第30話

四人が楽器を吹かないのに、ルパン三世のテーマがグラウンドに響き渡っていた。それもそのはずで翔太たちの背後、フェンス越しになんと田口さんのバンドメンバーが楽器と共に立っていて、ルパン三世のテーマを今まさに吹いているではないか。




「お前ら、なにやってんだ! 止まるな! 吹け!」




 田口さんが怒鳴った。が、その顔は明らかに笑っていた。




「お前ら、なにやってんだ!」




 同じ言葉を叫んだのは大島だった。




 ……田口さんが企んでいたのはこれだったのか……!




 翔太はまだ事態が飲み込めないで口をぽかんと開けている持田たちに向って、叫んだ。




「音を聞け! 合わせるぞ!」




 翔太の声に我に返った三人は慌ててマウスピースに口をあて、じっと耳をすませて次に入るタイミングをはかり、突き進んでいく演奏の波に乗るように一緒にルパン三世のテーマを吹き始めた。




 ベンチの野球部も、応援席はもちろん、相手校の保護者もブラバンも誰もが試合展開よりも突如現れたブラバンの助っ人に注目し、ざわざわどよめきあい、物珍しげな嘲笑がいつの間にか爆笑に変わっていた。




「あれ、なに! 信じられない!」


「高校生じゃないじゃん!」


「反則でしょー!」




 非難というよりは、翔太たちの姿が滑稽で、おかしくて。翔太にしてももうなんと言われようと気にならないほど夢中になっていた。




 というのも「音を聞いて、合せる」というブラバンの醍醐味みたいなものを今初めてこのメンバーで味わうことができていることに体が震えるほど感激していた。




 確かにこんなのは禁じ手というか、反則だろうけれども。翔太は自分がかつて味わった経験を、今、斉藤や持田、常山が同じく体験しているかと思うとほとんど泣きそうだった。




 みんなで音楽をやるって、こういうことなんだ。なあ、分かっただろ? すごいだろ? 俺ら、今、一つの音をみんなで出してんだぜ。翔太は彼らに飛びついて、そう叫びたかった。




 大島が立ち上がりフェンス越しに自分の友人でもあるところの、田口さんのバンドメンバーに向って怒鳴っているのが耳に入ってきた。




「なんで、お前らがいるんだよ! なんで楽器持ってんだよ! ちょっと、やめろ! まずい! こういうの、マジでヤバい!」




 野球部の三年生がストレートの球をがっちり捉え、バットがボールを打ち砕く硬い音が球場の空に響き渡った。ランナーが三塁からホームへ駆け戻ってくる姿が視界の端に入る。




 試合の盛り上がりは最高潮。ブラバンの応援も絶好調。




 その日、野球部は次のトーナメントへと駒を進めて、試合は幕を閉じた。





 翔太たちのしたこと。いや、厳密には田口さんが企んだことは、月曜には学校中を駆け巡り、存在さえもあやしかったブラバンは一躍「時の人」になっていた。




 野球部は翔太たちの人数の少なさ、演奏のショボさがやはり不満で、うっかり応援など頼んだことを後悔したらしいが、あの田口さんのバンドメンバーによる助っ人参戦でかなりテンションがあがったらしかった。




「試合に勝ったからそう言えるんだよ。負けてたら、絶対俺らのせいだって言われてたと思う」




 斉藤はどうにか野球部の応援という「年間活動予定」の一つを無事にこなしたことでほっとしている様子だった。




 試合の後、翔太は久し振りに会う男前ギター氏から「頑張ってるらしいな」と声をかけられた。




 翔太はまだ胸を感激に打ち震わせながら、


「今日はありがとうございました」


 と頭を下げた。




 大島はバンドメンバーに向って怒りまくり、田口さんにも叱るというよりは完全にキレていた。




「おーちゃん、めっちゃ怒ってんな」


「はー、まあ、ブラバンに外野から助っ人っていうのはちょっと聞いたことないっすからね」


「別にいいじゃんね。俺らだって応援に来たってことで」


「ですよねー」


「お前さ」


「はい」


「ありがとうな」


「え?」




 急に改まって言われ、翔太は面喰った。




 男前ギター氏は続けて、言った。




「あいつ、楽しそうに部活やってんじゃん」


「田口さんですか」


「学校も行ってんだろ」


「はい」


「ぐっちゃんがさ」




 田口さんはバンドメンバーに常山を紹介していて、二人の方には背中を向けていた。




「熱血馬鹿がいるおかげで、忙しいって言ってた」


「……それ俺のことっすか」


 男前ギター氏がふふと笑った。




「情熱があるのはいいことだと、俺は思うよ。お前の情熱がみんなに感染していってるのも、いいことだと思うよ」


「俺は別にそういうつもりじゃ……」


「だから、いいんだろ。それが、いいんだろ」




 翔太はそれからずっと考えていた。男前ギター氏に言われたことを。




 確かに自分はブラバンが好きで、ただそれだけでやってるのだけれども、それが他人に感染するなんて考えもしなかった。今まさに感染しているなんてことも。




 それについて斉藤や持田に聞いてみたいような気もしたけれど、恥ずかしくて口には出せなかった。




 月曜の教室でみんなにブラバンの活躍について聞かれたり、ひやかされたりしたが、四人はそれぞれちょっと誇らしいような気持ちになっていた。




 一日中、授業が変わって教科担任が現れるごとに「ブラバン、野球部の応援すごかったんだってな」と言われるごとに新たに笑われたり、褒められたりして話題は尽きることがなかった。




 翔太はブラバンの存在が全校に知れ渡ったことと、合奏の達成感で満ち足りていた。




 すっかりブラバンの体裁ができあがった翔太たちは放課後にまた再び楽譜を広げ、田口さんも、


「初めての合奏だったからしょうがないけど、お前ら、出来としては決してそんな褒められたもんじゃないんだからな」


 と、注意を与えた。




 楽譜を読み違えることの多い斉藤、符点四分音符の拍数を間違う持田、焦るとリズムをキープできない常山。そして、周りに合わせる気のない翔太。




 翔太はそう言われるのが心外で、田口さんに反論した。




「俺、ちゃんと合わせようとしてますよ」


「いや、お前は自分がそこそこ吹けると思ってるからな」


「……」


「だからリズムキープできて、譜面通りに吹けるんだろうけど。でもそれじゃこいつらと合わないだろ。下手な奴にも合わせないと、合奏として成り立たないだろ」




 田口さんの言ってることにも一理あると思った。が、それでは自分のレベルを下げることになるし、完成度を高めることもできない。本来なら、下手な奴が努力して自分よりレベルの高い奴に食いついていかなくちゃいけないはずなのに。なぜ自分がわざわざレベルを落とさなくてはいけないのか。翔太はむすっと口を尖らせた。




 田口さんは翔太の考えていることが分かったのだろう。




「自惚れんなよ。お前より上手い奴いっぱいいるだろ」


「分ってますよ、そんなこと」


「だったら、自分は素人とは違うみたいに考えんのやめろ。だいたいお前がこいつら誘ったんだろ。お前の自己満足の為にこいつらがいるわけじゃない。不満ならちゃんと教えてやれよ」


「……」




 斉藤も持田も無言で二人のやりとりを聞いていた。




「ごめんね、足引っ張ってて……」


 常山が呟いた。




「いや! ツネちゃんは気にしなくていいよ! まだ入ったばっかなんだから。よくできてたよ」


「……翔太、俺らにもそれ言えよ……」


 斉藤が呟いた。




 部室に夕方の熱気がこもり、皆、汗をかいていた。




 意外なことに大島も来ていて、まだ幾分不機嫌な顔をしていたものの、顧問の役割を果たすべく地道な基礎練習が始まった。




 もはやこの音、この光景が放課後の名物になりつつあった。時折聞こえてくるグラウンドからの声々。ボールの音。部活の音。その中に混じるブラバン。




 しばらく揃って練習していると、ドアがどんどんと叩かれ、ほとんど叩くと同時にドアが勢いよく開いた。




「平井、お前のノックはマジで意味がないな」


「え、なんで」


「叩くと共にもうドア開けてんじゃん」




 田口さんの言う通り、なんのためらいもなく平井は部室にあがりこんできた。




「すごかったな~、野球部の応援」




 一同は練習する手を止めた。大島は憮然とした表情で黙っていた。




「活動予定、ちゃんとこなしてんだろ」


「だよなあ。お前らほんとすごいよ」


「なんか用」




 平井は空いていた椅子に腰を下ろすと、尻ポケットに差していた扇子を抜いてぱたぱたと自分に風を送った。




「ぐっちゃん、バンドのメンバーまで集めてさあ」


「……別に俺は知らないよ。あいつらも野球部の応援に来たんだろ?」


「ははー。楽器持って?」


「バンドマンだから、練習でもあったんじゃないの」




 田口さんが悪びれもせず言うと、大島はそれを戒めるようにごほんと咳ばらいをひとつして、


「別にブラバンがああいうことを仕組んだわけじゃなくて、父兄との合同で応援したってだけだからな」


 と、言い訳をした。その横で田口さんはやっぱりにやにや笑っていた。




「まあいいわ。でもコンクールでその手は通じないよな」




 平井は手にしていた扇子で大島と田口さんにひらひらと風を送りながら言った。




 すると、田口さんは平井の言葉をのらくら聞き流していたのが、急に真面目な顔つきになり、


「なに、コンクールって」


「なにって。コンクールだよ、秋にあるんだろ。活動予定に書いてあったじゃん」


 平井の言葉を受けて、全員が一斉に翔太を見た。




「お前……」




 大島が顎然とした様相で喘いだ。




 持田も田口さんも「こいつ、やりやがった……」という怒りともなんともつかない顔で翔太を睨み、斉藤と常山は口をぽかんと開けていた。




 翔太はまずい空気を感じてはいたものの、開き直るよりないなと判断するや、


「いや、それはだから、初めに予定してたことだから」


 と殊更に明るく一同を見渡した。




 大島が信じられないという顔で、


「お前、もしかして申込とかもう……?」


 ほとんど祈るような気持ちで翔太の顔を覗き込んだ。




 翔太は頭をぽりぽりとかき、言いわけのように口の中でもごもごと呟いた。




「だって締切があるから……」


「この人数で出るんか!」


 叫んだのは田口さんだった。




「だから、ほら、小人数編成部門の自由曲で」


「翔太!!」




 確かにこの人数と今の実力ではコンクールに出るなんて発想自体がどうかしているというのも分かっていた。しかし、せっかく火のついたブラバンをここでなんの目的もない、ただあてもなく地道な練習だけを繰り返すものにしてしまったら……。




 翔太には自信がなかったのだ。斉藤や持田、常山がこのままずっと、有態に言えば高校三年間の放課後をブラバンに費やしてくれるかどうかということが。




 何らかの目標がなければ。なんでもいい。目に見えて、確かだと思えるものがなければ、続けて行くことはできない。実際、野球部の応援だって無謀だとは思ったものの、そこへ向けて練習することでど


うにかこうにか形だけはついたではないか。それならばコンクールだって同じこと。そこへ向けてひたすら練習すれば不可能なことではないはずだ。




「そんな深く考えなくてもいいじゃないですか。とりあえず出るだけ出てみましょうよ。思い出作りと思って! ね!」




 それぞれの様子を見守っていた平井はぱちんと扇子を閉じると、立ち上がった。




「とにかくさ、生徒会の会議でコンクールの参加費はもう会計通ったから。お前ら、金だけ出させてコンクール出ないなんてのはありえないからな」


「会計通った?」


「ああ、もう、ちゃーんと金払ってあるから」




 大島はますます信じられないという顔で翔太を睨むと、


「お前、申し込みを勝手に……」


「いや、勝手じゃないっす」


「俺がしてないのに、じゃあ、誰がしたって言うんだ!」


「副顧問っす」


「え?!」


 大島と田口さんが同時に声をあげた。二人は顔を見合わせた。




 訳が分からないのは持田たちで、


「副顧問って、誰?」


 と翔太の顔を見た。




 翔太はすまなさそうに苦笑いを浮かべ、うーんと唸った。言っていいのか、どうなのか翔太は迷っていた。




 しかしその迷いをぶっちぎったのは平井だった。


「校長だよ。な、大島先生」


「ええ?!」


 次に叫んだのは一年生三人だった。




「……生徒会長か」


「……」


「あいつの入れ知恵か」


 翔太は答えなかった。




 平井はにやにや笑いながら、


「ま、とにかくそういうことだから。コンクール、交通費も出るから。心おきなく練習してよ。生徒会からは、以上。報告な」


 そう言い残して部室を出て行った。




「どーも、おつかれさまっしたー」




 翔太は平井の背中にぴょこっと頭を下げた。




 それから振り向くと田口さんも大島も怒りを通り越してすっかり憔悴した様相で、目がうつろになっていた。




 ……ちょっと強引だったな。翔太は独断で決行したこの計画を初めて後悔した。でも、相談するような余地はなかったのだから、仕方がない。大島にしろ、田口さんにしろ色んな理由をつけてコンクールに出るなんてことは面倒がって「また来年にしろよ」とかなんとか言うのは目に見えていたから。




 もう後には引けない。翔太はおもむろに自分の鞄から一通の封書を取り出した。




「えー、それじゃ、発表しまっす。全国高校吹奏楽部コンクール、地区予選は夏休み明けてすぐありまーす。夏休み中は猛練習っすね」




 封書にはコンクールの日程と会場が書かれていた。翔太はそれを大島に差し出した。




 夏休みに部活などやるつもりの毛頭なかった田口さんをはじめ、何も知らなかった部員一同は完全に言葉を失っていた。窓の外では彼らの代わりに蝉の鳴き声が合奏を始めていた。

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