第11話 皇女ソフィア

「それで、貴女はいつからこの世界にいるの?」


妹のソフィア・バラシオン——あるいは草壁紗香くさかべさやか——をシェーズロングに座らせて、私はそう尋ねた。


「自我の芽生と共に……でしょうか。この体に生まれた時には恐らく既に私は私だったのでしょう」


生まれた時から私。即ち紗香はこの世界ではずっとソフィアと呼ばれながらも紗香としての人格のまま暮らしていたことになる。最初からこの世界の一員として生まれ育ったエカテリーナとしての人格や価値観を保持している千早とはまるで話が違う。


私はエカテリーナの知識や視点というフィルターがあったからこそ、この世界と前世の違いにある程度の折り合いをつけることが出来た。それも混乱は最小限に。


だが生まれた時から異世界の記憶と人格を有したままこの世界に生きている紗香は、一体何を感じて、どう考え生きてきたのだろうか。


私は仮に、自分にエカテリーナの記憶がなく、前世の自分のままこの世界に一人放り出されたらどうなっていただろうかを考え、そしてぞっとする。


何も知らない、誰も知らない世界で一人生きることの恐怖。例えこの世界にも家族という存在がいたとしても、前世の記憶からしてみれば、それは見知らぬ他人ではないだろうか。本当の家族と呼べるのだろうか。もし自分がそうであったとしたら、きっと彼らには家族の情を感じないだろう。


もし紗香が千早と同じ感情を抱いていたとしたら、ソフィア・バラシオンの兄妹に対する辛辣な態度も納得出来るかもしれない。自分の兄妹として振る舞う赤の他人をどうして認められるというのか。


「だから今日、姉さまとこうして再び会うことが出来て私は本当に幸せです。姉さまのいないこれまでの日々がどれほどの苦痛だったか」


その言葉通り、まさしく今はとても幸せだと言わんばかりのニコニコと嬉しそうな笑顔。彼女が紗香だと知る前のソフィアでは決して見ることの無かったであろう眩しい表情がここにはある。


「一応言っておくと、貴女とは昨日も一昨日も食事の時に会っているのだけれど……」


「それはエカテリーナであって千早お姉さまではないでしょう?」


「そ、それはどう違うのかしら?」


私にしてみれば、昨日や一昨日には確かに千早の記憶は無かったとはいえ、エカテリーナ・バラシオンとして自己の時間的連続性は保たれており、つまり千早の記憶を持った今日でも昨日と中身は殆ど同じだ。


の考え方の違いや意思決定プロセスの相違、人生設計の組み直しは生じたが、自分が昨日と違う自分だとは思わない。


「私はエカテリーナを姉とは認められません。いくら私の愛する姉さまそっくりの美しいお顔をしていても、エカテリーナは知性も品性も感じられない穢らわしい獣です」


「今でも私はエカテリーナなんだけど……」


本人の目の前でよくもそんなズバズバと言えるなぁと私は感心しつつ、分かってたこととはいえ、自分のことをそんな風にソフィアは思っていたのかと割とショックを受ける。ソフィアこと紗香は「でも今は千早お姉さまですよね?」と言って気にもしていない。


恐らくであるが紗香にはエカテリーナの中に千早の記憶が蘇った時点で、人格そのものが千早に上書きされると思っているのだろう。


「ところで、さっき貴女は私に『ようやく目覚めた』って言ったわね。あれはどういう意味? もしかして私が前世のことを思い出すことを分かっていたの?」


間違いなく、あの時のソフィア……紗香の口ぶりは確信のある言い方であった。でなければ「ようやく」だなんて言葉は使わない。まるで私が前世から転生するのを待っていたかのようだ。


「生まれ変わりだなんて突拍子もない出来事体験した身です。後世の世界にも、前世の姉とそっくりの姉がいるともなれば、私同様に記憶をお持ちになられていても不思議に思いません」


「つまり勘ね」


「ですが直感です。だって私の姉はただ一人、千早お姉さまを除いては他におりませんから」


随分と非科学的であり、非論理的なことを根拠に話す紗香は前世で研究者であったとは思えない。だけど私も、この転生が科学で説明できる範囲を大きく逸脱した現象であることを理解している。ならば考えることをやめて運命という神秘的なカテゴリーに思考の答えを求めるのも不思議ではないと理解する。何より結果として、千早は紗香の予想通り彼女の姉としての記憶を取り戻したのだから。


ソフィアが前世の妹紗香だと分かった今、どうしてこの世界に転生したのかではなく、この世界に転生するきっかけになった出来事を尋ねなければならない。


「ねぇ紗香。私達が殺された日のことを覚えている?」


前世の最後の記憶。ホテルのエレベーターで殺されたあの日。あそこで殺されたからこそ、私はこの世界にいると振り返る千早。と言っても千早にとって、あの出来事はまだようやく一日が過ぎるか過ぎないかの時間しか経っていない。


まさしく昨日の出来事のように事件を振り返ることが出来るが、振り返ったところで何かが分かることはない。私はただ、妹と一緒にエレベーターで殺されただけ。犯人の顔も知らなければ、殺される理由も思いつかない。それも日本では珍しい銃で、だ。


「ええ、もちろんです。……と言いたいところですが、なにぶんもう十年以上前のことですので……」


申し訳ないと首を横に振るソフィア。それは明確に覚えていないという意思表示だ。考えてみれば、突然16歳の少女として転生した千早とは違い、紗香はすでにこの世界で長らく暮らしているのだ。どんなに酷い出来事だろうと、十年以上も前のことともなれば記憶が薄れていても無理からぬこと。


「これじゃあ手詰まりね。私達が殺された理由も、この世界に転生した理由も何もかも。私はどうすればいいのかしら」


私は頭を抱えた。理不尽に死に、そして違う世界への生まれ変わり。この理をエカテリーナは理解しているが、世界を超える理を千早は知らない。


ここは死後の世界か、それとも別の何かか。例え死後の世界だろうが、今こうしてエカテリーナとして生きている千早は紛れもない現実である。殺された理由も転生した理由も分からない以上、最早この世界をただひたすらに生き抜く以外に道はないのだろうか。


「姉さまはどうなされたいのですか?」


「どうするも何も、どうする他ないわ。この世界で生きていくしかないじゃない」


「それはエカテリーナとしてですか? それとも千早お姉さまとして?」


私の葛藤を見抜いたような質問。五里霧中のような謎だらけの世界で、同じ転生者であり前世を知る妹だけが、今は頼れる存在なのかもしれない。もう彼女はただの厄介な妹ソフィアでないと知ったのだから。


「今朝、朝食の場で私が言ったことを覚えている?」


「確か……一晩で価値観が変わったと仰いましたよね。その言葉があったから、私はエカテリーナが姉さまになられたのだと気付けたのです」


「そう。昨日までの私なら、きっとこの帝国に身を捧げることこそ何よりの喜びと言っていたでしょうね」


帝国の為に尽くせと育てられ、自由を知らなかったエカテリーナにとってはそれが全て。だが自由を思い出した今ではそれは全てではない。


「それで姉さまはどうなさるおつもりで?」


「そうね。願わくば、何処か遠くの国に逃げたいわ。出来るだけ遠く。帝国とか皇族とか関係ない土地でのんびり暮らしたい」


自由のない金持ちの娘がどこか遠くへ行きたいと願う。それはまるで御伽噺の、あるいは小説か何かで聞いたようなありふれた話だ。


だがまぁ自分がいざその身になってみて思うことが、やはり何処かで聞いたような話じみているということは、自分と同じように考える人間が多いということの証左であるのだろう。


「やはりエカテリーナと千早お姉さまでは考え方がまるで違うのですね。まさか、そんな大胆なことをお考えだったなんて」


「そうよね大胆よね。脱サラした会社員が夫婦揃って田舎でカフェを始めるのとは次元が違うもの。……こんな私を貴女は軽蔑するかしら?」


「まさか、そんな! 姉さまを軽蔑だなんてする訳がないじゃありませんか」と言って首を横に振る紗香にカーチャはひとまず安心する。少なくとも今のソフィアになら、こんな話でも聞かせられる。


二つの世界を跨いで血の繋がった姉妹だからこそ、彼女を信頼出来るというものだ。不用意な発言一つで命を危険に晒す危険のある、この権謀術数渦巻く宮中においてそれは得難い存在であり、千早に目覚める前のエカテリーナでさえ常々切に欲していたものだ。


「むしろ姉さまがそう望まれるのであれば、私も微力ながらお手伝いさせて頂きます」


「それって、私がこの国から逃げるのを手伝ってくれるってことかしら。そのことが意味することが分からない貴女ではないでしょうに」


皇族が皇室の許可なく離脱すること、国外へ脱出することがどれほど大変であり、政治的な問題を引き起こすか。それは千早がこの世界に来てすぐに考えたことだ。


「もちろんです。ですが、姉さまがこの皇室から逃げたいという気持ちも理解出来ます。私もこのロマノフ朝もどきにはウンザリしていますから」


「ふふふ、ロマノフ! ええ、確かにロマノフだわね、ここは」


紗香の指摘に千早は声を出して笑う。紗香の言う通り、この国は前世のロシア・ロマノフ王朝によく似ている。もっとも似ているというのは帝国であることと、人の名前くらいなものだが、世界中の王国や帝国の仕組みが殆ど似ている以上、全く違うとも言い難い。


「私なんか皇女ソフィアですよ? 縁起が悪いと思いませんか?」


「確かに貴女は腕を組んで兵士を睨みつけるには細過ぎるわね」


「笑い事じゃありませんよ姉さま!」と膨れる紗香を微笑ましく眺めながら、カーチャは初めて聞いたソフィアの皇室に対する感情を知りほっとする。


ソフィアも——紗香もまたこの皇室に良い感情を抱いていなかった。そして、そんな妹が今や私の味方として帝国からの脱出を手伝ってくれると言うのだ。私より何倍もずっと賢い妹が。これほど心強いことはない。問題があるとすれば、カーチャには計画がまだ無いことだろう。


「姉さま。実は私に考えがあります」


紗香がそうカーチャに言ったのは、カーチャが正直にまだ脱出計画がないことを告げた直後のことだった。


「これは本来別の目的で事前に計画しているものですが、上手くいけば姉さまの助けになるはずです」


「事前に計画……? あまり穏やかな物言いではないわね。何をするつもりなのかしら」


「エカテリーナに知られたら、すぐさま引出しの銃で撃ち殺されてしまうか憲兵に突き出されてしまうかどちらかの、危ない企みです」


さっきは何だか分からないといった風であったが、紗香はユリアが匂わせたものの正体には気付いていたようだ。だが聡い紗香のことだから気付いていても驚かない。


「私が千早で良かったわね」


紗香がどんな企みを計画しているかは分からないが、恐らくは「皇女事変」にも匹敵する大騒動に発展することは間違いないだろう。


当時の皇女事変については文献で知る程度であるが、ある種の市民革命的な要素を含むアナスタシア第一皇女の反乱により、大勢の市民の弾圧や多数の軍人の粛清を伴ってドルネシア国内は政治的に不安定な状態に陥った。


紗香の口ぶりから推察すれば、私の皇族離脱、ひいては帝国からの脱出は彼女の計画の副次的な作用に過ぎないのだろう。簡単に言えば、紗香が何か大きな騒ぎを起こしたもののついでで私が自由になれるということだ。


この国において皇族が国外へ脱出することは、何かのついでに出来てしまえるような簡単なものではない。それが可能になる状況というものは、それ以上の何か酷い混乱が起きていなければならない。それこそ過去の皇女事変のように。


大きな混乱のどさくさに紛れての脱出、あるいは脱出が容易になる状況へ国内を導くということは、つまりなのだろう。


ああ、なるほど。確かにに知られては大変だ。


我が妹ながら考えていることのスケールの大きさには恐怖すら覚える。それが意味することを考えれば、私の懸念は正しいはずだ。


間違いなく人が大勢死ぬ。


変革には犠牲が伴う。


西暦世界史において無血革命の例も無くはないが、その過程を見れば少なからず人は死んでいるのだ。


政変とは、革命とはいつだってそんなもの。


一体彼女は何故そんなことを企むのか、その動機は何なのか。


権力無き皇女の立場を呪ってか。

それとも腐り切った帝国機構を嘆いてか。

もしくはただ私利私欲のために帝国を欲したためか。


そのいずれであっても、正直に言えばどれも紗香らしくない。


実の妹であるがよく知らない不仲なソフィアであったならばあるいはとも思わなくもないが、ソフィアが生まれながらにして私の良く知る紗香であるならば、やはりそれは彼女らしくないと言えた。


私自身が私利私欲のために動こうとしている手前、彼女に誠実さを求めるつもりはないが、とはいえソフィアの狙いが分からないまま計画に乗るのは危険だ。


故にエカテリーナがソフィアにした質問は、至極真っ当なものであった。


「貴女の目的は? 私に求める役割は何?」


しかしソフィアは問いかけに首を振り、ただ優しく微笑むだけだった。


「私の願いはただ姉さまの望みを叶えて差し上げることです。前世でも、この後世でも。姉さまがこの国を欲するのであれば、私がこの国を差し出しましょう。姉さまがこの国から逃げ出したいと言うのなら、私が手を引いて国境までお連れしましょう。姉さまの手を煩わせることなく、私が姉さまの望みを叶えてみせます」


ソフィアの言葉を要約すれば私は何もしなくていい、ただじっとしていろということだが、そんな上手い話があるはずもない。知らずに陰謀に巻き込まれて気づけば爆心地ということだけは避けたいところだ。


そんな私の不安を見抜いたソフィアは、私の手を取り瞳を見つめる。


「この世界でただ一人の姉を助けたいと思うことが、それほどおかしなことでしょうか」


妹の紗香はどうにも私を過大評価するきらいがあるらしい。それは前世の頃から変わらずで、たかが一企業の勤め人の私を、国立の研究機関でその頭脳を存分に発揮していた人間が何を尊敬するのだろうかと言いたいが、いつの頃からか、狂信的なまでに私を崇拝する姿勢はずっと変わらず、それは後世世界にまで至っているようだ。


「私の我がままを叶えさせるために、妹を危ない目に合わせる訳にはいかないわ。私、そこまで傲慢な姉だった記憶もないのだけれど」


だが私も、紗香が私を想うほどでないにしろ、彼女は大切な妹だ。無論その才能に嫉妬し、その美貌に打ちのめされたこともある。しかしだからといって紗香が憎い訳ではない。むしろ、こうして異世界でまた同じ姉妹として生まれた奇跡に絆のようなものすら感じている。


そんな妹を、むざむざ危険を承知で自分の我

がままに付き合わせたいと思うだろうか。無論リスクは承知だが、それはあくまで私一人か、最悪二人で共に背負うリスクだ。紗香一人に背負わせるつもりはない。私だけが楽をして、妹に負担を強いる姉がどこにいる。世の中にはいるだろうが、私は違う。


ましてや唯一の妹にそんな姉だと思われたくはない。思っていなくとも、私は彼女の理想の姉にはなれないから。


どんな計画であったかだけが心残りだが、これ以上を下手に知り、藪から蛇が出てこられても困るというもの。


「魅力的な話だったけれど、今日の会話は忘れて。私も誰かに話すつもりもないから。悪いけど、私は大切な妹を失うかもしれない賭けには乗れない」


「そう仰って頂けるのは嬉しいのですが、最早事態はそうも言っていられないのです。不幸中の幸いといえば、このタイミングで姉さまの記憶が戻られたことでしょうか」


「……話が見えないわね」


唐突に変わる会話の流れは私を警戒させる。ここまで十分すぎるほど政治的に不穏な話をしてきただけに警戒は必然だ。むしろここでの会話を憲兵に記録されていれば、それだけで起訴されてしまう証拠となる。


だが私が気にかかることは、紗香が口にした「タイミング」という言葉だ。一体何のタイミングだと言うのだろうか。


「姉さまよく聞いて下さい。近いうち、私と姉さまは命を落とすことになります」

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