第28話

その日はよく晴れて、朝から猛烈な暑さだった。


 全国で高校野球の地区予選はとうに始まっており、翔太たちの高校も無論トーナメント戦に予定が組まれていた。




 無関心な生徒が多いので誰も野球部の活躍に注意など払っていなかったが、今年野球部は三回戦までやってきていた。それは野球部始まって以来の快挙でもあった。なにせこれまで初戦敗退だったのだから。




 翔太たちはその三回戦の日、朝から楽器を携えて市民球場へやってきた。楽器だけでなく譜面立てなども担いできたので荷物は重く、もう全身に汗が滲んでいた。




 気の毒なのは大島で、今から野球部顧問からなんと言われるかが想像できるだけに二日酔いより悲惨な重い顔つきで、それでも薄いブルーのシャツにネクタイだけはきちんと締めて球場へ現れた。




 球場といってもフェンスの向こうにわずかに観覧席があるにグラウンドにすぎないが、相手校の父兄や応援らしき生徒たちがもうベンチを埋め始めていた。中でも一際大きくスペースを陣取っているブラバンを見た瞬間、大島は逃げ出したい気持ちでいっぱいで、二度と彼らを直視することができなかった。




「おい、見ろよ。めっちゃ女子多い」




 持田が珍しいものを見るように言った。




「いや、普通、ブラバンって女子の方が多いから」


 翔太は中学で経験しているので持田と違って懐かしいような気がしていた。


「準備しようか」




 翔太は大島が何を考えているのかちらと顔を見ただけでもう丸わかりで、気の毒なようでもあり、同時にだからこそせめてちょっとはまともに演奏しないといけないと自らを奮い立たせようとしていた。




 分かっていたことだけれども、目の当たりにするとやはりダメージがある。相手校のブラバンの人数の多さ、立派さ。それに比べて、自分たちの貧層なことといったら。




「まあ、気楽にやろうよ。気楽に。俺らの人数が少ないのは今に始まったことじゃないんだから。今、やれることをやろう」




 翔太は今からもう緊張している斉藤に声をかけた。斉藤はだらだらと流れる汗を拭い、無言で頷いた。




「ツネちゃん、重かったろ。大丈夫? 今日も暑そうだから、熱中症に気をつけてな。飲み物、持ってきた?」


「大丈夫」




 常山はプレッシャーを感じないのか、涼しい顔で答えると鞄から譜面立てを出してセットし始めた。




 相手校のブラバンはもちろん、ベンチからも翔太はすでに好奇の視線をひしひしと感じていた。いや、視線だけではない、彼らのひそひそ声もまとまった数になるともはや「ひそひそ」ではなく、割と大きな音でしっかりと耳に届き、明らかに笑いを伴っているのも聞き取っていた。




 そりゃそうだろうな。翔太は彼らが「あれ、なに? ブラバン?」とか「ブラバンあるんだ!」とか「えー、四人しかいないじゃん」と言うのに対し、ええ、もう、見ての通りですよと心の中で返していた。




 そう四人。まだ田口さんが球場に姿を表わしていなかった。




「田口さん遅いな」




 最初に口にしたのは持田だった。もう準備はできて、一応チューニングと軽く音出しをして、今は野球部がベンチで準備するのを眺めているだけだった。




「まさか来ないってことは……」




「そんなわけないだろ。お前、誰に指導してもらったんだよ。大島じゃなくて、田口さんだろ」


「でも、ちょっと、遅くないか?」


「電話してみろよ」


「電話? 番号知らないよ」


「俺だって知らないよ」


 翔太と持田は思わず顔を見合わせた。




「センセー」


「……なに」


「田口さん、まだっすかね」


「もう来るだろ」


「ちょっと連絡してみてくださいよ」




 大島は絶望というベールに覆われてどんよりした顔で無言で携帯電話を取り出した。が、すぐに「出ないわ」と言うとまた暗い顔で黙りこんでしまった。




「もう始まるよ」




 大島の絶望が感染したのか、いつになく斉藤が血の気を失った顔で訴えた。




「おいおい、斉藤、お前顔色悪いぞ」


「……田口さんは……」


「大丈夫だって。寝坊してんじゃないの。もう来るだろ」


「けど、田口さんいないと……」


「だから大丈夫だってば。一回からいきなりぷかぷかどんどんやる必要ないんだから。ここぞって時にやればいいんだよ。そんな深く考えるなって」




 斉藤はとてもそんな言葉を信じる気持にはなれないらしく、ベンチによろよろと腰をおろした。




 翔太たちは両校の野球部が整列し、互いに帽子をとって頭を下げあってから守備に散っていくのを無言で見守っていた。




 相手校と違って翔太たちの学校の応援は少なく、試合を見に来ているのはわずかな父兄だけで、生徒の姿は一人もなかった。翔太は野球部が応援に来てほしい理由がなんとなく分かるような気がした。




 それは別にブラバンじゃなくてもよかったのだ。誰も野球部になど目もくれないのは寂しいものがある。「出れば、負け」と言われてきた野球部が今年初の快挙を見せているだけに、尚更だ。




 考えてみれば、翔太たちのクラブハウスから見る限り一番部員が多くて練習熱心なのは野球部だ。野球人気というのは根強いんだなぐらいにしか思っていなかったけれど、彼らと翔太は実は何一つ変わらないのだ。彼らは野球を、翔太はブラバンを、ただ好きで、ただそれだけで、懸命にやっている。報われない努力であっても、人知れぬものであっても、好きというだけで。その姿を誰かに知ってもらいたい、認めてもらいたい。もし彼らがそう思ったとして、それは当然のことではないだろうか。




 県下きっての不良校と言われ、周辺住民から忌み嫌われ、男ばかりでむさくるしくて、まるでモテないとしても、馬鹿げた情熱は誰にも否定できない。




 翔太は一回の表、早速相手校のブラバンの応援が始まるのを見ながら、やっぱり人数がいると違うな、と思った。俄か仕込みの自分たちと違って練習してるな、と。でも「気持ち」では負けはしない。




 翔太たちの学校の攻撃になっても田口さんはまだ姿を見せていなかった。




 グラウンドの砂は熱く焼けて、遠くに陽炎がたつような熱気の中、翔太たちは終始無言で試合を眺めていた。野球部に倣って声援を送ることもせずに、静かに。




 不安で青い顔をしている斉藤も、絶望的な大島ももはや「田口さん、まだかな」とは言わなかった。言ったところで待つより他になかったし、待つことはほとんど祈りのようでもあった。




 相手校の視線が冷たく「お前ら、なにしに来てんの」と言わんばかりに突き刺さる。ひそひそ囁く声も「なんで演奏しないの?」「できないんじゃないの?」「え? なんちゃってブラバン?」と女の子たちの笑い混じりに届く。




 いたたまれない気持ちだったが、しかし、翔太たちは田口さんが来ないなどとは思っていなかった。信じていた。いや、もっぱら信じていたのは翔太だったが、翔太の暑苦しい性質がいつの間にやら全員に感染していて、だからいつもなら一番に何か言いそうな持田さえも黙って試合を見つめるだけだった。




 試合はもう五回の表まで進んでいた。


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