(15)大和

 遂に、あいつが目を覚ました。

 とうとう、来るべき時が来たのだ。

 人間としての飛鳥は死に、人間を超えた存在としての飛鳥が誕生した。

 どうしてだろう、それはとても喜ばしいことであるはずなのに。俺の計画に微塵の狂いも無かったことが、十数年の時を経てようやく証明されたはずなのに。

 こんなにも胸が苦しいのは、何故だろう。


 それは、走っている所為だけではない。

 追い掛けて来た御堂家の執事は手強かったが、俺の卓越した運動能力の敵では無かった。あばらの二、三本折ってやったと思うから、もうしばらくは追って来られないだろう。

 ──待て。だったら俺は今、一体何から逃げていると言うのだ?

 その答えは、直ぐに分かった。

 俺という存在から、だ。

 そうだ。現在の俺は、俺であって俺ではない。少し前までのあいつが、飛鳥であって飛鳥ではなかったように。俺もまた、偽りの仮面を被っているんだ。そんな生き方は、酷く息苦しいものだ。だから俺は逃げ出したくなって、その度に引き戻されて来た。

 ──畜生。あいつの笑顔が、頭に焼き付いて離れやがらしねぇ。一体どうしちまったんだ、俺はっ……!

 息苦しいはずの、あいつとの生活。それが懐かしくて、胸が苦しい、のか?

 馬鹿な。そんな人間じみた感情、この俺に存在するはずが無い。


「追いかけっこはもう終わりだ。隠れてないで出て来な。相手、してやるからよ」

 そう言って振り返った、闇の奥から。

 更なる漆黒を纏った男が、静かにその姿を現した。

 成る程、こいつか。ずっと感じ続けていた、得体の知れない気配の正体は。

「てめぇ。俺が独りになるのを待ってやがったな? 何者だ、お前。何が欲しくて、俺に付き纏う? 断っておくが、俺に同性愛の趣味は無いぜ」

「欲しいのは貴様の命。ただ、それだけだ」

「ははっ。お兄さん、分かり易くて良いねぇ。成る程、俺の命──か」

 そこまで言って。不意に、全てが空しくなった。

「なあ、お兄さん。お前さんが欲しいのは、設楽木大和の命かい?」

 試しに訊いてみた。目の前の男がどこまで知っているのかなんて、どうでも良かった。男の答えに、期待などしてはいなかった。

 だから、

「違う。俺が欲しいのは、貴様自身の命だ……プロトエンゼル・アスカ」

 男が俺の求めた最高の答えを返して来た時、俺は心底驚いていた。

「何で、知ってる? 研究所の連中は全員──運命ですら、そのことは知らないというのに。そのことを知っているのは、俺と」

 俺と、あの男だけのはずだ。

 それを肯定するかのように、目の前の男は頷いてみせる。

「設楽木大和、本人から聞いた。死の瞬間、彼は全てを俺に語ったのだ」

「はっ。そうだな、それしかありえねぇよな! 俺の細工は、完璧だったんだから!」

 だが、そんなことはありえない。

 現在の「設楽木大和」は俺なのだから、そんなことは絶対にありえないはずだ。設楽木大和は口を割らない。故に、男の言葉は事実とは反している。

「死の瞬間、だと? 生憎だが、設楽木大和は生きているぜ? ここに、こうして」

「否。貴様は設楽木大和であって、設楽木大和に非ず。本物の設楽木大和──貴様の基になった設楽木大和は、俺が息の根を止めた」

「何──だと?」

 何を馬鹿な、そんなことはありえない、と言おうとして。

 先程から感じていた息苦しさの正体に気付き、俺は戦慄した。

 まさか。本当にこの男が、設楽木大和を……?

「だ、だが、どうやって? 設楽木大和は、誰にも認識できない場所に居るはずだ。そ、それにあいつは、誰にも危害を加えることの出来ない状態に、保存されて」

「『聖域』と呼ばれる能力だろう? それも、設楽木大和本人の口から聞いた。そしてそれは、もう破られている。貴様も、それを感じているはずだ。何しろ奴を『聖域』に閉じ込めたのは、他ならぬ貴様自身なのだから」

「───!?」

 こいつ。俺の能力のことまで、知っていやがるのか。その上、「聖域」を破った、だと?

「………」

 もし。もしも仮にそれが本当だとして、この男が設楽木大和を殺害したのだとしたら。

 飛鳥が目覚めようが目覚めまいが、既に俺の運命は決まってしまっているのではないか……?

「やれやれ。騙し通せる、と思ったんだがな」

 溜息をつき、俺は暗殺者の顔を正面から見た。

 月光に照らされた、その男はまだ若かった。二十代後半といった所か。三十は過ぎていない。

 やれやれ。こんな若造に、俺の「聖域」は破壊されてしまったのか。

「無理だ。以前貴様と同じことをしようとした奴が居たが、運命を欺くことはとうとう出来なかった」

「成る程。で、そいつもお前さんが殺したのかい?」

 それは、ちょっとした皮肉のつもりだったのだが。

「………」

 男は答えず、黒皮の手袋に包まれた右手を掲げてみせた。

 恐らくそれが、戦闘開始の合図なのだろう。

 ──上等だ。「聖域」を破ったというその力、存分に見せて貰おうじゃないか──。

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