第29話

しびれをきらしたというか、いよいよ不審に思ったのは野球部だった。




 ベンチから先輩に言われたのであろう立原が翔太たちのところへやって来ると、言いにくそうに話しかけてきた。




「翔太、あのさあ」


「ん?」


「……ブラバン、いつやんのかって、先輩が……」


「……あ~~、ああ、ああ、そうだよな~。いや、俺らもそろそろ場があったまってきたかな~って思ってたんだよ。まだどっちも点入ってないじゃん? そろそろ出番かなと思ってたとこ!」


「マジで」


「心配すんなよ。ここまで来てやらないってことはないんだから。先輩に言っといて。次の攻撃でばっちりやりますって」


「頼むよ、ほんと……」




 立原の立場も分かるだけに翔太は心配させないよう、わざとらしいほどにかっと歯を見せて笑った。背中で持田がため息をついていた。その溜息には明らかに「あほか」という響きが混じっていた。




 翔太は立ち上がると、


「さー、ぼちぼちやるぞ!」


 と一同を振り返った。




 すると皆が座っているベンチのフェンス越しに、驚いたことに田口さんが立っていて、


「なに、今から? ちょうどよかった」


 と言いながらグラウンドに入ってくるところだった。




「田口さん!」


 思わず全員が叫んだ。




「なんだ、どうした」




 皆、驚いたのはもちろん、斉藤などはもう泣きそうなほどほっとしていた。




 田口さんはいつものようにTシャツの上に制服であるところの校章の刺繍の入った開襟シャツを羽織り、長い髪は一つに束ねていた。




 首筋を汗が流れているところを見ると、一応は急いで来てくれたらしい。翔太は遅れてきた理由は聞かないことにした。




「おいおい、向こうの学校すげえな。ブラバン、女子ばっかじゃん」


 楽器を用意しながら田口さんが言った。




 向こうの応援席でも女の子たちが田口さんを見て「なに、あの人かっこいい」とひそひそざわざわするのが、聞こえてきた。田口さんは素知らぬ顔で、翔太たちに立ち位置を支持し、斉藤にチューニングをさせた。




「田口さん」


「なに」




 準備を終えた翔太は田口さんの背中に声をかけた。翔太の声は震えていた。




 それに気づいた田口さんは笑いながら翔太を振り向いた。




「お前、なんでそんな緊張してんの? 大丈夫かよ」


 そう言って翔太の顔を見た。




 翔太は表情を強張らせ、「あれ……」とフェンスの後ろに並んだ応援席を指差した。




 田口さんは翔太の指が示す方向に「ん?」と視線を向けた。そして翔太が見たものと同じものを見出すと、途端に表情を曇らせた。




「なんであいつが来てんだ」


「……分かりません……。でも、あれかも。僕らが本当にちゃんと応援に来てるかどうか確認しにきたのかも」


「……ふん、あいつのやりそうなことだな」




 応援席の数少ない父兄に混じって、ジーパンにTシャツという私服姿で立っていたのは生徒会長と平井だった。




 平井は翔太がそちらを向いていることに気がついたらしく、なんの邪気もない顔でひらひらと手を振ってきた。隣りには生徒会長が立っていて、むっつりした表情でグラウンドを睨んでいる。




 翔太は困惑したまま手を振り返した。




「会長、なに怒ってんですかね」


「さあ? あいついつもあんな顔だろ」




 野球部がまだ一点もいれていないことが生徒会としては不愉快だとでもいうのだろうか?




 それにしても。翔太はこれまでに何度も思いがけないタイミングで生徒会長に遭遇してきたことを思い出し、その偶然というか、因縁めいたものにふと疑問を感じた。




 生徒会長が姿を現すのはいつもブラバン絡みのことでだ。それも、田口さんが関わる場合。やっぱりこの二人には何かある。




「おい、俺らの攻撃だ」




 内野・外野の選手が走ってベンチに戻ってくるところだった。




 相手校のブラバンがサンバ・デ・ジャネイロやエル・クンパンチェロなど多彩に奏でるのを聴いた身としては、やる前から気持ちがくじけそうだった。




 しかし、そんな気配を察知したのか田口さんは譜面を前にする一同を見渡した。




「心配すんな。とりあえずやれるだけ、やればいいんだから」


「先輩……」


「いいか、間違ってもいいからとにかく最後まで吹けよ。途中で止まらなければそれでいいからな。なにがあっても、最後まで吹け」


 そう言うと笑みを浮かべた。




 一年生四人はともかく「はい」と声を揃えて返事したが、翔太だけは田口さんの笑みになんとなく首を傾げたくなるような、すんなりとは受け入れ難いものを感じていた。なんだ、今の変な笑い方は。腹に一物あるような。




 が、それを問い質す暇はなかった。田口さんは大島に向って、


「おーちゃん、指揮」


 と声をかけると、マウスピースを口に咥えた。




 暗い顔をしていた大島はいよいよ観念したかのようによろりと立ち上がって、翔太たちの並ぶ列の前に立った。折しもバッターボックスには最初の打者が入っていくところだった。




 野球部のベンチからは一年生たちを中心に声を張り上げての応援が始まっていた。




 たぶん、この声援の方が音が大きい。翔太はたった五人きりのブラバンが出す音量を思って、苦笑いが出るのを押さえることができなかった。




 でも。だけど。ここまでこれた。たった五人だけど、ブラバンの体裁は整い、今こうしてどうにか「活動」しようとしている。大切なのはそのことだった。




 大島の右手があがる。五人はその指先に注視し、わずか一瞬呼吸を止める。大島が最初の四拍をカウントし、翔太たちのブラバンの記念すべき最初の音が飛び出した。




 一曲目は「ねらいうち」だった。曲が始まった瞬間、ベンチにいる野球部も相手校の野球部員も、父兄もブラバンも、とにかくその場にいる全員が驚きの声をあげた。




 誰がもうひそひそと囁くようのではなく明らかに大きな声でその驚きを口にしていた。




「ほんとにやるんだ!」


「てゆーか、できるんだ!」


「うわー、マジで。マジであの学校でブラバンってやってるんだー」




 翔太はちらと斉藤たちの顔を窺った。持田も斉藤も、常山もとにかく必死で、一心不乱といった様子で、笑いの混じった人々の声は聞こえていないかのようだった。




 指揮をとる大島は絶望の色から、今では恥ずかしくてたまらないといった顔になっており、もうやけくそのようになって額から汗をだらだら流してリズムをとっていた。




 翔太は彼らが笑うのは無理もないと頭では理解していたが、それでもやはり失礼だなと思った。だって、自分たちは一生懸命やっているのに。




 下手な演奏であるのは分かっている。たった五人しかいなくて、ショボいことも。でもなぜそれを笑う。確かに珍しい光景だろうけれど、笑うことはないだろう。




 翔太はこの光景を生徒会長がなんと思っているのか、その顔を見たくて振り返りたい衝動に駆られた。生徒会が求める「部費を支給するに値する正当な活動」というものに、これが叶っているのだろうか。たった五人の野球部の応援なんて恥さらしなことをするぐらいなら、やはり軽音楽部と合併しろと思われたらどうしよう。




 翔太はどうにかしてスタートを切ったブラバンの、現実の姿に我ながら心が乱れ、怒涛のような不安の波に飲み込まれてしまいそうだった。




 ねらいうち、ウィ・ウィル・ロック・ユー、宇宙戦艦ヤマト、サウスポー、夏祭り、さくらんぼ。できる曲を次々と休みなく繰り広げる。その度にいちいち驚きと笑いが巻き起こる。




「えー、そんなのもできるの?」


「ヤマト、しょぼいー」


「なんか五人ってやっぱ寂しいよねー」


「この応援寂しくて、ウケるわー。ホントにこれ、必要?」




 翔太はあれこれ考えて楽譜を用意して指導してくれた田口さんのことを思うといたたまれなくなり、ちらと田口さんを見やった。




 怒ってるだろうな。翔太はそう思っていた。きっと眉間に皺を寄せて、やっぱりやめときゃよかったと思ってるだろうな、と。ブラバンなんか来なきゃよかったと思ってるだろうな、と。




 が、横眼に見た田口さんは翔太の思惑とはまるで違っていて、楽器を吹く口元は笑いを浮かべていた。しかも、何やらおかしそうに、面白そうに。そしてその眼は指揮をする大島の表情を見つめて輝いていた。




 ……なんだ? やけくそになってんのか?




 翔太は首を傾げるばかりだった。




 我が校の攻撃は未だ得点のないままだったが、やっとの思いで三塁までランナーが進み、試合の雰囲気はようやく盛り上がり始めているところだった。




「よし、ここらで俺らも派手なやつやるか。おい、ルパンやるぞ」




 田口さんが楽譜を捲りながら翔太たちに命じた。


 持田や斉藤は言われるままに田口さんがちゃんとドレミを書いてくれていた楽譜を確認するように凝視した。急仕込みだった常山も口の中でぶつぶつ言いながら音符を拾う。




 翔太だけが心の中で「派手っていっても五人じゃなあ」と呟いていた。




 やれるだけのことはやっているつもりだった。でも、相手校の生徒たちにしてみればこんなのはブラバンとは呼べないのだ。これが現実なのだ。




 翔太がいくぶん傷つき、落ち込んでいるのを察知したのか田口さんがもう一度皆に呼び掛けた。




「お前ら、心配すんな。今んとこちゃんと吹けてるから。でもな、もうちょっと人の音も聞け? デブ、焦んなくてもいいから。リズム、キープしろよ。緊張するとどうしてもテンポ速くなるからな。ルパン、特に速くなりがちだから。隣りの奴の音聞いて、それに合わせる気持ちでな」


「はい」


「合奏って、人と合せるってことだから。いいか、周りの音、聞けよ」


「はい」


「じゃ、始めるか」




 バッターボックスには野球部の三年生が立つところだった。




「おい、俺んとこにルパンの譜面ないぞ」




 楽譜を捲っていた大島が顔をあげた。




「えー? それ、忘れてきたんじゃないの」


「いや、そんなはずないけど……」


「ないんじゃしょうがないな。じゃ、俺が頭だけカウントするわ。おーちゃんは座ってていいよ」




 田口さんはしっしと手で犬を追い払うように大島をベンチへ追いやった。




 大島はベンチに腰をおろすとほっと一息ついてペットボトルのお茶をぐいぐいと喉に流し込んだ。ついでにネクタイを緩め、ポケットから取り出したハンカチで汗を拭う。野球部の応援なんて、もう金輪際やめてもらいたい。そう思いながら。




「じゃ、いくぞー」




 田口さんは楽器を携えたまま翔太たちと向かい合う格好で立ち「はい、注目」と並んでいる一年生を見渡した。そして片手をあげ分かりやすいように「ワン・ツー・スリー・フォー」と声に出してカウントしながら四拍を手で刻んだ。




 その瞬間。いや、もちろん翔太たちはそれぞれの楽譜に書かれた一拍目の音を一斉に吹いた。が、驚きのあまり一拍音を出しただけで四人はがばっと勢いよく背後を振り返り、そこに信じられないものを見た。

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