四十五章
彼女は今日も相変わらず質素な格好で
「牙公の……妹?」
「鼎添さま、黙っていて申し訳ありませんでした」
いや、と呟いて侑淵を見た。彼は微笑すると珥懿に向き直る。
「家柄も問題なく
「なんのお話ですか」
「五翕家の中から四泉王家への
「入内者……」
「泉主の
歓慧はやっと思い至ったのか驚いたのちに、眉根を険しくさせた。
「どうでしょう暁さま。貴女さえよろしければ、四泉の
妹の横で珥懿が唇を開く。が、当人がそれを
「丞相さま。わたくしにはそれはできかねます」
きっぱりと言ったのに首を傾げる。
「なぜ?泉主がお嫌いですか?」
「そういう問題ではありません。わたくしはたしかに生まれは紅家の者ですが、幼い頃より城に仕える下女でございます。わたくしのような者が高貴なる泉国の湶后に選ばれることなどありえません」
「五翕家でありながら、なぜ下仕えを?」
「わたくしには、それが適しているからです」
「
侑淵は腑に落ちないというふうに珥懿を見た。そちらは睨み返す。
「本人がこう言っている。この話はここまでだ」
「そうしたいのは族主でしょう。なにか隠していませんか?怪しいですね」
「丞相さま。わたくしは
「咎人。で、あるのに城への出仕を許されていると?泉主から
返事に窮す。侑淵は次いで横を見た。
「泉主はどうですか。暁さまなら現当主の妹御、四泉の民にも牙族にも臆することなく公表できる立派なご身分です。
沙爽は侑淵に瞬き、それから歓慧を振り返り、がばりと頭を下げた。
「すまない!牙公の妹とはつゆ知らず、滞在中の食事の世話から着替えから果ては湯浴みまで任せてしまった。しかも不躾にも下の名で呼び、さぞ不快だったことだろう。私を嫌うのも無理はない」
歓慧は慌てた。
「それは違います、鼎添さま。私はあえて当主の妹だということを隠していたのです。身分を明かせば、今のようになってしまうことが分かっていたからです。私は鼎添さまに、心置きなく快適に過ごして欲しかった。親しく声をかけて頂いて嬉しかったのは私のほうです」
侑淵は珥懿と十牙の面々を見た。
「ふむ。暁さまをこれほどまでに監視の目の厚い城内で放任しているのは、どうやら当主の妹だからという理由だけではないようですね。常時の任はなく、下仕え……なにか街に置いておけない
「お前に話すことはない」
「ここまで私に突っ込まれておいて、まだしらを切るおつもりか。これでは四泉になにか含むところがあるようではありませんか。無駄な摩擦を生むのは良くありませんよ」
丞相さま、と歓慧は頭を下げた。「決してそういうことではないのです。牙族は四泉との同盟を棄却することは本当に望んではおりません。どうかお怒りを
「――当主。ここまで言われて黙っておくのはやはり四泉に対しても不誠実になるのではありませんか。一族の形態が大きく変わろうとしている今、我々もこの問題については時間をかけて話し合う必要があると考えておりました。
「
「…………同感です。四泉は我々のことを信じて王を託し、今日まで共に戦ってきました。関係の妨げになるような隠し立てはしないほうがよろしいかと」
丞必も真摯に目を向けた。主は猛烈に
「分かりました。私もきちんとお伝えしたいと思います」
返答はない。一度珥懿に頭を下げ、沙爽に向き直った。ひとつ息を吸うと、胸に手を当てた。
「私はシレイです」
「シレイ?」
卓上の筆を
「疵霊と書きます。私は由歩ではありません。ですので僚班でも伴當でもなく、十三翼にもなれません」
「だが、族主の妹なのだろう?」
「はい。私は間違いなく姉上と同じ母から生まれた実妹です。けれど、
沙爽は顎に手を当てた。
「それは
「毋食は、生まれて数月から数年は由歩としての能があり、由霧を渡ることが出来ます。成長の途中で力が失われてしまっても、早期に訓練すれば力を取り戻せる可能性があります」
「以前別の存在を聞いたな。たしか……滅多にいない、不能渡なのに聞得の力がある者?それが疵霊か」
「その通りです。疵霊は生まれたその時から由毒に耐えることが出来ない。であるのに五感、六感の全てあるいは一部が聞得と同等の力を有するのです」
「それで城では合議にも出れないし、行軍もできなかったというわけか。しかしそれがなにか大きな問題なのだろうか」
「疵霊とは本来、有り得ない者なのです」
歓慧の言葉を継いだのは烏曚。
「聞得の能というのは必ず由歩に上乗せされた上位の能力です。不能渡であるのに耳目鼻に門を持つというのは尋常のことではありません」
「門」
「聞得の利き加減を調整する脳の器官あるいは心の内にある
「ですが、疵霊にはそれが出来ない。疵霊の他には例外として、不能渡でありながらも霧界で
沙爽は呆気にとられる。
「それを隠していたということか?」
「牙族にとって、疵霊とは不吉の象徴なのです。本来いてはならない、あってはならない凶事です。なぜなら、それは一族そのものを揺るがすものだからです。聞得の家系は不能渡の血を入れたがりません。能力が薄まるのを危ぶむからです。それなのに疵霊という存在はそこから逸脱しています。逆はあれど、聞得どうしで婚姻して由歩でさえない子が生まれることはふつうありえません」
「失礼ながら、お母上は?」
侑淵が問うて、歓慧は首を振った。
「母は聞得の有能な大名家出身でした。出兵に参加するほど能に長けておりました。父母どちらの系譜を辿っても、私のような者が生まれたという話はまったくありません」
「それでは、疵霊というのはいったいどこから?」
これには今まで静かに座っていた
「私の家系にただひとりだけ、もしやそうなのではという者がおりました。もしかしたら記述のないだけで、他の名家でも存在していたかもしれませんが、簡潔な
「なんとあったのです」
「残念ながら我が家の家譜は古いものが
「……その者は、どうなったのだ?」
「由霧に入れず聞得の調整は難しい。それにまわりは不能渡だとは思っていなかったわけです。門の開閉が出来ないのであれば神経をすり減らし
「そうなのか……」
「叡家は一族元始の頃から聞得の血を守ってきた家です。本来そういうことは絶対にあるはずがなかった。しかし歓慧さまがお生まれになり、我々は
聞いていた丞必が溜息をついた。
「院は反発しました。聞得として君臨する当主家の中からまさかの不能渡が生まれた。これでは血統一家を持つ意味がなく、一族をあげて聞得を珍重する理由がなくなる。疵霊とは、我々の生きている仕組みの根幹を揺るがすまったく新しい存在だったのです。院は歓慧さまをすぐに葬るよう言いました。一族を壊す
「それで、下仕えを?」
「私は城にいても何も役に立たないので、せめてみんなの邪魔にならないようにと。これは私が自分でお願いしてさせてもらっていることです」
「しかし、城にとどめても
「ですから、私は当主の妹ではありますが、通常の聞得とは立場を異にしています。私のような者が泉国の正妃になるとなれば、耆宿院や民がどう思うか」
「ふむ…なるほど、事情は分かりました。しかしこれは逆に好機と捉えるべきなのでは?」
言った侑淵に全員が怪訝に彼を見た。
「むしろ湶后に据えることで暁さまが決して
沙爽は目から何かが落ちたようだった。
「侑淵はすごいな……」
「いいえ、ふつうです」
真顔で言ったのに同意する声がある。
「儂も一理あると思う。そもそも不能渡の四泉主に由歩をあてがうのは懸念が残ると話していたところ、同じ不能渡の暁歓さまであればその問題を越えることができ、尚且つ名家の家柄も当てはまる。先刻皆もそれに思い至ったであろう?」
「烏曚さま、しかし民は」
「暁歓さまのことを悪く
沙爽は首を振った。
「私には聞得だから疵霊だからといってそれをもとに選ぶ理由はない。どのみち四泉にはほとんど不能渡しかいないのだから、そんなことを気にする者はいない。私もそうだ」
言って見つめたが、彼女はそれでも俯いた。
「私には……とてもできません」
「なぜ?もちろん、ここは歓慧どのの生まれ育った場所だし、本当に嫌なら無理に連れて行こうなどとは思わないけれど」
「そういうことではなく」
固く目を
「そして、みなさま。私には、ずっと黙っていたことがあります。私の許されざるべき大罪を。あろうことか、私はその記憶を最近まで忘れて今までのうのうと生きてきてしまいました。このことを無視して入内の話などできるはずがありません。…………
しん、と
珥懿は必死の顔を見据えた。
「今ここで話すべきことか」
「これは四泉との国交にも響くものです。どうかみなさまにも聞いていただきたい。その上で私の裁定を行ってください」
どうか、と床に頭を擦りつける妹の手を拾う。
「……許す。話してみるがいい」
はい、と頷き、居住まいを正す。
「…………全てはあの内乱が発端なのです」
十年前。当時から
歓慧は、まだ聞得の調整が上手くゆかず、たびたび体調を崩しがちでその日も長らく続いた高熱がようやく落ち着いたという頃合いだった。
しかし昔から寝ることが苦手で、よく
誰だろう、と物陰に隠れて見ていれば、彼らは突然
いくらも経たずにその者たちが叛逆者なのだと悟った。あちこちで上がる断末魔と剣戟の音に怯え、混乱した頭で考えられる限りのいちばん安全な場所へと走った。旅立つ前の珥懿に教えてもらった、秘密の地下の入口へ。
地下は迷宮のように入り組んでいて絶対に独りで入ってはいけないと言われていた。しかし、城の外もすでに乱戦が起きており、恐怖と焦燥に駆られ生まれて初めて言いつけを破ったのだった。
それでも頭上から聞こえる荒々しい足音、何かが倒れる鈍い衝撃や、叫び言い交わす声。深く、深く
──――そこで不可思議な青年に出会ったのだ。
助けてくれた男と数日を過ごした。地下にまで響いていた喧騒は去り、ただ朝晩に湯が流れ落ちる水音がするだけの空間で、彼はただ静かに読み物に
檻から出た男は一緒に外へ逃げるかと誘ってくれて、正直一緒に行きたかったけれども、自分に霧は越えられない。地下を途中まで共に歩き、そうして見送り、それから珥懿の帰ってくるまでを城の地下道や
彼は別れ際に名を言った。確かに聞いたはずで、知っている名だったのだ。しかし珥懿が帰還し、救われた安堵と、親しい者たちを失った悲しみ、自分が殺されるほど
しかし、それが間違いなく現実だったことがあの日分かった。
あの日、二泉の先鋒隊が領門の前の閑地に布陣したあの時、たしかに彼の気配を感じた。なにかにおいがしたとか、実際にいたとかそういうことではなかった。記憶の中に埋もれた強烈なまでのあの気。突然に、なんの前触れもなくそれは表層に浮上し、あの日のことを鮮明に思い出させた。それで分かったのだ。これはただの直感だったが、されど伴當と並び立つほどの自分の聞得による確信だった。
「……それに、砂熙が北路で見たという謎の影」
おそらく、彼だ。
十牙たちは互いに顔を見合わせた。
「……我らはいま初めて聞きました。城の地下にそのような囚われ人が?」
先代の頃から当主に近かった高竺と丞必は特に不可解そうにする。「私どももまったく聞いたことがありません。当主はご存知だったのですか」
珥懿は髪を掻き上げた。
「……戴冠式のすぐ後に、
礼鶴が亡き妻の名に驚きの顔で凝視する。それに軽く頷き、
「知っていたのは先代と母、それに歓慧の
「して、それは誰なのです」
珥懿は長い溜息を漏らした。
「先代の子、つまり私の
まさか、と皆が一様に息を飲んだ。
「十六年前に『選定』から逃げ出し、
歓慧が顔を覆った。
「
場が唖然とした空気に包まれるなか、烏曚が
「
「そうだ。牙紅聆烽。一番下の義兄」
「ばかな。『選定』を逃げ出して生きているはずがない。『選定』の失敗は即ち死だ。禁忌を犯したのならばすべからく処刑されたはず……」
「だが、殺さずに地下に隠匿したと?なぜ」
紅家の二人は首を振った。
「詳しいことは一切聞いていないが、牢にいたのは
「裏で二泉に協力していたのは紅聆さまということですか」高竺が信じがたいという顔で問うた。
「歓慧が
沙爽が話を思い返しながら、
「ということは、……二泉主の言っていた使者というのはその兄上どのの使者ということか?」
「……やはり
皆一様に首を振る。生きていることさえ知らなかったのだから、なぜ今になってその存在が現れたのか分かるはずがなかった。
歓慧が
「ですから、全ては聆烽兄上を牢から出してしまった私のせいなのです。そのせいで二泉は由歩の兵を増やすことに成功し、領地を攻撃し、蜚牛で鼎添さまを襲った。私のせいで、
ですから、と四泉の二人を見る。
「こんな罪を犯した私が、牙族と四泉の橋渡しに、ましてや湶后になどなれるはずはないし、なってはならないのです。どうか、お考えを改めてください。もっと適した人は他にいくらでもおります」
「待ってくれ。それは本当に歓慧どののせいなのか?だって当時そなたはまだほんの子どもで、たったひとりで敵から隠れていたのだろう?助けてくれた兄上どのに心を許すのは当たり前だし、囚われていた事情を知らなかったのだからそれを今さらどうこう言うべきではないだろう。それにまだそれが全ての元凶だと決まったわけではない。我々は彼の姿さえ見たことがないのだから」
沙爽が手を挙げ、向かいで珥懿も頷いた。
「その通りだ。歓慧には何も罪はない。むしろ私が当主になったときに始末しておかなかったのが原因だ」
不機嫌に
「意見があるなら述べよ」
当主の寵臣たちは押し黙って推考していた。やがて高竺が口を開いた。
「歓慧さまは紅聆さまを牢から解放したものの、作為的にではなく良かれとやったこと。たとえ紅聆さまが全ての糸を引いているとしても、道を
「右賢に同じく。当時城は混乱の中、暁歓さまを独りにし、お守りできなかった我らの責任もあります。疵霊であるという事実に、我々が全く含むところがなかったとは申せません。暁歓さまはそれに幼いながら勘づき、我々を信頼するに値せずとして当主が帰還されるまでの
「でも……」
「暁さま。湶后の件はいまこの場で
侑淵はそう言ったが、眼光鋭く珥懿が否定した。
「別にこの件があってもなくとも、歓慧を湶后にさせるつもりはない」
「まだそんなことを」
「私は許さない!」
扇が卓に打ちつけられた。侑淵は呆れたように、
「今までの流れを聞いておりませんでしたか。湶后に相応しいのは民に名を通す五翕家ですが、泉根を
「絶対に不能渡でなければならない理由はない。由歩でも子ができる可能性も捨てきれないのだろう。そもそも、歓慧は不能渡ではあるが聞得だ。その能力がどう影響するかも依然未知。もしかすれば由歩も聞得も、そもそも泉外人と王統とは
「下品な。天下に名を馳せる牙族の頭ともあろう御方が。耳が腐ります」
「やかましい。何でも思い通りに人を動かせると思ったら大間違いだ。私の妹に圧力をかけることは許さん。沙爽、お前も自分の問題なら下僕に丸投げせずに己で考えろ」
「私は最初から誰でも構わないと」
「その受け身な態度が気に入らない。本気で考えているのか。自分の
言われて沙爽はぐうの音も出ない。
「了矯侑淵、だいたい貴様、はじめから歓慧を狙っていただろう。族民の四泉においての立ち位置とて、泉主が勅命を下せばそれで民は黙る。それを
「当主の座に十二代も続く家であれば民に不満はございません。湶后のことは、泉主の勅命だけで位の融通を図るのでは納得できない民に
「若い主を籠絡していい気になっているのはいまのうちだ。せいぜい
「ふんぞり返っているのは貴方です。もう少ししおらしいふりでもしていれば要らぬ争いを抑えられたかもしれませんよ。果断と直情は違います。ついでに言わせて頂くと、愛着と執心もまったく異なります」
歓慧に対することを揶揄し
「今日たった数刻ここにいるだけの貴様が、当て推量で私のことをその卑しく曲がった
「さすが妖犬の主とあって吠え面もさまになっておりますね」
「姉上!そこまでにしてください」「侑淵、言い過ぎだ。同盟を反故にする気か」
隣の二人が押しとどめる。歓慧は改めて手を着いた。
「鼎添さま、丞相さま。今一度私に考える時間をくださいませ。突然の事で、いまは落ち着いて考えられません」
「歓慧はすぐに断るのが角が立つからこう言っているだけだ。履き違えるなよ愚か者たちが」
「姉上。……とにかく、必ずお返事は致しますので、何卒」
もはや猛獣を抑える御者である。族主はすっくと立ち上がると妹を連れ、十牙に散るよう手を振って怒気を溢れさせながら出て行ってしまった。
見送って沙爽は青褪めながら涼しげな顔を詰った。
「なんてことを言ったんだ。牙公が
侑淵はやれやれと溜息を吐いた。
「族主自身も早く伴侶を得られたほうが良いのでは?いつまでも妹離れできないでは、暁さまがお可哀想ではありませんか」
「私たちがとやかく言うことではないよ」
二人が出て行った扉を見る。自分だって最愛の妹がいたから、気持ちは少しは分かる。歓慧が四泉に来たらそうそう会うことはできなくなるし、珥懿も家族がおらず寂しいだろう。
「私ももう一度頭を整理する。今日は休ませてもらおう」
そうまとめると散会を促した。
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