四十六章



 事のあらましを聞いたしもべ二人は驚きつつも丞相の提案に納得した。

「なるほど、あの娘が族主の妹だとは。今考えれば扱いが妙に甘かったのも頷ける」

「それで、泉主は本当にそういう流れで構わないのですか?」

 茅巻ぼうけんに訊かれ、窓の外を見つめた。

「私も四泉と牙族にとって最も良い方法だと思っている。真に融和するのは途方もなく先だとしても、何より国を担う私が真っ先に皆に意欲を示すべきだ」

「ああ、それは素晴らしきことです。しかしそうではなく」

 言葉を濁したのに代わり、暎景えいけいがずばりと言う。

「本当に牙暁がぎょうでいいんですか。つまり、抱けますか」

 ぽかんとした後に赤面した。

「あられもないことを」

「しかし湶后せんごうにするってことは周りから自ずと嫡子ちゃくしを望まれるということですよ。めとるだけ娶って手をつけないのであればそれこそ牙族がないがしろにされたと怒るでしょう」

 沙爽はしばらく黙っていたが、困って頬を掻いた。

「……正直、そこまで考えていなかった」

 二人は息をついた。純朴な主のことだ、そうだろうとは思っていた。でも、と続ける。

「歓慧どのがまだどうするのか分からないし、牙公も大層ご立腹だ。もしかしたら、湶后の話は一度流れるかもしれない」

「あの宰相閣下がそれを許しますかね。それに、いくら族主が拒否してもまわりがすすめるのでは。話を聞いたかぎり、あの娘が適任です。他の女は気の強そうなのばかりですし」

 暎景は思い返してくびに手を当てた。「牙暁としても、一族から言われたら断るわけにはいかないでしょう。たとえ死ぬほど嫌だとしても来ますよ」

「死ぬほど嫌だとしても」

「ええ。泉主のことを吐くほど嫌いでも」

「…………吐くほど…………」

「おい、暎景」

 慌てて止める。彼は彼で真面目に言っていたので怪訝な顔をした。

 沙爽は頭を抱えた。

「やはり、もう一度二人と話さねば。そんな辛い思いをさせてまで四泉に連れて行っても、うまくやれる自信がない……」

 ばか、と茅巻は口の形だけで叱る。暎景のせいで消極的な感情を植えつけてしまった。沙爽は人の機微に繊細だ。相手が自分のことを嫌がっていると分かれば頑として無理強いはしない。



 二人に送られて宵闇夜、薔薇閣しょうびかくを出る。案内役に城の中の一室へ通された。



 広くて豪華な房室へやだった。泉国のようにきらびやかに派手というわけではないけれども、磨かれた家具調度はとてつもなく品よく、長年丁寧に扱われて飴色に輝いている。それが独特の織物の色と相まって素朴さに威厳と風格をそなえた。床全面に地毯しきものを広げ刺繍をあしらった撑枕つめものを並べ、幾重もの絹の帷帳とばりで区切った奥の空間の真中に脚の低い小卓を置く。その隣に目的の人物が胡座あぐらをかいて煙管きせるっていた。


「何しに来た」


 まだ機嫌の直っていない族主は盛大に煙を吐き出した。細かな折り皺の入った紙片に目を通しては火鉢に放っている。牙領は夏でも夜は肌寒いから、年を通して使うものらしい。

 沙爽には読めない文字で書かれている紙の山をしばし眺め、目を移す。


「今日のことなのだが、もう一度話をしたいと思って来たのです。牙公は、入内自体については反対ではないのですよね」

「だから十人でも二十人でも良いと言っている」

「歓慧どの以外ならば」

 返せば珥懿は鼻を鳴らす。

「妹を見知らぬ土地へ嫁がせるなど、心配に決まっている。私も撫羊が二泉へ旅立ってしまう時はとても寂しかった」

「一緒にするな」

「分かっています。湶后として四泉に行ってしまえば、もう一生牙領に帰ることはできないかもしれない。……歓慧どのは、何と言っているのですか」

 それに応答はなかった。灰吹はいざらに吸殻を捨てると、新しいものを丸め始める。

「……牙公は、私のことをどう思います?」

「平和呆けした梼昧ばかで全てに甘い泉主。情だけで事態を解決しようとする浅はかな王。私はお前のような、全ての人間にはどこかしらい面があると思い込んでいるお人好しが嫌いだ」

 目に見えてへこんだ。「そうですか……。ではやはり歓慧どのも私のようなのは嫌だろうか」

「あれはお前がどんなに愚昧でも歯牙にもかけない。誰に対しても不平不満なく尽くせるからな」

「確かに、歓慧どのがここで世話を焼いてくれた間、とても居心地が良かった。よほど人間が出来ていますよね。一目見ただけで侑淵が気に入るのも無理はない」

 珥懿は眉間の肉を盛り上がらせ、煙管を叩きつけた。

「…………お前にあの子の何が分かる」

 突如として立ち上がる。来い、と顎をしゃくられて沙爽は緊張に身を強ばらせつつ後に続いた。



 房室を出て、しばらくついて歩き、石の走廊ろうかを進むと屋根のない吹き抜けの階上庭に出る。



 無人のがらんどう、見上げれば微風の夜空に星と真円の月が宝玉のように散らばっていた。珥懿は石壁にもたれて腕を組んだ。月光はしらじらと澄み、彫像のような顔に複雑な陰影を落とす。以前よりかなり短くなった黒髪は結っておらず、なびいてからすの濡羽のように光を弾いた。


「我々は生まれた土地も、育ち方も全く違う。そしてお前にはひときわ異なる定められた天命がある。その道は誰にも理解できない孤独の道だ。他者に分かってもらおうなどと思わないことだ。それが最も近しいつがいだとしても、互いに真に通ずることなど不可能なのだ。お前はそれを期待し重荷として負わせない自信があるか」

 珥懿の言わんとしていることをしばらく反芻する。泉主とは血を繋ぐ役目を負った者、しかしその任は一人では出来ないことだ。

「私が、さいを手荒に扱うようになると?それはありません」

「たとえいつまでも子が生まれずともそう言えるのか。周りから毎日かされて病んだ泉主とて過去にはいる。子が出来ないのを全て妃の責として処刑した王もいる。お前が泉主でいるかぎり、国は、民はお前に泉根を求め続ける。その重圧は番ではなくお前が担うべきものだ。妻は土壌だ。よく肥え滋養のある土でなければ種は育たない。粗末に扱えば衰える」

 沙爽は俯いてこぶしを握った。「まだ何も分からない将来のことを絶対にとは言い切れません。しかし少なくとも私は妻になるのが誰であれ、丁重にしたいと思うし、大切にしたい」


「それが、本来お前の望まぬ不能渡わたれずであってもか?」


 驚きに頭を上げた。凝視した顔はただ無表情にこちらを見据えている。


「お前は当初、四泉に由歩を増やしたいと言った。お前の思惑通り、族民が四泉に入ればすべからく由歩の泉民は生まれることもあるだろう。しかし、お前の考えにはもうひとつあったのだろう?つまり、王統に由歩を生み出すこと」

「……なぜ」

「たとえ幼少を泉宮みやの外の采邑むらで過ごし、民の生活に慣れ親しんでいるとしてもふつうは泉外人と同盟しようなどという考えには至らない。お前には様々に、その考えに及ぶまでのものがあったはずだ。それは瓉明さんめいや妹を通しての理不尽と思える泉国のことわりだったのかもしれないし、氾濫や枯渇に対しての泉の脆弱さを目の当たりにしたゆえかもしれない。私にはそこまでは分からない。しかしお前は二泉が攻めてくるまで聞いたことはなかったはずだ。王統に由歩がいるなどということは。なのに、だ」


 不思議な輝きを放つ睛眸ひとみは瞬きせず、ただ次の言葉を待つ。


「お前は沙琴が霧界を渡り、ある程度動けなくなることには最初から考慮があった。だからこそ助けを求める猶予があると踏んでこんなところまで旅してきたのだろう。その弱みを十分に活かしきれはしなかったがな。しかし、二泉主の侵攻状況においてはまるでそれが当然という顔をしていた。我々のように由歩で由霧を渡れるかどうかなんて当たり前すぎて話題にもしない立場ならまだしも、牙領へ来るのに初めて由霧を渡り辛さを味わったお前が二泉主にもその隙があるだろうことを忘れるはずはない。斉穹朋嵒が由歩であると知っていたからこそ、お前は妹よりむしろ奴の脅威にいち早く怯えた。沙琴に挙兵された時点で時置かずして私を頼ってきたのはどちらかといえばそちらのことをいていたからだろう」

「……牙公ははじめから二泉主が真の王ではないと、気づいていましたか?」

「否。しかし即位して三十年にもなるのに一向に二泉が濁ったままなのはなぜなのか、探らせてはいた。だが真実を知る者が掴めず分からなかった。死人に口なしと言うやつだ。その点で斉穹が苛烈な粛清を行ったのは秘密を守る上では正しかったのだろう」

「……以前言いましたね、二泉の先代の湶后は、四泉の王統と繋がりがあると。元を辿ればそれは私の母の家――りく家と結びついている。二泉主が由歩であると聞いたのは、撫羊の留学るがくで淕家の縁故をあてにするという話があった時です。今の二泉主は霧界で妖獣を狩って手なずけている、勇ましい御方だ、と。それほど高名で優れた王のもとでなら、撫羊も多くを学べると母も喜んでいた」

 沙爽は珥懿の隣の柱に背を預けた。

「皆、疑問に思っていなかった。しかし私はたまに五泉ごせんを行き来する瓉明が、帰ってきてしばらくは体調を崩しているのを誰にも言わずにいることを知っていた。他にも調べて、王統には由歩が決して生まれないことをなんとなく悟った」

 力なく苦笑する。

「でも、まさか偽物だとは思っていませんでした。例外もあるものなのだとばかり。……もっと早くにその可能性に思い至っていれば、違った道があったのかも。撫羊を……死なせずにすんだのかもしれない」

「それは今言っても詮無いことだ」

 俯いたまま頷いた。


「…………であれば、お前も思ったか」


 曾侭そじんの牢房で二泉の内情を開陳されてから、薄々浮かんだ新たな疑問。


「二泉の王太子、ですか。けれど、斉穹はあの場で嘘をついているようには見えなかった。由歩でも同国人ならば、王統との繁栄が可能という事例なのかもしれないではないですか」

「とはいえ二泉の濁りが晴れていないのも事実」

「汚濁の理由は斉穹の仮説が正しいのかもしれないし、もっと別の理由なのかもしれない。これから澄むのかもしれません。黎泉れいせんしかあずかり知らないことです。いずれにしても王太子が泉根であることには変わりはないのでしょう」

 真相は二泉湶后を問いたださねば分からないことだが、もはや外野がそこまで詮索する道理はない。



 全てが手探りで分からないことばかりだった。二人して溜息をつき、それで、と問われて夜空を見上げている横顔を見る。

「お前はどちらをる。望みだった由歩と一緒になるか、不能渡のあの子を妻にするか。お前の壮大な実験を成すのか、泉の存続を重視するのか」

「どのみち、泉外民を妻にする王は有史上、私が初めてになるのです。由歩の誰かを迎えて子が生まれても由歩とは限らないし、逆でもそう。そもそも王族が泉外民とそういう関係を築けるのかどうかさえも確証などない。……でも」

 沙爽は輝く星に目を細める。

「いまの私は、そういうこと以前に、共に笑い合えるような方と寄り添いたい。私が泉主としてではなく、沙爽鼎添でもあることを忘れないようにれる人と」

 以前の徼火きょうかとのやり取りをぼんやりと思い出していた。

「――――それが歓慧どのであったなら申し分な……い」

 言い終わらないうちに襟首を掴み上げられ、回想から立ち返る。目の前には闇のように黒い両眼が自分を睨み据えていた。


「お前にあの子の何が分かる。何を分かってやれる?疵霊しれいというだけで一族に蔑まれ、殺されそうになったあの子が、それでもなお私に尽くし一族に従うのが何故なのか。ただひたすらに自分の出来うることを探し、身を削っているのはひとえに認めてもらいたかったからだ。生まれながらに存在を肯定されているお前と否定された歓慧、分かり合えるはずがあるか。私でさえあの子の苦しみを半分も理解してやることが出来ない。私の血を分けた唯一の妹を救ってやれないこのもどかしさがどれほどのものか。お前にあの子の抱えてきた全てのごうを背負えるというのか。泉宮に行っても異人だ夷狄だと誹謗ひぼうに晒されるのは目にみえている。それはたとえ法で禁じてもつきまとう、呪いのように。その全てから守れるというのか。お前ごときが」


 瞠目どうもくし、しばらく瞬きもせず、それから瞼を閉じた。息を吸い、目に力を込めて見返した。


「歓慧どのの全てを理解することはおそらく無理だ。私は彼女ではないから。でも、傍にいて、共に手を取り合って歩むことは私にだって出来る。四泉と牙族そのもののように、私が命を懸けて歓慧どのを守る。守って、愛する。愛していく」


 永遠にも思えるあいだ、珥懿も瞬きなく睨んでいた。それにじっと応える。


 夜の静寂しじまに遠吠えが聞こえ、それは切ない音を含んで月夜に沁み渡る。


 ふっ、と、襟を掴んだ手が緩んだ。しかしかかとが地に着いた途端、拳を食らって沙爽は吹き飛ぶ。口中に鉄の味がし、折れた固いものを感じて吐き出した。

 漆黒の闇そのもののような黒い人はなおも振ったものを握りしめたまま。

「安い言葉を軽々に言うな。それはこのさき生涯をかけてお前が証ししていくことだ。愛するだと?ならば常に問え。うまく愛せているかといつも訊け。お前の愛するというのが、あの子の鎖になって縛っていないか気を張れ。死ぬまでそれを絶やすな。それをおこたったのを私が見抜いた時には、たとえ宮の中心にいたとしてもお前を殺す」

「――――肝に、命じます」

「肝だけでなく産毛うぶげの先まで全身に叩き込め。お前は四泉の命そのものだがそれより何よりも前に歓慧のものになる。お前の一眼一翼いちがんいちよくを全身全霊をして守り通せ」


「誓います!この身をして!」


 宣言を聞いた珥懿は大きく、大きく息を吐いた。虚脱したように上向くと、もうこちらを見なかった。

「歓慧は大庭おおにわにいる」

 それだけ言うと、髪をなびかせて走廊の向こうに去って行く。呆然と座り込む頬に、風に吹かれてぽつりとしずくが当たった。



「…………雨…………?」



 しかし、不思議に思って見上げた夜空は晴天だった。







 見慣れたゆずりはの木杭を前に、歓慧は半円状に広がって散らばる無数の金剛石の星と中天に掛かる霽月せいげつの光を浴びていた。幽艷の月影は広大な庭を淡く照らし、反射した大地は真昼の砂丘のようにさんとして、本物の夜空に負けないほど輝く。


 それらを眺めていて、気配を感じて振り返る。道の先にこちらもまばゆく光を散じさせた大星海あまのがわの髪の少年がゆっくりと歩いて来るのが見えた。姿が近づくにつれ、驚いて思わず駆け寄った。

「鼎添さま、どうされたのですか、そのお顔!」

 呼びかけつつ、全てを悟った少女にぎこちなく笑う。左眼を覆っているうえに同じ側の頬も真っ赤に腫れ、切れた口の端は青紫に変じていた。まるで戦場帰りの負傷兵である。

「大事ないよ。少しその、牙公と話を」

「大丈夫ですか」

 支えられてよろよろと杭の前に座り込み、ふう、と息を吐いた。隣に歓慧も腰を下ろす。

「涼しいな。寒いくらいだ」

「もう秋ですもの。すぐにまたたくさん雪が降りますよ」

 そうか、と沙爽は素晴らしく晴れた夜空を見上げ、そうして同じように見上げている隣人に改まって居住まいを正した。

「歓慧どの。昼間の話の続きなのだが」

「はい」

「そなたは、どうしたい?」

 歓慧は瞳を揺らし、迷うように俯いた。

「……私には、天命がありません。成すべき役割も果たすべき義務もなく、ただ生まれ落ちいたずらに息を吐くだけのものでした。父母の顔もよく覚えていません。一族に排除されそうになり、私はただいるだけで害なのだと、初めて理解しました……」

 淡々と語る。

「私は誰にとっても要らない存在なのだと幼心に悟りました。よく考えてみれば当たり前でした。でも、ただ一人になっても、私は死にたくても死に方さえ分からなかったのです。それを」

 伏せた睫毛まつげが影をつくった。

「姉上が、唯一、姉上だけが真っ先に私の存在を全て肯定し、私の折れそうな心だけを否定してくれた。くじけそうな時、自分の噂話を聞いて落ち込んだ時、常に傍に置いてくださった。私が最初にたまわった厳命は、決して死ぬな、です」

 沙爽は苦笑した。「牙公らしい」

「ええ。姉上はことさら私に関わる一切には傍若無人に振る舞いました。私が掟に当てはまらない逸脱した存在なら、私にはそれを守る必要はないと言ってすべての反対意見を跳ねけた。お陰で私は今日までそれは自由に城の中を駆け回ることが出来ました。そのせいで皆の反感をあおってしまいましたが、気にする必要はないとおっしゃった。身にどれだけ不満の気を浴びようとそれは自分へのものだから無視しろと」

「強いな」

「姉上は父母が同胞に殺されて以来、心から人を信ずるということがなくなった。姉上にとっても、私だけが真に心安らげる者なのだと、自惚うぬぼれかと思いますがそう感じていました。だから嬉しかった。姉上のために尽くすことは私の存在理由だったのです」

 でも、と泣きそうに唇を震わせる。

「私は罪を犯した。聆烽れいほう兄上を逃がし、すべての元凶かもしれないことを引き起こした……鼎添さま、姉上はあなたに私のことを許したのでしょう?」

 潤んだ瞳が悲しそうに星を映す。

「もう私のことが要らなくなったのでしょうか」

 沙爽は首を振った。

「違う。牙公は歓慧どのの幸せを、そなたが幸福になることを何よりも願っている」

「私は今でも十分に幸福です」

「歓慧どの。歓慧どのは不能渡だ」

 言えば怯んだ。

「牙族の由歩は、不能渡よりも長くは生きられない。……牙公は常に先のことを見通している。私と同盟を組んでくれたのも、そなたを託してくれたのも全てこれから先の牙族と、歓慧どのに、何が一番幸せなのかを考えて決めたことだ」

 歓慧は強ばった表情で見返す。

「鼎添さまにすることが、私の幸せだと?」

「聞いてくれ」

 体ごと向き直る。

「牙公の白生はくせいに襲われたとき、私は咄嗟とっさにそなたの前に出た。牙公も他の精鋭もいて、弱い私がわざわざそなたを助けることはなかったんだ。自分も頭では分かっていた。でも、出ずにはおれなかった」

 失った左眼に手を当てた。「その瞬間には、自分が四泉の命だとか、ここで死ねないとか、その全部が吹き飛んでいた。ただ私は『私が』そうしたいと思ったからそうした。戦場で斬られそうになった牙公を助けなければと飛び込んだ時とは、また違う…………私は他の誰にも、――──歓慧どのには誰にも指一本、絶対に触れさせたくないと必死だった。……それで気がついた」

 目を泳がせ、羽根飾りを握った。ゆっくりと視線を合わせる。


「私は、歓慧どのをお慕いしている。と、思う」


 最後は自信なさげに言い、頬を掻く。

「初めてで、よくは分からない。けれど会えないあいだ、いつも寂しかった。また多くのことを話し、共に食事をし、笑い合いたいと気づいたら願っていた」

 小さな手を取り、真摯に見つめる。

「そしてこれからもそうしたい」

 歓慧は呆気にとられたあと、合わされた目をひどく彷徨さまよわせた。そそくさと手を引かれ、沙爽は苦笑する。

「すまない。これは私の一方的な願望で押しつけだ。ただ、私が今思っていることを知って欲しかった。四泉主としてではない、沙爽鼎添としての気持ちを伝えておきたかった」

 地に手をついて立ち上がる。爽やかな笑みを浮かべた。

「言えてすっきりした。歓慧どの、そなたも自分の気持ちに正直にすればいい。たとえ牙公や私がそう言ったとて、そなたの嫌がることを無理にとは全く思っていないのだから」

 言い終わるときびすを返す。と、袖を引かれて振り返る。幽光を浴びて影の落ちた顔は表情がよく見えない。掴んだ手をまたもや恥じらうように離した。

「……鼎添さま。私は色恋のことはよく分かりません。生きていくだけで必死で、今までそんなことを考えたことがありませんでした。…もし、あなたの妻となっても、それは変わることがないかもしれません」

 難しげに迷う顔で見上げた。

「……それでも、良いとおっしゃるのですか」

 沙爽は微笑んで片膝をついた。

「私は牙公に歓慧どのを娶ったあかつきには、絶対に守り愛すると誓った。それは自分自身に対しての誓いでもある。私の心は変わらない」

 揺れる羽飾りを複雑な感情をたたえた視線が追い、固く握ったこぶしが胸の前で震える。

「歓慧どの。私にはそなたが必要だ。すでに心の支えであり、私の命の泉だ」

 包んできた手は包まれた自分のものよりも大きく、温かい。

「……鼎添さまのことは、嫌いではありません」

「それは良かった。吐くほど嫌われていたらどうしようかと」

「……でも、大好きでもありません」

「分かっている」

「なので私があなたを愛し返せるかは分かりません」

「問題ない」

 溜息をつく。優しげな顔はまるで怒るということを知らないようだった。

「ひとつだけ、共感出来ることがあります」

「なんだろう」


「――――泰添たいてんさま。私も、あなたがいなくて寂しかった。もう一度会えて、本当に嬉しかった。できるなら、ずっと一緒に過ごしたい。それは間違いなく、本心です…………」


 尻すぼみになって消えた語尾、夜空に霧散するまでその顔を見つめていた沙爽は感極まって小さな頭を胸に抱いた。歓慧は気まずげに目を伏せる。

「あなたとは違う気持ちかもしれません」

「いい。なんでもいい。そなたがそう思ってくれているだけで」

 押し殺した声が呻くように耳の後ろで聞こえる。

「共に来てくれるのか」

 問うた声は喜びを滲ませつつも複雑な音を放った。

「…………はい」

まつりごとの道具にして、すまない……」

「お謝りになるくらいなら、私が四泉に行っても後悔しないようにしてくださいませ」

 照れたのを隠して胸を押し返したのに笑った。

「一眼一翼として己のように想う」

 それを聞き、ふと思い出してふところを探る。取り出したものに沙爽は眉を上げた。

「これは……」

「以前差し上げたそれの片割れです。鳥の翼は必ず二つ。どちらかが欠けては飛べません」

 羽飾りを自分の首に掛けると彼はさらに嬉しげにする。その毒気のない心からの顔に誘われてつい笑ってしまった。

 まるで二人の笑顔に呼応するように、満天の星がとめどなく瞬いていた。







 再びの同盟の儀はとどこおりなく済んだ。これからの牙一族の方針が民にも告知され、また同盟の証として歓慧の四泉への入内が決まったことも広く周知された。ここに公に戦の終結が明示され、街は歓喜に包まれた。



 しかし祭り騒ぎの城下とは裏腹に、締結が終わったばかりの城は思いがけない事態に見舞われていた。当主である珥懿が突然、首長の座を降りると宣言したのである。



 騒然とした議場、主の姿はまだ無く、みな驚愕と不安のい交ぜになった顔で互いを見交わし、当主は一体どういうつもりなのかと議論していたところ、ようやく本題の当人が現れて場は静まり返った。


「まずこの度の戦、皆には苦労をかけた」


 頭を上げた僕たちに労いの言葉をかけた主は素顔のまま。渋い藍鼠あいねずの衣に髪は緩く結って横に流しただけの珥懿は至極落ち着いた面持ちで続けた。

「すでに知っているとは思うが、私はこれを機に当主の位を明け渡そうと思う」

「お待ちを。あまりに突飛なご決断です。我らにきちんと説明して頂きたい」

 ひとりが言えば頷いた。

「さもあろう。私が首座に就いてからというもの、一族は落ち着かず、常に内乱と隣合わせの日々だった。さらに今回は二泉の侵攻を受け、民にも多くの犠牲を出した。加えて再びの耆宿院と僚班の一部の謀叛。彼らが正しいとは言わないが、原因の一端は私の独断や峻烈しゅんれつさにるものだと、私自身も自覚している」

 場がざわつく。

「戦いは領内にとどまらず、四泉でも同胞を失い、結果として十牙の蘭家大人たいじん、姚家大人を欠くという一族にとって大きな損失を生んだ。今の牙族は四泉と同盟したとはいえ、以前の権勢は無きに等しい。一族の分裂を招き、もろくした罪は私にもあると判じた」

「当主。そうであるならなおのこと、あなたさまがいなくなれば我々はさらに弱体の一途を辿ってしまいます」

 言い募った臣下を目線で押しとどめ、続ける。

「理由はそれだけではない。いまに四泉と牙族の和合は大泉地に広く知れ渡る。他の泉国は我らを警戒するだろう。客は途切れ万騎はんきの出兵も減る。しかし同時に、泉国での危険な任も減ることになる」

「……それは、諜報活動をやめるということでしょうか」

「端的に言えばそうなる。しかし、現段階ではまだ必要だ。四泉との融和が形になり、民が徐々に泉地へと流れてゆくまで、我々の責務は変わらない。しかし流れに沿って自ずと必要でなくなることも増えていくだろう。城の形態も少しずつ変わってゆかねばならない。であるからして、父祖から続いた伝統も本当に我々にとって必要なのかを見定めていこうと思う」

 例えば、と臣下たちを見つめる。

「内諜を弱めていくのならば、それほど厳格に人員を統制せずともよく、従って付随した苛酷な習わしを続ける必要はなくなってくる。登狼とうろう登虎とうこの目的とは本来、命を懸けて一族に忠誠を示し、共有する情報を漏洩しないという信に足る人材を選出することにある。命に関わる諜報を扱うことがそもそも無くなるのであれば、それも不必要になる」

「ですが、それではそもそも聞得の存在が役に立たなくなるということでございますか」

「牙族の生業としてはそうなるな。いずれは」

 困惑が満ちる。

「まあ案ずるな。私とお前たちが生を終える頃もまだこの体制は変わらない。しかし、我々が死んだ後にいまだそのふるい慣習を残していては、いつまでも泉地と融和ができずむしろ妨げになる。今からどう折り合いをつけていくかを決めておくのは良いことだ」

「なれば、いま当主が御座みざを降りるのはなにゆえにございますか」

「これから時代を経るごとに、当主という地位もそれほど高いものではなくなってゆくだろう。であれば聞得の能の優劣や家柄で選ぶこともない。もっと人選に幅を持たせることができ、能力だけではなく人望や為人を重視し一族を平和にまとめあげる族長が出ても良い。ヒョウもしかり。支配権を得るには『選定』が必要だが、同盟が長期に及びすえが泉地で暮らすようになれば、猋の力を借りずとも生活出来るようになる。牙族当主の代名詞ともいうものまでも要らなくなるのだ。それまでに、我々の猋――狻猊さんげいたちを野生に返す方法を探らねばならない」

 なんと、と驚嘆に満ちた声が上がった。将来に対する不安と期待、いまだ想像すら出来ずに飲み込めない。

「お前たちが今の生活を手離したくないと思うのは当然のことだ。一度手にした安寧に慣れれば変化を怖がりいとうのも分かる。民でさえそうだろう。しかし水を失い、滅亡する最期だけは避けねばならない。来るはずがないと高を括る者もいるが、我々が手をこまねいていたせいで末代の恨みをこうむるのは死後においても恥。四泉の泉水に漕ぎつけたのは我々だ。我々の世代より後の一族の行く末も責任をもって整えるべきだ」

 珥懿は人々を見渡す。

「その第一歩にあたり、私は旧時代の最後の当主として任を降りる。もちろん猋の支配権が移るまでは正式ではないし、生きているかぎりは当主後見として尽力する。これは皆の目に見える区切りとして受け入れてもらいたい」

 臣下たちは項垂うなだれた。当主の言はすでにそれを決定事項とし、反対を聴かないきっぱりとした響きがあり、こういうときはもはやいくら反対しても曲げないのだ。

「……分かりました」

 肯定する声とすすり泣きが聞こえて主はほのかに笑む。

「少しでも惜しむ声があって安堵した。私は良い当主ではなかったし、皆には理不尽をいたが、今までよくいてきてくれ身命を捧げ戦ってくれた。お前たちを私は誇りに思う」

 紅珥くじさま、と口々に言う声がさざなみとなり、皆がひざまずく。次には頷いて声色を変えた。


「さて、それで次期当主だが。五翕ごきゅう、十牙と意見を交わし、彼らにはおもに私の希望を許容してもらった形となった。慌ただしくしていたために実は本人にはまだ話を通していない。今この場で問うてみよう。――――蘭檗らんびゃく


 呼びかけられて広房ひろまの隅にいた男が弾かれたように顔を上げた。


「蘭家の筆頭として幼い頃から最も危険といわれる二泉で諜報の任に携わり、此度の戦でも耳をよくひらき、私と仲間を守って戦った。亡き蘭逸もお前のことは大層買っていた」

「……お待ちを、当主。私はただの内間ないかんです。伴當でもなければ十牙でもありません。長く二泉におり領地の勝手も分かりません。ご指名は恐悦ですが、私にはそのような器はありません」

「私はお前だからこそ新時代の新しい当主になって欲しいと思っている。お前ならば猋の統率も難しくはないだろう」

「『選定』も受けずして当主に就任など……聞得がとてつもなく優れているわけでもなく、歴代当主のような覇気も気概もありません。私がお受けしても皆が納得しません」

「もとより全ての者が納得するような当主なぞいない。なにを尻込みすることがある。この私が直々に指名しているのだが」

 ざわめきのなか蘭檗は焦って前に出てきた。壇下で膝をつき、

「どうかお待ちを。私は皆に懺悔ざんげしなければならないことがございます。これを知らずに私をし上げてはなりません。どうか今ここで、全てを白状する機会をください」

 さらに揺れた周囲の仲間の視線を一身に浴び、顔を伏せる。

「話してみろ」

「は。……以前、二泉にもぐっていた堂兄いとこが二人おりました。ひとりは騰伯とうはく麾下きか将帥しょうすい、いまひとりは大農府だいのうふ平準丞へいじゅんじょうを勤めておりました。二人とも長く潜伏し、地位も爵位も申し分ない有能な方々でした」

 それが、と背を丸める。

「全てが明るみになった今だからこそ分かりましたが、おそらく叛逆者によって彼らは売られたのです。ある日突然間者であることが露見し、怒った二泉主に引き出されました。泉主は本当に牙族の者であるかも確かめず、虎賁郎こほんろうに彼らを斬らせたのです。…………斬ったのは、紛れもなくこの私です」

 静まり返った議場の中心で、私は、と苦悩を浮かべて息を吐き出した。

「あの時のことを今でも夢に見ます。二人の、最期まで口を割らず、ただ静かに頷いてみせたあの顔が忘れられないのです。あの時二人を助けていればと、何度も悔いてきました。大人かとくにも、父にも明かしたことはありませんでした。罪悪感で領地へ帰ることが遠のきました。そして遠く泉地にいるのをこれ幸いに、当主に事実を明かさず今日まで、たった今この時まで生き延びてしまいました。私には時期当主の名を授かる資格などありません。同胞を殺したこの手で一族を導く旗を振ることはできません」

 珥懿は蘭檗が口をつぐむまで黙って聞き、頭指で膝を叩いた。

「当時十二、三のお前がどうしようもない状況に置かれたことは想像にかたくない。情に負けて正体を明かしていればお前まで殺されていた可能性は大いにある。生き残るのが難しい二泉でそれは大変な痛手だ。お前は正しい選択をした。だからこそ堂兄たちもお前に斬られることを良しとしたのだ。悔いはなかろう」

「しかし、私の罪は消えたわけではありません」

 固辞に溜息をついた。他の者を見渡す。

「皆、今の話を聞いてどう考えた。同胞を断腸の思いで斬り殺した蘭檗が、それでも今日まで道をたがえず自分を抑え、二泉主の虎賁郎という最も危険な中枢で働いてきた報いとして当主におさまることに異議を唱える者があるか」

 皆が首を振った。蘭檗が周囲を見回し泣き出しそうに青褪あおざめ、ですが、となおも見上げる。珥懿もまた彼の躊躇を再度否定した。

「それは当主の座に就かない理由にはならないぞ。むしろその絶望を味わったお前には、私にはない意志の強さがある。それにお前がおらねば私は斉穹朋嵒に首をねられていた。お前はぎりぎりまで正体を隠し通した優秀な私の麾下だ。感謝している」

 肩が震える。長年誰にも言えなかった苦渋を洗いざらい吐き出して、安堵と悲しみと後悔が涙になって流れ落ちていく。

「それに帰郷している合間で我が妹に護身と剣を教えてやっていたこと、この私が知らないとでも思ったか」

 粒を散らして首を振った。勝手をして何事かとてっきり嫌われていると思っていた。領地は他人の家のように落ち着かず、仲間に馴染めない自分と、いつも独りでいる歓慧が重なって見えていた。虎賁郎として育った自分には、他になにも特技などなかったから、武術しか教えてやれることがなかった。

「今の話を最初から聞いていたとしても、私はお前を推したぞ、牙蘭檗洞がらんびゃくとう。次世代の当主の座、受けてくれるな?」

 微笑んだ当主は手を差し伸べる。その顔を見返し、しばらくの沈黙ののちに、深く息を吸って吐いた。やがて意を決し、きざはしを登る。ゆっくりと、うやうやしくその手を額にいただいた。




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