてようやくいくつかの道筋が建てられた。

 まずウィルスに満ちた外気への曝露ばくろを防ぐため外出は原則生活用品の購入時に限る。帰宅後は靴を脱ぎ自宅で靴を履いたままの生活をしない。衣類は玄関で脱ぎそのまま洗濯し、同時にシャワーを浴びる。屋内でも事ある毎に手指を70%以上のアルコールで消毒する。屋外では消毒なしに指で顔に触らない。


 そしてマスクを着用する。それもN-95、そうでなくともDS2マスクを。

 特に0.3μmマイクロメートル以上の塩化ナトリウム(NaCl)結晶の捕集効率が95%以上であるN-95マスクであれば呼吸器をスーザウィルスからほぼ完全に守ることができ、最良の予防アイテムと言えた。だがもとより生産数が少なかった上に突然途轍もない量の受注が舞い込んだため生産業者は対応しきれず、その生産数は遅々として延びなかった。店頭からはN-95マスクが一瞬にして消え、オークションサイトでは法外な価格で取引されるようになった。結局のところほとんどの人々は一般的なサージカルマスクや不織布マスクで我慢するより他なかった。もっともそれすらも貴重品だったのだが。また海外製品が多いN-95マスクの中には日本人の顔の形状にはフィットしづらいものもあり、隙間から外気が流入する危険性もなくならなかった。非常に息苦しく、長時間装着していると体調不良を引き起こすという難点もある。



 そんな中、大永たいえい医器いき株式会社がアルゲンマスクの販売を開始した。アルゲンマスクは、新開発のウィルス吸着死滅剤アルゲニスチウムを含んだ繊維を織り込んだマスクで、比較的安価で大量生産も容易であった。それだけでなく柔軟性に富み顔面へのフィット感も良好で呼吸についても支障がない。まさに「夢のマスク」であった。企業も政府も人々もこれをこぞって買い求める。マスク業界は一夜にしてアルゲンマスクの独占状態となった。


 そしてこのスーザウィルス対策の救世主アルゲンマスクが発売されてから間もなく二年が過ぎようとしていた……

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