第26話

それから一週間の翔太は持田たちがどうしてみることもできないほど目に見えて落ち込んでいた。




 事の経緯を聞きだした持田は思わず「お前、あほか」と喝を入れそうになったが、翔太の落ち込み具合が激しいのでさすがにそれはやめにした。




 斉藤も翔太を元気づけようと部活の後は毎日のようにラーメンだの牛丼だのに誘った。




 常山は引き続き学校を休んでいた。




 学校に来る意味とか理由なんて、本当に答えられる奴はいるのだろうか。義務教育ではないのだ。ここは自分たちの意思で来るところだ。とはいっても、高校卒業なんて学歴は今どき「標準装備」で、親も子も行くことになんの疑問も感じないし、むしろ行かないなんて選択肢は存在しないだろう。その中にあって常山が意味を求めるのなら、その選択自体に意味があるように思える。




 翔太はどんな理由であれ常山がもう自分の生き方を決めているのだとしたら、それは絶対に太刀打ちできない遠い次元のことなのだと思わざるを得なかった。




 一人で生きて行くということは翔太には想像ができない。なぜなら一人では何もできないからだ。常山と比較しても始まらないが、ブラバンがそうだ。ブラバンは一人ではどうにもできない。仮に大勢メンバーがいたとしても、一人の力でできることなど何もない。といって、それではその「一人」の力が意味のない、不要なものなのかというとそうではない。一人一人の集合体なのだから。そうして初めて「何か」できるのだ。翔太は常山と違って「一人では生きていけない」だろう自分をすでに知っていような気がした。




 翔太の落ち込みぶりはさすがの田口さんも冷たい態度をとることはできず、野球部の応援に行くという目の前の大きな課題に向けて対策を練ってくると、翔太を鼓舞するように楽譜を渡し、


「とにかくやるしかないんだから。しっかりしろよ。俺とお前が頑張らないと、曲にならないぞ」


 と発破をかけた。




 放課後の部室で田口さんは楽譜だけでなく、音源も用意し、小さなポータブルスピーカーも持参して楽譜の読めない斉藤たちに「お前らはとにかく耳で覚えろ」と言い、ひたすら曲を聴かせた。




 田口さんが選んだのは高校野球の応援曲の定番の中から、とりわけ馴染みのある曲ばかりだった。「ウィー・ウィル・ロック・ユー」や「ルパン三世のテーマ」「ねらいうち」などで、楽譜も田口さんがどうにか四人で成り立つように工夫していた。


 正直なところ、なんで俺がこんなことを……と思わないでもなかったが、翔太の様子を見ると仕方がないというのを通り越して、やらなきゃいけないという気にさせられた。




 こんなこと誰に想像できただろう。ろくに学校にも来ていなかったのに、今では毎日登校して部活に出て、部長として、先輩としての役割を果たしている。ブラバンなんて勝手にやってろと思っていたのに。それがこのザマだ。翔太は自分を再び学校に引き戻したのが、ここまでやらされることになるとは。でも、不思議なのはそれが不愉快ではないことだった。




 そして、この成り行きをにやにや笑って見ている人物がいた。そう、顧問の大島。大島にしてみれば問題児と成り果てていた友人でもあるところの「ぐっちゃん」が学校にまたまともに来るようになり、ブラバンの面倒まで見てくれるようになったのは自分の手柄ではないにしても、喜ばしいことだった。


 大島とて心配していたのだ。あのまま学校を辞めてしまっては「ぐっちゃん」の行く末はろくでもないということが目に見えていたから。




 相変わらず家庭環境は劣悪だし、バンド活動の為にバイトもしていて、弟の世話もして、苦労ばかりだけれども、少なくとも学校で見る「ぐっちゃん」は普通の高校生だった。それが彼にとってどれほど大切なことか。まがりなりにも教師である大島は翔太に感謝したい気持ちだった。




 他方、生徒が変われば、大島も変わらざるをえなかった。




 面倒な部活の顧問なんてまるでやる気がなかったのに、翔太が入部し、部員が増え、まだ屁みたいな音ばかり出しているとはいえ校内でも目立って活動するようになり、挙句の果てに野球部の応援に行くなんて。こんな厄介な、一円にもならない仕事、本当にやりたくない。でも、生徒がやるというのなら無視することはできない。




 然して、ブラバンはやる気を出した顧問を迎えて、ますます練習に熱が入るようになっていた。




 とにかく下手でもいいからレパートリーを増やさないと。それが田口さんの方針だった。野球部の試合中、えんえんと演奏し続けるのにはどうしたってレパートリーがないと。しかしそれには四人では限界があるのも事実だった。




「おーちゃん、これさ、助っ人呼ぶとかってのは駄目なんかなあ」


 ある時田口さんがぼそっと呟いた。




「なに、助っ人って」


「だって、俺ら圧倒的に不利じゃん? 四人しかいないんだから。他の学校ってブラバン人数いるし、リズム隊もいるじゃん。それを四人じゃなあ」


「助っ人って言ってもギリギリ俺が参加できるぐらいだろ」


「だよねー……」




 田口さんと大島がため息をこぼしている間も、一年生三人組は真面目に曲を聞きながら練習していた。どうにかメロディは覚えて、大島からも指導されながら、少しずつではあるが三人の出す音は形にはなり始めていたものの、それでも人数の少なさと厚みのなさは物寂しさを隠しきれなかった。




 下手であるのは今はどうすることもできない。そもそもまともな演奏ができるわけがないのだから。野球部はこんな未完成どころかスタート地点に立ったばかりみたいな四人の演奏に納得するだろうか。応援なんてしない方がまだ士気があがるのではないだろうか。田口さんは内心そう思っていた。




 一週、二週と日々は過ぎ去り、ブラバンの練習は毎日行われ、そして常山はやはり学校には姿を見せなかった。




 教室ではもともと影の薄かった常山なだけに、空席もすでに初めからそうであったかのような存在感のなさで、翔太は誰もが常山を忘れて行ってしまうのが物悲しかった。




 野球部の試合まであと二週間。翔太は机に片頬をつけてぼんやりと教室内のざわめきを聞いていた。


 石井とやりあった定性分析の実習も終わり、レポートの提出の期限は目前だった。




 翔太は停学で授業に出なかったりした分、それを補うためにも高い評価を得られるようなレポートを書く必要があったが、今はそんな気持ちにもなれなかった。




 やる気というのがまるで出ない。それは何も勉強だけでなく、ブラバンにしても、そうだった。情熱を傾けることが当たり前で何の疑問も感じなかったのに、翔太は常山が考えている「一人で生きて行く」ということに思いがけなく自分のアイデンティティが揺らぐような気がして、落ち込む自分を止めることができなかった。




 人は皆、一人だ。そういう真理のようなものは翔太にも朧げに理解できる。けれど一人で何ができるのか、それが分からない。




 持田はしなびたようにぐったりと机に頭をのせている翔太を持て余し、自分の提出するレポートに名前を書き込みながら、


「翔太、レポートできてんのか。お前、真面目にやんないとまずいだろ」


「ふん」


 翔太は鼻先で気のない返事をするばかりで、起き上がろうとしない。




「写させてやろうか?」




 そう続けた持田はやはり「ふん」と鼻先で返す翔太に、「駄目だ、こりゃ」とばかりに呆れたように斉藤に頭を振って見せた。




 朝のおやつのジャムパンを齧っていた斉藤も、翔太の気分を盛り上げようと、


「野球部の応援って、あれだよな、同じ曲何回やってもいいんだよな。そう考えたら案外いけそうだよな」


 と、鞄からファイルに綴じた楽譜を取り出してぱらぱら捲った。しかし、それでも翔太は「ふん」と気のない返事をするだけだった。




「翔太、お前さあ、ほんと大丈夫か」




 持田が業を煮やして溜息まじりに言った。




「お前、おかしいよ。なにそんな落ち込んでんだよ。あのなあ、キツい言い方かもしれないけど、辞めるって言う奴を止めるなんてできないだろ。だいたいツネちゃん、ここに来たのが間違いだったんだよ」


「よせよ」




 斉藤が持田を制した。




「間違いってなんだよ」




 それまで腑抜けていた翔太が急に体を起こした。




「ここじゃなきゃツネちゃんはどこに行けばよかったんだよ」


「そんなこと知らねえよ。でも、少なくともここじゃない方がよかったって話ししてんだろ」


「そんなこと、なんでお前が言うんだよ」


「なに怒ってんだよ。だって本当のことだろ。ツネ、頭いいじゃん。もっと普通の、進学校とか行ってればよかったんじゃん」


「そんでも来ちゃったんだからしょうがないだろ」


「だから。だから辞めるのはある意味正解なんじゃないのかって言ってんの」


「もっちー、冷たいよな」


 翔太はぷいと顔を背けた。




 持田と言い争ったところで何にもならないのは分かっているが、このやるせない気持ちを誰かにぶつけたかった。持田もそれが分かっていて、わざと翔太に気持ちを吐きださせようとしていた。




「ここに居場所がないんだから、辞めた方がいいんじゃないの」


「居場所がないなんてことはないだろ」


「おい、よせよ」




 斉藤が食べ終わったジャムパンの袋をぐしゃっと握りつぶし、二人の間に割って入った。




「自分の居場所がどこかなんて、そんなのツネちゃんが決めることだろ。お前らが揉めてもしょうがないだろうが」




 その時だった。予鈴が鳴ると共に、教室の前の扉から常山がすうっと音もなく静かに入って来ると、「あっ」と思わず声をあげた翔太たち三人には目もくれずすんなりと自分の席についた。




「ツネちゃん!」




 翔太は叫んだ。教室中の視線が常山に注がれていた。が、翔太はそんなことはおかまいなしに抱きつかんばかりの勢いで、


「辞めるのやめたんだ?!」


「辞めるのやめるって、なに言ってんだ翔太」


 持田は翔太がまた何を言い出すか分からなくて、さりげなく笑いながら翔太を牽制しようとした。




 しかしそんな持田の心配をよそに、翔太は飼い主を迎えて喜びのあまりちぎれんばかりに尻尾を振る犬のように、嬉しそうな顔で常山を見つめていた。




 こんな素直に輝く目をかつて見たことがあっただろうか。常山は自分へと身を乗り出してくる翔太を、体をねじって振り向いた。




「藤井くん」




 常山は我知らず微笑みながら、翔太に呼びかけた。




 驚いたのは翔太だけではなかった。持田も斉藤も、恐らくはその声が聞こえたであろう周囲の生徒も誰もが初めて聞く常山の凛とした力強い声に驚き、釘づけになっていた。




 あの、いつも怯えていた常山が、しっかりと頭をあげ、まっすぐに翔太を見つめていた。




「藤井くん、ごめんね」


「え」


「僕は、自分が傷つくのが嫌で、怖くて、だから自分のことしか考えてなかった。自分を守る為に人を傷つけてるとは考えもしなかった」


「……」


「だから。ごめん。この前、藤井くんが言ったこと、ずっと考えてたんだ」


「ツネちゃん……」




 翔太はもう感極まって目が潤んでくるのを、とても止められることができそうになかった。




「一人で生きて行くのは難しい。確かに僕はもう藤井くんに出会ってるもんね。藤井くんの気持ちなんて考えてもみなかった」


「いや、俺の気持ちなんて、そんな……。俺が勝手に思い込んでただけだから」


 常山は静かに首を振った。




「藤井くんが僕を友達だと思ってくれてたなんて、想像もしなかったから」


 常山の言葉に斉藤と持田が思わず声をあげた。




「そんなこと言ったのか! 翔太!」


「お前、馬鹿か! 恥ずかしい奴だな! ツネちゃん、こいつの言うこと気にしなくていいよ! ほんと、暑苦しい奴だな、お前は!」


「……なぜ、お前らがツッコミを……」




 ぼそっと呟く翔太の頭を持田がぱしっと叩いた。


「友達とか、そういう言葉をわざわざ言うお前のセンスが恥ずかしいんだよ。そんなことよく口に出せるな」


「だって……」




 叱られたようにしゅんとする翔太に、常山はふっと笑いかけた。それは大人びていて、優しい微笑だった。横で見ていた持田は、これが常山の本当の姿なんだなと瞬時に悟った。




 常山にはいじめもからかいも子供じみてくだらないから相手にしないだけで、だから、学校なんて場所にも本当は用がないのだ。一体、常山には自分たちも含めて学校の連中がどんな風に見えているのだろう。翔太の暑苦しさが恥ずかしかったのと同様に、持田はその仲間である自分自身までもが猛烈に恥ずかしく思えて、耳たぶが熱くなるのを感じていた。




「いいんだ。藤井くんが僕を友達だと思ってくれるなら、それは、たぶんそうなんだ。だったら、僕も藤井くんを友達だと思っていい……んだよね?」




 常山のはにかんだような笑顔に、いよいよ翔太の涙腺は崩壊し涙が零れおちてしまった。翔太はいきなり常山の手をとりがっちりと握りしめた。




「ありがとう! ツネちゃん! ありがとう!」




 その勢いに常山は気圧されたようだったが、すぐに「うんうん」と頷き、翔太の腕のあたりをぽんぽんと二度ほど叩いた。




「泣いてどうする。恥ずかしいな」




 持田が呆れながら呟いた。




 学校に来る意味とかいうものがあるのだとしたら、それは自分で見出すものなのだと翔太が教えてくれたのだ。翔太は知らないだろう。常山が翔太の言葉に人知れず心打たれ、感動していたことを。持田はそれを「馬鹿だ」とか「暑苦しい」と言うだろうけれど、その馬鹿さ加減と熱意でもって人に対することができるなんて、誰にでもできることではない。常山は翔太をまれに見る存在だと思っていた。




「ツネちゃん! そうだ! ブラバン入りなよ!」


「翔太!!」




 持田が翔太のシャツを引っ張った。常山は笑って、


「でも楽器できないんだけど」


「大丈夫! もっちーも斉藤も初心者! みんなで練習すればできるようになるし、楽しいよ」


「みんなで、か」


「そう! みんなで!」


 みんなというほどの人数では、ない。たったの四人。常山が入っても五人。




 この情熱はどこから湧いてくるのだろう。こんな風に人に対する好意をあからさまにして、にこにこ笑って、みんなでやれば楽しいと言う。どうしたらそんな風に楽天的に考えられるのだろう。常山は翔太といると大袈裟かもしれないが人生というものは苦しいだけではなくて、ちょっとは面白いこともあるのかなと思えるような気がし始めていた。




 始業のチャイムが鳴った。皆、ばたばたと自分の席へ着席し、廊下に溢れていた賑やかな声もしんと静まった。今日も一日が始まる。学校での長い一日が。




 常山は言った。




「僕にできる楽器って、なにかな」




 翔太は満面の笑みを浮かべ、常山の相変わらずもっさりと額を覆う髪をぐしゃぐしゃとかきまわした。


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