備える者、憂いる者

第12話 厄日

軍人であり優秀な使用人でもあるユリア・ニコリスカヤ帝国陸軍大尉の今の様子見て、彼女が内心頭を掻きむしり、叫びたくなるくらい追い込まれていると気づく者はいないだろう。


彼女が自分の執務机に向き合って手元の書類に目を落とし、同僚のメイドが用意してくれたコーヒーを飲む姿はとても優雅だ。


その格好がお仕着せのメイド服でなくドレスに身を包んでいたならば、カーテンの隙間から差し込む午後の西日に映える端正な佇まいを見て、誰しも銀幕の一場面のようだと錯覚してしまうことだろう。


側から見て彼女が頭を抱えているようには見えない。しかし、実のところユリアはキリキリと痛む胃を我慢しながら、これでもかと言うくらい投入した砂糖入りコーヒーを飲み続け、胃に追い打ちをかけている。


更に言えば、ユリアはタバコ嫌いのエカテリーナのために禁煙中であったが、今だけは堪らず歯茎に嗅ぎタバコを挟み、迫り来るイライラと戦っていた。


理由は言わずもがな、エカテリーナと不仲な第二皇女ソフィアの接近。


同じ姉妹でありながら今までエカテリーナを歯牙にも掛けない態度で扱っていたソフィアが、何故今日になって突然私室を訪れるような真似をしたのか。その理由がユリアには皆目不明であった。


ユリアのメイドとしての同僚である、給仕係である従僕フットマンがポツリと漏らした話によると、今日に限っては朝の食事の折、エカテリーナがソフィアを一方的に言い包めていたという。


その話を聞いた時、今朝のいつもと様子の違うエカテリーナであれば、仲の悪い妹を口喧嘩で言い包めることくらい造作もないことだろうと、特に気にも留めなかった。


むしろ、朝時点でのユリアの懸念は皇室内の姉妹喧嘩ではなく、今日予定されていた公務におけるエカテリーナの護衛計画の方に向けられていた。


即ち、負傷した東部軍兵士の受勲式に出席するエカテリーナ第一皇女の身の安全を担保することこそ、ユリアが優先すべき任務であった。


現在のドルネシア帝国における政治的に最も危険な存在と言えば、東部方面軍を中心とする小ドルネシア併合派の将兵達だ。


ドルネシア帝国軍人は無条件に帝国と皇帝に忠誠を誓うこと求められる。


しかし、歴史的に隣国による脅威に晒され続けてきた帝国東部方面に暮らす人々は、隣接するノーラッド帝国に対し、常に不安を抱きながら生活を送っている。


かつてドルネシア帝国領でありながら、戦争によってハザーン地方を目の前で奪われた東部市民達にとって、眼前に迫るノーラッド帝国という存在は自らの生命に関わる重大な脅威であると認識していた。


よって現在のノーラッド帝国との共存を選択した政府を東部出身者を中心とした併合派が良しとするはずもなく、現政権を支持する皇帝とその一族である皇室もまた、怒りの矛先が向けられている。


そんな反皇室に近い立場に立つ併合派の兵士の受勲式となれば、式典に参加する者の殆ども併合派に属する人間揃いとなる。


その中に皇帝、あるいは皇族を放り込めばどうなることか。一歩間違えば皇室感情の良くない過激派によってが下されてもおかしくはない。


その後に待っている展開は皇室主導による東部方面軍の大粛正か、はたまた東部方面軍によるクーデターのどちらかだろう。


どちらに転んでも国内は乱れ、国土を守る国家という壁には綻びが生まれる。圧倒的な軍事力を他国への抑止力とするドルネシア帝国にとって、それは致命的な綻びと言えた。


だからこそ、そんな事態を発生をさせない為にはそもそも皇族を式典に出席させないのが一番であるが、ノーラッド帝国だけでなく東部方面軍にも弱腰な政府は、式典への皇族の出席を熱望。


皇族が出席することにより東部軍へ歩み寄りの姿勢を示したいのだろうが、その日和見な態度が余計に重大なリスクを呼び込んでいることに気がついていない。


何よりこの政府の要請によって割りを食ったのは皇族の公務を取り仕切る皇室庁の職員達だろう。


この極めて危険な式典に誰を出席させるか庁内で揉めに揉め、会議を重ねようやくたどり着いた結論こそが、第一皇女エカテリーナ・バラシオンの出席である。


エカテリーナの皇族でありながら、皇室ではなく軍部寄りの思想は最早国内に広く知られているところであり、皇室第一主義でないが故に併合派も迂闊に手出しは出来ないだろうと結論に至ったのだ。


その結論に至るまで幾人もの高級職員が心労で倒れ、その度に下級職員が血反吐を吐く地獄絵図が展開された皇室庁であるが、その地獄はエカテリーナ出席が決まった時点で、エカテリーナ第一皇女の首席護衛官であるユリア・ニコリスカヤ大尉に引き継がれることとなる。


ユリアはエカテリーナの式典参加が決まった直後に、所属する近衛師団本部を通じて東部方面軍に式典へ参加する人間の名簿を取り寄せた。名簿を受け取ったユリアはすぐに記載されている人物の経歴や思想の精査に移行するも、渡された名簿の人物いずれもが併合派の将校達であった。


そのこと自体はユリアも当然予想していたことであり、特に疑問を挟む余地は無かった。だがその出席予定の併合派将校達が併合派の中では比較的穏健派の将校達であり、併合派の中の過激派と比べればむしろ中立に近い人物達であったのだ。


併合派も、皇族が出席する式典であるから流石に騒ぎは不味いと気を遣ったのだろうと納得しかけたユリアであったが、軍の中枢である参謀本部の情報部に勤務していた経歴を持つユリアの経験が、これはと直感する。


参謀本部から近衛師団へ異動になってからも、ユリアの本質は情報将校だ。これまでは参謀本部で国内外のあらゆるものの中から、国家に影響を与えかねない些細な異変を見つけ出すことを職務としていた。


それは近衛師団に異動となり、任務が国家の脅威から皇族への脅威を探し出すことに変わろうとも、仕事のやり方が変わることはない。


むしろ国家という大きな枠組みから、皇族ひいては第一皇女に関わる脅威という小さな範囲に仕事が絞られたおかげで、敵が何であるかを明確にすることが出来た。


ユリアの敵、即ちエカテリーナ第一皇女を敵対視しているのは併合派ならびに東部方面軍に他ならない。


彼らにとって、いくら第一皇女が軍部寄りの思想を抱いていようとも、明確に併合派を支持しない限りは第一皇女は憎き皇族の一員であることに変わりはないのだ。


ターゲットを併合派に絞って自らの能力を遺憾なく発揮するユリアは、ここ数年で併合派が確実に何かを引き起こそうと画策しているところまで掴んでいた。


計画の具体的な内容までは判明していないが、併合派が何かを企んでいるという情報だけでも、エカテリーナの警護には最大限の注意が必要だということは理解出来る。


そんな中、皇室を敵対視している併合派が皇族を狙う絶好の機会である受勲式に、穏健派しか参加しないというのはあまりにも話であった。


もしかすれば受勲式では何かをするつもりがないのかもしれないが、だからと言って何も調べもせずにいるのは情報将校として職務怠慢である。


直感からユリアは近衛師団本部とは別ルート、参謀本部に勤めていた時の人脈を使い独自に受勲式出席予定者の名簿の調達を試みる。


情報部の軍人がわざわざ宮中の出入り業者を装って直接ユリアに手渡した名簿の中に記載されていた名前は、その半数が併合派の中でも極めて危険な思想を持つ軍人達であり、いよいよ併合派が動きを見せようとしている紛れもない前兆に他ならない。


ましてや公式ルートであるはずの近衛師団本部を通じて東部方面軍に要求した名簿が偽装されていたという事実は、東部方面軍司令部か近衛師団本部、もしくはそのどちらもが名簿の偽装に加担している可能性を示唆していた。


特に併合派が浸透していることで有名な軍内部の二つの組織が共に同調し、計画を練っていた場合には注意が必要である。


本来皇族を守る役回りを負っているはずの近衛師団が職務を放棄し、反皇室の立場を明確にした場合、国家の象徴に過ぎない皇族はただ一人の人間となり無防備となる。


もちろん近衛師団の中にも親皇室を標榜とする「主体派」や、併合派でありながら中立に近い立場を取る軍人もいるにはいるが、その数も少なければ立場も弱い。


ユリア自身も近衛師団本部付き参謀将校という高級職に就いていたが、併合派が要職を占める師団本部内にて併合論に異議を唱えたが故に、皇室庁へ出向という形で左遷された。


同士を増やし、意に反する者は左遷するなりして排除することにより日々勢力を拡大し続ける併合派は、皇室を守護する近衛師団をも味方につけて、今では最大軍閥である。


つまり現在のドルネシア帝国では、皇帝の寝床を守る近衛師団と東部方面軍がその気になればいつでも皇帝や皇族の首を取れるということだ。


政府の意向を無視し、己の独断専行を黙認させるほどにまで影響力を手にした彼らはそれでも物足りず、併合派の悲願であるハザーン地方の奪還のため、水面下で怪しく蠢いている。


そんな情勢下においてエカテリーナの暗殺までは行かずとも、悪戯にエカテリーナと過激派を接触させるような真似だけは避けるべきだと判断したユリアは、持ち得る技能と人脈を最大限に生かして過激派の行動を牽制する。


まず第一に受勲のための式典の規模の縮小。本来は参謀本部内の取り分け豪華な講堂(主に将官クラスや首脳が演説を行うのに使用される)で、大勢の招待客や報道陣を招いての大々的な式典の予定であったが、受勲内定者が負傷していることを理由にし、無理矢理陸軍病院の病室に変更させた。


これにより参列可能な人数をぐっと減らし、絢爛豪華な式典で英雄的な活躍をした兵士を大々的に褒め称え、その様子を報道させることにより国内世論を併合派に誘導しようとする目論みを阻止した。


当然、急な式典の縮小は併合派の猛反発を生んだが、受勲内定兵士の主治医の弱みを徹底調査し、大規模な式典参加は不可能であるとの診断書を提出させてしまえば、医者の判断の前に併合派も黙らざるを得なかったようだ。


また受勲式前の公務として設定した昼食会では、主体派でありながら併合派にも強い影響力を持つ大物の退役軍人と面識を作っておくことで併合派を牽制する。


こうした根回しや、エカテリーナを護衛する軍人の人選、徹底した護衛計画の立案遂行を経て、ようやく今日の予定を消化したユリアは何事もなく、そしてエカテリーナを無事に守り切れた達成感に満たされていたと同時に途方もない疲労感に襲われていた。


呪いたくなるほど事前準備や当日の護衛が忙しくなったのも、そもそもは最近活動を活発化させている併合派のせいであり、今後のエカテリーナの護衛にはより一層細心の注意を払い続けねばならないのだと思うと、増え続けるであろう仕事の負担に心底気が滅入る。


もちろん大変なのは、たった数日の休暇のはずなのに毎日公務に駆り出され、知らず知らずのうちに陰謀に巻き込まれているエカテリーナもだろう。


明日には幼年学校のある駐屯地へ戻り、控える卒業試験を兼ねた山岳行軍訓練への準備に慌ただしくなる。


エカテリーナが無事に卒業試験を突破し、軍内の出世街道に乗りさえすれば、この国の未来のため、言い換えれば国益となることは間違いない。


そんな大切な御身であればその命だけでなく精神面でも常に支えにならなくてはと思うのは主席護衛官として、侍女としては当然の自覚だろう。


であるならば、公務だけでなく皇族として人知れず多くの気苦労を抱えているであろうエカテリーナ様の心身を癒すため、一肌脱いでマッサージを施して差し上げていたというのに、よりにもよってそのタイミングでエカテリーナ様にとっては併合派よりも頭を悩ませているであろうソフィア様が訪ねてくるとは。


皇族を護衛する立場にある以上、ユリアにとってはソフィアも護衛対象であるものの、やはり仕える主たるエカテリーナにとっての心労は自分の心労でもある。


ソフィアがエカテリーナに対して何か権謀術数を張り巡らせているという話は聞いたことがないにせよ、険悪な関係の二人を同じ部屋にしておく不安をユリアは拭えない。


何より皇女ソフィアという人間が、ただ姉妹だというだけで意味もなく不仲な姉との交流を試みるタイプではないことをユリアは把握している。


であるならば、このタイミングでの接触の意図を知らずにいることは自らの職務の怠慢に他ならないと自覚するユリアであるが、併合派対策のために盗聴対策を徹底的に施したエカテリーナの私室において、外から二人の会話を聞く術はない。


もしもの時、最低限エカテリーナが自分の身を自分で守れるようにと小型の自動拳銃をドレッサーの引き出しに隠してはいるが、賢いエカテリーナがそれを使う可能性は低い。


何か問題が発生した場合、恐らくエカテリーナは使用人を呼び出すベルを使ってユリアを呼び出すだろうが、そのベルの音が聞こえない以上は、中で何があろうと問題は発生していない。発生していてもユリアを呼び出すほどのことではないということだ。


そうであるとしたら、名目上は一使用人であるユリアが勝手にエカテリーナの私室に飛び込む訳にもいかず、ユリアは仕え尊敬し、敬愛してやまないエカテリーナが今どんな様子で、無事でいるだろうかとただただ気にかかるばかりだ。


いよいよ口腔内の嗅ぎタバコだけでは収まらず、肺の中いっぱいに紫煙を取り込もうかと悩み始めたその時、ユリアの執務室の扉を叩き中に入ってきた同僚のメイドが、ユリアに客人が訪ねてきたことを告げた。


「ありがとうサーリャ。でも今ここを離れる訳にはいきません。分かるでしょ?」


「そのことだけどねユーリャ、ソフィア様ならもう自室に戻られたわ。でも不思議なこともあるものね。だってあのソフィア様がエカテリーナ様のお部屋を訪ねたことなんて、今まで一度でもあって? あのお美しいお二人が仲良くなられたらどれほど素敵なことなのでしょう。私ったら感動してしまうかも」


能天気な同僚、純粋に使用人として宮殿に勤めるメイドの楽しげなお喋りに「ええ、そうだわね」と適当に相槌を打ちながら、内心では自分の知らぬ間にソフィアが部屋を去っていたことに驚き、そして去ったと言うのに未だ自分はエカテリーナに呼び戻されていないことに不満を抱いていた。


元から最低限自分のことは自分でこなす方であったエカテリーナが幼年学校に進学してからというもの、軍隊様式の生活を学ばれて、最低限どころかほとんど全てをご自分一人で済ませるようになり、この数年でユリアの侍女としての職務はだいぶ減ってしまった。


確かに侍女というのは所詮名目上の役職に過ぎず、本来は護衛こそが果たすべき役目であることはユリア自身も重々承知しているところであるが、やはり六年もの間身の回りの世話を焼いてきた身としては、最早エカテリーナ様に自分は必要な存在ではないのだと実感して寂しくもなる。


ユリアにとって一番の恐るべきは、併合派のような政敵ではなく、エカテリーナに本当に必要とされなくなる日が来ることだろう。


そうあれかしと願う日々は常に遠ざかり、容赦なく現実ばかりが忍び寄る。


そんなことを実感させられる今日は厄日だと思わざるを得ないユリアであった。

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