終章
同盟証書の作成と手続き、滑り出しのための準備諸々全てが、四泉においても完了したのは新年も間近の頃となった。まず牙領で完全なる締結を達成し、沙爽はじめ四泉の面々と牙族の二人、現当主である珥懿と次代当主の蘭檗は慌ただしく四泉
協定締結の時点で四泉国主沙爽鼎添は
沙爽は協定と同時に二泉との友好的な外交を希望し、飢饉戦乱等の際の相互援助、また物品の輸出入の活発化と国内情勢の可能な限りの情報共有が取り決められた。
これらすべてを冬至までに片付け、もう一度珥懿らと共に牙領へ戻ってきていた。
「皆にはああ言ったが、私が当主を降りるのにはもうひとつ大きな理由がある」
静かにそう言った珥懿は
今冬は初雪が早かった。いつもの
沙爽は同じように碗の蓋をずらしながら斜め向かいを見た。次期当主に指名された蘭檗という男は物静かで無口でつい気を
「もうひとつの理由とは?」歓慧手製の焼き菓子を口に運びながら問う。彼女はちょうど土瓶を抱えて入ってきた。
「
居室にいる全員が珥懿を見返す。歓慧が
「もし今回のことを本当に裏で糸を引いていたなら、私は義弟として奴を討たねばならない。どのみち生きて領地を出奔している時点で裁かなければならない相手だ」
壁際に立つ暎景が難しげにする。
「しかし、何処にいるのかも分からんのだろう」
「手掛かりはある。
鳩に餌をやっていた茅巻が顔を上げる。
「ここいらで狩れる妖獣ではない。もっと東だ」
「情報によれば一泉周辺の神域近くと、東国の霧界にたまに出るらしい。そこらへんで狩って手なずけているのであれば、行ってみる価値はある」
「そのために、当主を辞めるのですか?」
訊いた沙爽に頷いた。
「あくまで理由の一だが、無視できないことだ。血の繋がりがあるなら尚更。もともと放置していた私の責任でもある」
「そうですか……」
「良い機会だ。十年前の諸国周遊の続きでもしよう」
「あの、歓慧どののことは」
「無論きりの良いところまで見守る。四泉入りはまだ先になるだろうが」
返しに沙爽の脳内が疑問に満ちた。
「四泉入りがまだ先…とは、どういうことですか」
「何を言っている」
柳眉を上げて珥懿は呆れ、椅子に背を預けた。
「お前はまだ
四泉の正丁は男子が二十、女子が十五の慣例である。
盆が落ちた。持ち主が手から滑ったそれを慌てて拾う。
「歓慧どの?」
「……すみません、私すっかり」
口を覆った。「こちらの歳で考えてました。私たちはみんな十五で
「だめだったのか。でも牙公、王侯においてはあまり年齢は関係なく必要に応じて
問題ない、と言ったのをしかし一蹴された。
「駄目だ。二十になるまで歓慧との婚礼は許さん。それに我らにも準備というものがある。お前もあと二年でもう少しましになれ」
てっきりすぐに歓慧が四泉に来るものと思っていた沙爽は衝撃に菓子を取り落とす。その様子に蘭檗が初めて笑みを見せた。
「そ、そうですか。分かりました」
「あの丞相、大事なところをお前に言ってなかったな」
盛大に溜息をついた珥懿だったが、以前よりは余裕のある表情だった。
風の噂によれば歓慧の入内を許したあの日の翌朝、一向に起き出してこないのを心配した
不思議な心地だった。ほんの一年前ここへ訪れた時には予想さえしていなかったことがたくさん起こった。妹を失い、多くの仲間を失い、傷つき、それでも前へと進んだ未来は今後も問題ばかりで油断するとすぐに選択を誤り、道を踏み外しそうになる。そんなことは、これからいくらでもあるのだろう。
今の気持ちを忘れたくないな、としみじみと思いながら沙爽は外套を羽織った。
珥懿が腕を組み、吹き抜けの
怒濤の半生を歩んできた
これから先も幾多の困難が待ち受ける。迷い、苦悩し、絶望するだろう。その度に思い出すのだ。潮流を掻き分けて辿り着いた基点、平和を願う、初めの決意を。
進路は定まったばかり。
これはまだ
洪猷狼煙 合澤臣 @omimimi
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