四十五章



 彼女は今日も相変わらず質素な格好で裳裙もすそではなく短褲はかま穿いて脚を出し、髪は肩先までで短く、あかぎれのできた手をしていた。しかしその口から出た名乗りに沙爽はしばらく困惑する。


「牙公の……妹?」

「鼎添さま、黙っていて申し訳ありませんでした」


 いや、と呟いて侑淵を見た。彼は微笑すると珥懿に向き直る。

「家柄も問題なく為人ひととなりも才女の気が見えます。おまけに泉主とも仲がよろしい。どこが相応ふさわしくないのです?」

「なんのお話ですか」

「五翕家の中から四泉王家への入内者じゅだいしゃを選んでいるのです」

「入内者……」

「泉主のさいです」

 歓慧はやっと思い至ったのか驚いたのちに、眉根を険しくさせた。

「どうでしょう暁さま。貴女さえよろしければ、四泉のきさきになってはいただけませんか」

 妹の横で珥懿が唇を開く。が、当人がそれをさえぎった。

「丞相さま。わたくしにはそれはできかねます」

 きっぱりと言ったのに首を傾げる。

「なぜ?泉主がお嫌いですか?」

「そういう問題ではありません。わたくしはたしかに生まれは紅家の者ですが、幼い頃より城に仕える下女でございます。わたくしのような者が高貴なる泉国の湶后に選ばれることなどありえません」

「五翕家でありながら、なぜ下仕えを?」

「わたくしには、それが適しているからです」

せませんね」

 侑淵は腑に落ちないというふうに珥懿を見た。そちらは睨み返す。

「本人がこう言っている。この話はここまでだ」

「そうしたいのは族主でしょう。なにか隠していませんか?怪しいですね」

「丞相さま。わたくしは咎人とがびとです。このように卑しい者をお選びになってはなりません」

「咎人。で、あるのに城への出仕を許されていると?泉主から玉璽ぎょくじを預かるほどに?」

 返事に窮す。侑淵は次いで横を見た。

「泉主はどうですか。暁さまなら現当主の妹御、四泉の民にも牙族にも臆することなく公表できる立派なご身分です。御歳おとしも同じくらい、そもそも仲良くしてらしたのでしょう?」

 沙爽は侑淵に瞬き、それから歓慧を振り返り、がばりと頭を下げた。

「すまない!牙公の妹とはつゆ知らず、滞在中の食事の世話から着替えから果ては湯浴みまで任せてしまった。しかも不躾にも下の名で呼び、さぞ不快だったことだろう。私を嫌うのも無理はない」

 歓慧は慌てた。

「それは違います、鼎添さま。私はあえて当主の妹だということを隠していたのです。身分を明かせば、今のようになってしまうことが分かっていたからです。私は鼎添さまに、心置きなく快適に過ごして欲しかった。親しく声をかけて頂いて嬉しかったのは私のほうです」

 侑淵は珥懿と十牙の面々を見た。

「ふむ。暁さまをこれほどまでに監視の目の厚い城内で放任しているのは、どうやら当主の妹だからという理由だけではないようですね。常時の任はなく、下仕え……なにか街に置いておけない理由わけでもおありですか。例えば、暁さまは民に良く思われていない、とか?」

「お前に話すことはない」

「ここまで私に突っ込まれておいて、まだしらを切るおつもりか。これでは四泉になにか含むところがあるようではありませんか。無駄な摩擦を生むのは良くありませんよ」

 丞相さま、と歓慧は頭を下げた。「決してそういうことではないのです。牙族は四泉との同盟を棄却することは本当に望んではおりません。どうかお怒りをしずめてください」

「――当主。ここまで言われて黙っておくのはやはり四泉に対しても不誠実になるのではありませんか。一族の形態が大きく変わろうとしている今、我々もこの問題については時間をかけて話し合う必要があると考えておりました。猶主ゆうしゅである四泉主にも、お話しすべきでは?」

高竺こうとく

「…………同感です。四泉は我々のことを信じて王を託し、今日まで共に戦ってきました。関係の妨げになるような隠し立てはしないほうがよろしいかと」

 丞必も真摯に目を向けた。主は猛烈にねている。嫌だ、と顔に書いてあったが、今さらもう誤魔化しは通じないだろう。

 左右賢さうけんに説得されるのを見て、歓慧も口を引き結ぶ。

「分かりました。私もきちんとお伝えしたいと思います」

 返答はない。一度珥懿に頭を下げ、沙爽に向き直った。ひとつ息を吸うと、胸に手を当てた。



「私はシレイです」



「シレイ?」

 卓上の筆をった。

「疵霊と書きます。私は由歩ではありません。ですので僚班でも伴當でもなく、十三翼にもなれません」

「だが、族主の妹なのだろう?」

「はい。私は間違いなく姉上と同じ母から生まれた実妹です。けれど、不能渡わたれずです」

 沙爽は顎に手を当てた。

「それは毋食ぶしょくとはまた違うのか?」

「毋食は、生まれて数月から数年は由歩としての能があり、由霧を渡ることが出来ます。成長の途中で力が失われてしまっても、早期に訓練すれば力を取り戻せる可能性があります」

「以前別の存在を聞いたな。たしか……滅多にいない、不能渡なのに聞得の力がある者?それが疵霊か」

「その通りです。疵霊は生まれたその時から由毒に耐えることが出来ない。であるのに五感、六感の全てあるいは一部が聞得と同等の力を有するのです」

「それで城では合議にも出れないし、行軍もできなかったというわけか。しかしそれがなにか大きな問題なのだろうか」

「疵霊とは本来、有り得ない者なのです」

 歓慧の言葉を継いだのは烏曚。

「聞得の能というのは必ず由歩に上乗せされた上位の能力です。不能渡であるのに耳目鼻にを持つというのは尋常のことではありません」

「門」

「聞得の利き加減を調整する脳の器官あるいは心の内にあるふたのようなもの。我々は普段それを自分の加減で調整して日常生活を送り、必要な時は最大限に使います。聞得は生まれた時からの天与のものではありますが、幼少の頃から自覚的に使えるよう仕込まれます。でないと外界の全ての情報を拾ってしまい、心身に異常を来たしてしまうからです。それとうまく折り合いをつけるのに必要なのが由霧なのです。我々は霧の中で反響する音やにおいを聞き分け嗅ぎ分け、どの音は聴いて良くて何を嗅ぐといけないのかを学んでいきます」

「ですが、疵霊にはそれが出来ない。疵霊の他には例外として、不能渡でありながらも霧界で求道ぐどうをした者には鋭敏な感覚が得られる者がいるとは聞いたことがあります。しかしそれはあくまで修験しゅげんによりごくごく稀に習得したもの。不能渡であるにもかかわらず天稟てんぴんとして能力を備えている疵霊とは全く別物です」

 沙爽は呆気にとられる。

「それを隠していたということか?」

「牙族にとって、疵霊とは不吉の象徴なのです。本来いてはならない、あってはならない凶事です。なぜなら、それは一族そのものを揺るがすものだからです。聞得の家系は不能渡の血を入れたがりません。能力が薄まるのを危ぶむからです。それなのに疵霊という存在はそこから逸脱しています。逆はあれど、聞得どうしで婚姻して由歩でさえない子が生まれることはふつうありえません」

「失礼ながら、お母上は?」

 侑淵が問うて、歓慧は首を振った。

「母は聞得の有能な大名家出身でした。出兵に参加するほど能に長けておりました。父母どちらの系譜を辿っても、私のような者が生まれたという話はまったくありません」

「それでは、疵霊というのはいったいどこから?」


 これには今まで静かに座っていた礼鶴らいかくがやっと口を開いた。


「私の家系にただひとりだけ、もしやそうなのではという者がおりました。もしかしたら記述のないだけで、他の名家でも存在していたかもしれませんが、簡潔な脚注きゃくちゅうとはいえ疵霊の文言がみとめられたのはえい家の家譜図録のみです」

「なんとあったのです」

「残念ながら我が家の家譜は古いものが散佚さんいつし中途からしかないのですが、その最もはじめのところから数世代めに該当者がおりました。分家から迎えた者との間に生まれた女児で、風に当たれば鼻から血を噴いて倒れ、霧に近づけば肌を青くさせたと。おまけに眠らない。これは聞得の調整ができずに常に音とにおいに晒されていたせいだと思われます。薬師に診せてもまったく原因が分からない。由霧に耐えられないことは確かで、当時は何らかの疾患か欠陥があると疑われていたようですね。その呼称を疵霊、としたようです」

「……その者は、どうなったのだ?」

「由霧に入れず聞得の調整は難しい。それにまわりは不能渡だとは思っていなかったわけです。門の開閉が出来ないのであれば神経をすり減らし身体からだは衰弱していきます。記録によれば五つを数える前には夭折したようです」

「そうなのか……」

「叡家は一族元始の頃から聞得の血を守ってきた家です。本来そういうことは絶対にあるはずがなかった。しかし歓慧さまがお生まれになり、我々は震懾しんしょうしました。あらゆる書物をひっくり返して原因を探り、見つけたのがこの一例のみ。当時、伴當は大混乱でした。それが一部の耆宿院士にも知られてしまい、噂となりました」

 聞いていた丞必が溜息をついた。

「院は反発しました。聞得として君臨する当主家の中からまさかの不能渡が生まれた。これでは血統一家を持つ意味がなく、一族をあげて聞得を珍重する理由がなくなる。疵霊とは、我々の生きている仕組みの根幹を揺るがすまったく新しい存在だったのです。院は歓慧さまをすぐに葬るよう言いました。一族を壊す凶禍きょうかとみなしたのです。不能渡ゆえに街に降ろそうという案も出ていたのに、城下にも吹聴され背ひれ尾ひれのついた流言が満ち、歓慧さまには城にしか居場所がなくなってしまったのです」

「それで、下仕えを?」

「私は城にいても何も役に立たないので、せめてみんなの邪魔にならないようにと。これは私が自分でお願いしてさせてもらっていることです」

「しかし、城にとどめても暁歓ぎょうかんさまの存在は一族にかなり波を立てるものでした。特に耆宿では自分たちと同じ不能渡であるのに異能を持った暁歓さまをそねみ気味悪がる声が多かった。特別扱いされて城にいることも気に食わなかったのでしょう。おもにその鬱憤が一因となり起きたのが、この十数年での直近二回目の内乱です」

 灘達なんたつの言葉に歓慧は俯いた。自分のせいで乱が起きたなど、それは身を切られるほど辛いだろう。

「ですから、私は当主の妹ではありますが、通常の聞得とは立場を異にしています。私のような者が泉国の正妃になるとなれば、耆宿院や民がどう思うか」

「ふむ…なるほど、事情は分かりました。しかしこれは逆に好機と捉えるべきなのでは?」

 言った侑淵に全員が怪訝に彼を見た。

「むしろ湶后に据えることで暁さまが決して嫌厭けんえんされる存在ではないと公に示すことになるのではないでしょうか。我々四泉にとっては疵霊だといってもそもそも聞得に馴染みなく特に偏見がなく、后妃のお務めに不都合があるわけでもなし、むしろ牙領よりさらに由霧の晴れている四泉にいたほうがお身体からだには良いのでは?」

 沙爽は目から何かが落ちたようだった。

「侑淵はすごいな……」

「いいえ、ふつうです」

 真顔で言ったのに同意する声がある。

「儂も一理あると思う。そもそも不能渡の四泉主に由歩をあてがうのは懸念が残ると話していたところ、同じ不能渡の暁歓さまであればその問題を越えることができ、尚且つ名家の家柄も当てはまる。先刻皆もそれに思い至ったであろう?」

「烏曚さま、しかし民は」

「暁歓さまのことを悪くそしっておるのはいまや当時の事情を知る耆宿の古い院士くらいだ。民の間ではいまやただの風の噂程度のもの。逆に現状、大耆たいきも処断され、院への不信のほうが募っておる。四泉主はどうですかな?なにかこだわることがありますか」

 沙爽は首を振った。

「私には聞得だから疵霊だからといってそれをもとに選ぶ理由はない。どのみち四泉にはほとんど不能渡しかいないのだから、そんなことを気にする者はいない。私もそうだ」

 言って見つめたが、彼女はそれでも俯いた。

「私には……とてもできません」

「なぜ?もちろん、ここは歓慧どのの生まれ育った場所だし、本当に嫌なら無理に連れて行こうなどとは思わないけれど」

「そういうことではなく」


 固く目をつむり、震える手で裾を握った。泣き出しそうに隣を見ると、姉上、と呼び掛ける。


「そして、みなさま。私には、ずっと黙っていたことがあります。私の許されざるべき大罪を。あろうことか、私はその記憶を最近まで忘れて今までのうのうと生きてきてしまいました。このことを無視して入内の話などできるはずがありません。…………此度こたびの戦、原因をつくったのは、この私です」

 しん、と広房ひろまは静まる。漏刻ろうこくの水音だけが流れ、言を反芻するような間があった。

 珥懿は必死の顔を見据えた。

「今ここで話すべきことか」

「これは四泉との国交にも響くものです。どうかみなさまにも聞いていただきたい。その上で私の裁定を行ってください」

 どうか、と床に頭を擦りつける妹の手を拾う。

「……許す。話してみるがいい」

 はい、と頷き、居住まいを正す。


「…………全てはあの内乱が発端なのです」





 十年前。当時からさかのぼり三年前の叛乱で戦場になり燃えた城はやっとおおかたの修復が終わった頃だった。珥懿ははじめの乱の後に正式に当主に就任し、この時ちょうど一年間の諸国周遊で領地を留守にしていた。その隙を狙い、耆宿院が再度叛逆したのだ。


 歓慧は、まだ聞得の調整が上手くゆかず、たびたび体調を崩しがちでその日も長らく続いた高熱がようやく落ち着いたという頃合いだった。

 しかし昔から寝ることが苦手で、よく手水ちょうずに立つと嘘をついて臥房ねまを抜け出していた。その真夜中は月がなかった。少しのあいだ走廊ろうかで真っ暗な外を眺め、怒られないうちにと帰ってきたが、寝所の前に立つ不審な男たちを発見し咄嗟に隠れた。


 誰だろう、と物陰に隠れて見ていれば、彼らは突然隔扇とびらを蹴り破って房室へやに押し入った。驚きに身を強ばらせた直後、物の倒れる音とともに絶叫が響き渡り、男たちの呼び交わす怒号が聞こえた。理解の追いつかない事態にその場に棒立ちになってただ隠れていることしか出来なかった。


 いくらも経たずにその者たちが叛逆者なのだと悟った。あちこちで上がる断末魔と剣戟の音に怯え、混乱した頭で考えられる限りのいちばん安全な場所へと走った。旅立つ前の珥懿に教えてもらった、秘密の地下の入口へ。


 地下は迷宮のように入り組んでいて絶対に独りで入ってはいけないと言われていた。しかし、城の外もすでに乱戦が起きており、恐怖と焦燥に駆られ生まれて初めて言いつけを破ったのだった。


 それでも頭上から聞こえる荒々しい足音、何かが倒れる鈍い衝撃や、叫び言い交わす声。深く、深くもぐった。しかし案の定、そのうちに迷ってしまった。闇雲に小路を右往左往し、階段を登ったり降りたりした。どこもかしこも暗闇で心細く、声をこらえて泣きながら歩いた。



 ──――そこで不可思議な青年に出会ったのだ。とらわれのその男は敵に見つかり追われていて危ないところを匿ってくれ、わずかばかりの食糧を分けてくれた。


 助けてくれた男と数日を過ごした。地下にまで響いていた喧騒は去り、ただ朝晩に湯が流れ落ちる水音がするだけの空間で、彼はただ静かに読み物にふけっているのだった。そして終始言葉少なに、ぼんやりと岩の天蓋を見上げている姿は儚げで、今にも消えてしまいそうだった。襲撃以来、彼以外の者も全く見なかった。ここにずっといてはどのみち飢え死んでしまう。だから一緒に出ようと誘った。


 檻から出た男は一緒に外へ逃げるかと誘ってくれて、正直一緒に行きたかったけれども、自分に霧は越えられない。地下を途中まで共に歩き、そうして見送り、それから珥懿の帰ってくるまでを城の地下道やかんあなのなかで敵に見つからないよう細心の注意を払って過ごしたのだ。


 彼は別れ際に名を言った。確かに聞いたはずで、知っている名だったのだ。しかし珥懿が帰還し、救われた安堵と、親しい者たちを失った悲しみ、自分が殺されるほどうとまれていたという衝撃ですっかり男のことを忘れてしまっていた。今も夢だったのではないかと思っている。幼い頃の記憶は曖昧で空想が混じっていたりもする。もしかして、あの地下牢の数日間は願望が見せた夢想で、実はずっと独りで彷徨さまよい逃げていただけなのではないかと。



 しかし、それが間違いなく現実だったことがあの日分かった。



 あの日、二泉の先鋒隊が領門の前の閑地に布陣したあの時、たしかに彼の気配を感じた。なにかにおいがしたとか、実際にいたとかそういうことではなかった。記憶の中に埋もれた強烈なまでのあの気。突然に、なんの前触れもなくそれは表層に浮上し、あの日のことを鮮明に思い出させた。それで分かったのだ。これはただの直感だったが、されど伴當と並び立つほどの自分の聞得による確信だった。




「……それに、砂熙が北路で見たという謎の影」

 おそらく、彼だ。

 十牙たちは互いに顔を見合わせた。

「……我らはいま初めて聞きました。城の地下にそのような囚われ人が?」

 先代の頃から当主に近かった高竺と丞必は特に不可解そうにする。「私どももまったく聞いたことがありません。当主はご存知だったのですか」

 珥懿は髪を掻き上げた。

「……戴冠式のすぐ後に、菊佳きっかに聞いた」

 礼鶴が亡き妻の名に驚きの顔で凝視する。それに軽く頷き、

「知っていたのは先代と母、それに歓慧の乳母めのとだった菊佳の三人のみ。私もそれまでまったく知らなかった。地下なぞ教えてもらっても入ることはほぼ無いからな。歓慧に教えたのは入口だけで、実際内部の構造は私もだいだいの経路を知っているだけだ。下に人がいるなど考えたこともなかった。おそらく二人が死んだ後の三年間、菊佳がひとりで世話していたのだろう」

「して、それは誰なのです」

 珥懿は長い溜息を漏らした。

「先代の子、つまり私の義兄あには全部で四人いた。みな『選定』を受けたが、その中でただひとりだけ生き残った者がいる」

 まさか、と皆が一様に息を飲んだ。

「十六年前に『選定』から逃げ出し、ヒョウの暴走を招き、結果としてはん家を断絶に追い込んだ張本人」

 歓慧が顔を覆った。



聆烽れいほう兄上を解き放ったのは私です…………‼」



 場が唖然とした空気に包まれるなか、烏曚がめしいた眼を見開いた。

老茹ろうじょが忠誠を誓ったという」

「そうだ。牙紅聆烽。一番下の義兄」

「ばかな。『選定』を逃げ出して生きているはずがない。『選定』の失敗は即ち死だ。禁忌を犯したのならばすべからく処刑されたはず……」

「だが、殺さずに地下に隠匿したと?なぜ」

 紅家の二人は首を振った。

「詳しいことは一切聞いていないが、牢にいたのは紅聆くれい本人であることは間違いない。今の歓慧の話を聞くに、蜚牛ひぎゅうの兵たちと関わりがあるとみていい」

「裏で二泉に協力していたのは紅聆さまということですか」高竺が信じがたいという顔で問うた。

「歓慧が傀儡かいらいの先鋒隊にそれを感じたということはそうなのだ」

 沙爽が話を思い返しながら、

「ということは、……二泉主の言っていた使者というのはその兄上どのの使者ということか?」

「……やはりにわかには信じられぬ。領地を出奔したとして、なぜ二泉に」


 皆一様に首を振る。生きていることさえ知らなかったのだから、なぜ今になってその存在が現れたのか分かるはずがなかった。


 歓慧がこぶしを握った。

「ですから、全ては聆烽兄上を牢から出してしまった私のせいなのです。そのせいで二泉は由歩の兵を増やすことに成功し、領地を攻撃し、蜚牛で鼎添さまを襲った。私のせいで、蘭逸らんいつさまや姚綾ちょうりょうさままでも……」

 ですから、と四泉の二人を見る。

「こんな罪を犯した私が、牙族と四泉の橋渡しに、ましてや湶后になどなれるはずはないし、なってはならないのです。どうか、お考えを改めてください。もっと適した人は他にいくらでもおります」

「待ってくれ。それは本当に歓慧どののせいなのか?だって当時そなたはまだほんの子どもで、たったひとりで敵から隠れていたのだろう?助けてくれた兄上どのに心を許すのは当たり前だし、囚われていた事情を知らなかったのだからそれを今さらどうこう言うべきではないだろう。それにまだそれが全ての元凶だと決まったわけではない。我々は彼の姿さえ見たことがないのだから」

 沙爽が手を挙げ、向かいで珥懿も頷いた。

「その通りだ。歓慧には何も罪はない。むしろ私が当主になったときに始末しておかなかったのが原因だ」

 不機嫌に広房ひろまを見渡す。

「意見があるなら述べよ」


 当主の寵臣たちは押し黙って推考していた。やがて高竺が口を開いた。


「歓慧さまは紅聆さまを牢から解放したものの、作為的にではなく良かれとやったこと。たとえ紅聆さまが全ての糸を引いているとしても、道をたがえているのは彼自身です。私はこの件が歓慧さまを断罪するに足る理由にはならず、また湶后選びに影響するものではないと判じます」

「右賢に同じく。当時城は混乱の中、暁歓さまを独りにし、お守りできなかった我らの責任もあります。疵霊であるという事実に、我々が全く含むところがなかったとは申せません。暁歓さまはそれに幼いながら勘づき、我々を信頼するに値せずとして当主が帰還されるまでの三月みつきものあいだ、餓死寸前になりながらお独りで城にお隠れになっておられた。そうさせてしまったのは我々です。暁歓さまを裁くというのなら、我々も裁かれねばなりません」

 斂文れんもんが重々しく断言し、他の者も頷いた。予想外に受容されて歓慧は狼狽うろたえる。

「でも……」

「暁さま。湶后の件はいまこの場でいてお返事を頂くことではありません。泉主がここでのお仕事を終えられて帰泉するまでに考えて頂けますか」

 侑淵はそう言ったが、眼光鋭く珥懿が否定した。

「別にこの件があってもなくとも、歓慧を湶后にさせるつもりはない」

「まだそんなことを」

「私は許さない!」

 扇が卓に打ちつけられた。侑淵は呆れたように、

「今までの流れを聞いておりませんでしたか。湶后に相応しいのは民に名を通す五翕家ですが、泉根をせる希望を鑑みて不能渡のほうが良い。この矛盾を全て満たすことが出来るのは貴方の妹御だけなのですよ」

「絶対に不能渡でなければならない理由はない。由歩でも子ができる可能性も捨てきれないのだろう。そもそも、歓慧は不能渡ではあるが聞得だ。その能力がどう影響するかも依然未知。もしかすれば由歩も聞得も、そもそも泉外人と王統とはじれない可能性のほうが高い。であれば手当たり次第、他の家から十人でも二十人でも連れて行って子ができるまで貴様の主に腰を振らせれば良い」

「下品な。天下に名を馳せる牙族の頭ともあろう御方が。耳が腐ります」

「やかましい。何でも思い通りに人を動かせると思ったら大間違いだ。私の妹に圧力をかけることは許さん。沙爽、お前も自分の問題なら下僕に丸投げせずに己で考えろ」

「私は最初から誰でも構わないと」

「その受け身な態度が気に入らない。本気で考えているのか。自分のさいのこともどうでも良いというようなやからになおさら妹を下せるか馬鹿者」

 言われて沙爽はぐうの音も出ない。いがみ合う珥懿と侑淵に周囲も顔を引きらせた。こうなると主は止まらない。

「了矯侑淵、だいたい貴様、はじめから歓慧を狙っていただろう。族民の四泉においての立ち位置とて、泉主が勅命を下せばそれで民は黙る。それをうまく湶后の話に乗せ替えただけだ。この同盟を一手に引き受け功を立て、朝廷の権を全て己に集めたいのだろう」

「当主の座に十二代も続く家であれば民に不満はございません。湶后のことは、泉主の勅命だけで位の融通を図るのでは納得できない民にわだかまりを残さないために必要なことなのです。最後のはとんだ言いがかりです。すでに朝廷の柱石ちゅうせきは私ですし?」

「若い主を籠絡していい気になっているのはいまのうちだ。せいぜい胡座あぐらをかいてふんぞり返っていればいい。すぐに痛い目を見る。私の民は無学ではない。朝廷へも入り込んでお前を追い落とす」

「ふんぞり返っているのは貴方です。もう少ししおらしいふりでもしていれば要らぬ争いを抑えられたかもしれませんよ。果断と直情は違います。ついでに言わせて頂くと、愛着と執心もまったく異なります」

 歓慧に対することを揶揄しあおられて珥懿は凄まじい顔をした。臣下たちが無言で顔を背ける。

「今日たった数刻ここにいるだけの貴様が、当て推量で私のことをその卑しく曲がった杓子定規しゃくしじょうぎで測って一体何が分かったというか!四泉の丞相とてこの場で私を侮って生きて帰れはしないぞ。夜には粉微塵こなみじんに刻まれて猋の餌になっても文句は言えまいな?」

「さすが妖犬の主とあって吠え面もさまになっておりますね」

「姉上!そこまでにしてください」「侑淵、言い過ぎだ。同盟を反故にする気か」

 隣の二人が押しとどめる。歓慧は改めて手を着いた。

「鼎添さま、丞相さま。今一度私に考える時間をくださいませ。突然の事で、いまは落ち着いて考えられません」

「歓慧はすぐに断るのが角が立つからこう言っているだけだ。履き違えるなよ愚か者たちが」

「姉上。……とにかく、必ずお返事は致しますので、何卒」

 もはや猛獣を抑える御者である。族主はすっくと立ち上がると妹を連れ、十牙に散るよう手を振って怒気を溢れさせながら出て行ってしまった。


 見送って沙爽は青褪めながら涼しげな顔を詰った。

「なんてことを言ったんだ。牙公が斉穹朋嵒せいきゅうほうがんと戦っている時より怖い顔をしていたぞ」

 侑淵はやれやれと溜息を吐いた。

「族主自身も早く伴侶を得られたほうが良いのでは?いつまでも妹離れできないでは、暁さまがお可哀想ではありませんか」

「私たちがとやかく言うことではないよ」

 二人が出て行った扉を見る。自分だって最愛の妹がいたから、気持ちは少しは分かる。歓慧が四泉に来たらそうそう会うことはできなくなるし、珥懿も家族がおらず寂しいだろう。

「私ももう一度頭を整理する。今日は休ませてもらおう」

 そうまとめると散会を促した。




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