終章



 同盟証書の作成と手続き、滑り出しのための準備諸々全てが、四泉においても完了したのは新年も間近の頃となった。まず牙領で完全なる締結を達成し、沙爽はじめ四泉の面々と牙族の二人、現当主である珥懿と次代当主の蘭檗は慌ただしく四泉泉畿せんきへと移動した。そこで諸卿しょけいと顔を合わせ、再度書類が整えられた。湶后入内せんごうじゅだいの件も侑淵が隅々まで手を回しており、特に異見なく可決された。加えて同時進行で行っていた二泉との和平協定は、践祚せんそした幼帝に代わり、摂政せっしょうとなった泉太后せんたいごうの主導のもと大司馬だいしばから丞相に昇任した騰伯とうはくとの円滑なもので、二国間の恒久的な相互不可侵が大綱に掲げられた。また史上初めて、この約定の中で泉外地である牙族領が四泉との共同占有地であると明示され、再度の侵攻の場合は四泉への協定違反であると判定されることとなった。


 協定締結の時点で四泉国主沙爽鼎添はしゅく安背あんはい汚穢おわいが黎泉によるものでないことを公に謝罪した。これにより敗戦国の二泉からの賠償金は当初の予定額の三分の二で調整がなされた。その他二泉兵により掠奪された各諸都市の備蓄の穴埋めと、團供水虎だんきょうすいこ毀傷きしょうさせたことによる泉柱違犯、さらに別で牙族への補遺ほいの上乗せが盛り込まれた。二泉は他国侵犯という泉柱においての最大の基幹に違反していたが、引き起こした当の前二泉国主斉穹朋嵒が没しており、また四泉公主沙琴撫羊が二泉に助力を懇請こんせいしたことが発端という経緯であったので、破倫はりんの埋め合わせとしては水虎の件のみを対象とした。


 沙爽は協定と同時に二泉との友好的な外交を希望し、飢饉戦乱等の際の相互援助、また物品の輸出入の活発化と国内情勢の可能な限りの情報共有が取り決められた。


 これらすべてを冬至までに片付け、もう一度珥懿らと共に牙領へ戻ってきていた。







「皆にはああ言ったが、私が当主を降りるのにはもうひとつ大きな理由がある」


 静かにそう言った珥懿は蓋碗がいわんを持ち上げた。


 今冬は初雪が早かった。いつもの薔薇閣しょうびかくにふいに現れ隔扇とびらの外の降雪を眺めながら堂々と居室いまで茶をすすっている。領地に帰ってきてからというもの、以前よりさらに歓慧の傍を離れなくなった。会えなくなるのを惜しんでいるのだろう。

 沙爽は同じように碗の蓋をずらしながら斜め向かいを見た。次期当主に指名された蘭檗という男は物静かで無口でつい気をつかってしまう。こちらが碗を取り上げるまで先んずる素振りを見せず、泉宮での所作が染みついた飲み方をした。


「もうひとつの理由とは?」歓慧手製の焼き菓子を口に運びながら問う。彼女はちょうど土瓶を抱えて入ってきた。



紅聆くれいの探索だ」



 居室にいる全員が珥懿を見返す。歓慧がこらえるような顔をした。

「もし今回のことを本当に裏で糸を引いていたなら、私は義弟として奴を討たねばならない。どのみち生きて領地を出奔している時点で裁かなければならない相手だ」

 壁際に立つ暎景が難しげにする。

「しかし、何処にいるのかも分からんのだろう」

「手掛かりはある。蜚牛ひぎゅうだ」

 鳩に餌をやっていた茅巻が顔を上げる。

「ここいらで狩れる妖獣ではない。もっと東だ」

「情報によれば一泉周辺の神域近くと、東国の霧界にたまに出るらしい。そこらへんで狩って手なずけているのであれば、行ってみる価値はある」

「そのために、当主を辞めるのですか?」

 訊いた沙爽に頷いた。

「あくまで理由の一だが、無視できないことだ。血の繋がりがあるなら尚更。もともと放置していた私の責任でもある」

「そうですか……」

「良い機会だ。十年前の諸国周遊の続きでもしよう」

「あの、歓慧どののことは」

「無論きりの良いところまで見守る。四泉入りはまだ先になるだろうが」

 返しに沙爽の脳内が疑問に満ちた。

「四泉入りがまだ先…とは、どういうことですか」

「何を言っている」

 柳眉を上げて珥懿は呆れ、椅子に背を預けた。

「お前はまだ正丁せいていではないだろう」

 四泉の正丁は男子が二十、女子が十五の慣例である。

 盆が落ちた。持ち主が手から滑ったそれを慌てて拾う。

「歓慧どの?」

「……すみません、私すっかり」

 口を覆った。「こちらの歳で考えてました。私たちはみんな十五で成人おとなになるので。いつか、お酒をお出ししてしまったことが」

「だめだったのか。でも牙公、王侯においてはあまり年齢は関係なく必要に応じて加冠かかんするものです。私は内乱やらがあって出来てないが、すでに降勅こうちょくも終え、先代の喪が過ぎれば即位式も控えているわけで」

 問題ない、と言ったのをしかし一蹴された。

「駄目だ。二十になるまで歓慧との婚礼は許さん。それに我らにも準備というものがある。お前もあと二年でもう少しましになれ」

 てっきりすぐに歓慧が四泉に来るものと思っていた沙爽は衝撃に菓子を取り落とす。その様子に蘭檗が初めて笑みを見せた。

「そ、そうですか。分かりました」

「あの丞相、大事なところをお前に言ってなかったな」

 盛大に溜息をついた珥懿だったが、以前よりは余裕のある表情だった。



 風の噂によれば歓慧の入内を許したあの日の翌朝、一向に起き出してこないのを心配した丞必しょうひつ臥房ねまへ行くと、当主は大量の酒瓶に埋もれて床で猫のように丸まっていたらしいとか、そこには宿酔ふつかよいで頭を抱え吐きくだす侈犧しぎ高竺こうとくがいたとか、傷心の主にもらい泣きしながら酒を飲み続ける徼火きょうかがいたとか、根も葉もない(あっても恐ろしくて確かめられない)そんな噂がしめやかに流布されていた。それはあながち間違いではないのかもしれず、珥懿はどこかこの件をどうにかなんとか消化したような雰囲気があった。





 不思議な心地だった。ほんの一年前ここへ訪れた時には予想さえしていなかったことがたくさん起こった。妹を失い、多くの仲間を失い、傷つき、それでも前へと進んだ未来は今後も問題ばかりで油断するとすぐに選択を誤り、道を踏み外しそうになる。そんなことは、これからいくらでもあるのだろう。


 今の気持ちを忘れたくないな、としみじみと思いながら沙爽は外套を羽織った。しくも今日は牙族の新年。街では日没から夜通し祭がある。それに繰り出すのだ。


 珥懿が腕を組み、吹き抜けの走廊ろうかで止んできた雪を眺めていた。横で歓慧が何事かを話しかけ、それに笑む。珥懿は戦後処理と同盟に関わることを全て完遂した時点で面を着けなくなった。泉地であれだけ暴れ回ったのだから、もはや風貌は多くの人に知られていて隠す意味が無いと判断したのだろう。それに、牙族は大きく変わってゆく。大渦の中心にいる当人がまず自ら新たな一歩を踏み出したことの表れなのかもしれない。悲劇を巻き起こした様々な因習――彩影さいえいなどの取り決めも改革していくのだろうと思われた。







 怒濤の半生を歩んできた夷狄いてきの王は自らの手で大波を掴み、舟の流れを変えた。波を呼んだ泉の国の少年王は類稀たぐいまれなる歴史の激動に立ち会い、共に進むと決めた。

 これから先も幾多の困難が待ち受ける。迷い、苦悩し、絶望するだろう。その度に思い出すのだ。潮流を掻き分けて辿り着いた基点、平和を願う、初めの決意を。



 進路は定まったばかり。



 これはまだかいをひと漕ぎしただけの、遥かなる航海の前章譚でしかないのだ。








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洪猷狼煙 合澤臣 @omimimi

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