第25話
家の中に招じいれられた翔太は広々とした三和土にも、よく磨きこまれた長い廊下にも驚きを隠せなかった。
庭に面した廊下のガラス障子越しから見えるのは、テレビの旅番組で見るような見事な日本庭園だったし、廊下を鍵の手に曲がっていくとその先に家とはまた別な一棟が立っているのにもまた度肝を抜かれた。
翔太は床の間のあるような座敷に通され、机を挟んで常山と向かい合うと、
「ツネちゃん、あの、向こうにある建物。あれなに? 二世帯住宅かなんか?」
「……あれは、道場」
「道場?」
「うち、合気道教えてるから……」
「えーっ! そうなの? じゃあ、ツネちゃんもやってんの?」
「……」
常山は小首を傾げるようにして曖昧に苦笑いを浮かべた。翔太は常山の包帯をした手に目を留めた。
「ツネちゃん、手、大丈夫? なんか、俺、しゃしゃり出ちゃって……ごめんな。本当にごめん」
翔太は机におでこをぶつけんばかりに頭を下げた。驚いたのは常山だった。もしかしてこの人は本当に自分に詫びに来たのだろうか。そんなことがあるのだろうか。
さきほど奥へ引き取って行った母親が二人にお茶を運んできた。
「まあ、なんですか、ご心配頂いたようですみません」
上品な茶碗に煎茶が入れられ、小皿には上生菓子が乗っていた。
「サボってないで早く学校行くようにって言ってるんですけどねえ」
母親はおっとりした口調で翔太に微笑んだ。すると常山がとても学校での姿からは想像できないようなぶっきらぼうな口調で「余計なこと言わないで、あっち行っててよ」と言った。
それは普通の、翔太たちと何も変わらない、反抗期の少年の声だった。翔太は信じられないといった風に目を丸くさせた。そんな声、そんな風に。別人じゃないか。別人であり、自分たちと同じじゃないか。
母親が座敷を出て行くと、翔太は俄然張り切って机に身を乗り出した。
「そうだよ、ツネちゃん。学校来なよ。俺が言うのもなんだけどさ、あんま休むと単位やばくなるよ。まあ、ツネちゃん頭いいから、限界まで休んでもダブりはしないだろうけど」
「……」
「あのな、石井のことならもう心配しなくていいから。あいつ、頭丸刈りにされてすっかりおとなしくなってるから。万一あいつがまたツネちゃんに難癖つけてきたら、今度こそ俺絶対許さないし」
「……」
「ツネちゃん?」
黙って翔太の言葉を聞いていた常山は静かにお茶を一口啜ると、ふっと唇の端で笑った。
翔太はその微笑が常山が心を開こうとしてくれているものと思い、斉藤や持田にするようにいきなり机越しに腕を伸ばして常山の細い肩をばーんと横から叩いた。
「マジで、なーんも心配しなくていいんだからさあ!」
翔太はそのまま後ろ手に手をついて頭を逸らし「わはは」と朗らかに笑った。……いや、笑おうとして、常山の言葉にぎくりと固まってしまった。
「僕、学校辞めようと思ってるから」
「……え……」
翔太は常山の強い視線に射すくめられる格好で、言葉を失った。
常山はもう一度、繰り返した。
「学校、辞めようと思ってる」
「……な、なんで……」
石井のせいか? 翔太はそう言葉を継ごうとした。が、それより早く常山はまるで翔太を労るように言った。
「石井君のせいじゃないよ。僕には……学校に行く意味も理由もないから」
「なにそれ……どういうこと」
「藤井君、僕はね……人と関わりたくないんだ」
「……」
「誰とも関わらなければ、付き合わなければ……、あらかじめ何も持っていなければ、失うことはないから」
「そんな後ろ向きな……」
翔太は笑いに紛らせてしまいたかった。学校を辞めるとか、誰とも関わりたくないとかいうのが彼の中ですでに決定していることらしくて、常山の堅固な表情が怖かった。
翔太には常山を思いとどまらせることができるとは到底思えなかった。
学校へ行く意味も、人と付き合う意味も、「なぜ」とか「何の為に」と言われて答えられるほど翔太には能がなかった。だって、考えたこともないのだから。それは当たり前の営みであって、意味など問うたこともないのだから。そんな翔太に何が言えるというのだろう。
気落ちする翔太に常山はますます優しく言った。
「一人でいたいんだ」
「……一人で」
翔太はオウム返しに呟く。
「藤井君には迷惑かけて悪かったと思ってる。本当にごめん」
「……」
翔太は無言で視線を庭に向けた。百合がすうっと丈高く伸びていくつも花を咲かせているのが目に入った。凛とした佇まいと気高い白。ああ、あの形、ラッパだよな。翔太はそんなことを思った。
翔太の胸は悲しさでいっぱいだった。誰とも関わらずに一人でいたいという常山が悲しくてたまらなかった。もし常山が友人を失うことなく、くだらないいじめにもあわずに、自分達と同じように普通の平凡な生活を送ってきていたならそんな結論には至らないはずだと思った。もちろん過去は消せない。常山の経験してきた悲しさが癒えることはないのかもしれない。でも、もしかしたら、この先記憶を塗り替えるチャンスだってあるかもしれないじゃないか。その機会を全部捨ててしまうのか。一生。
翔太は常山に視線を戻し、居ずまいを正した。
「あのな、俺、迷惑とか思ったこといっぺんもないから。石井のアホ、あれを見て見ぬふりとか俺は絶対できないから。それだけのこと」
「……」
「確かに一人で生きてくってのもいっそ潔いのかもしれない。でも、もうツネちゃんは出会っちゃってるだろ。俺とか、持田とか斉藤にも。ツネちゃんが誰とも関わりたくないって思うのは自由だけど、そうやって一方的に切り捨てられる俺らにしたら……たまんないよ」
「……」
「はじめから何も持ってなかったら、確かに何も失わない。そりゃあ理屈はそうだよ。けど、今のツネちゃん、本当に何も持ってないって言えるんかな。ツネちゃんのこと見てる人、他にもいるじゃん。生徒会長とか。大島とか。それでもツネちゃんが一人がいいって言うならしょうがないけど……。それ止める権利俺にないし」
「……」
「俺、ツネちゃんと友達になったような気がしてたんだ。勝手に。ごめんな。なんか勘違いしてうちにまで押しかけてきちゃって。俺、ツネちゃんが誰とも喋んないのに、俺とはちょっと喋ってくれて嬉しかったし、おすすめの本とか教えてくれたじゃん。あれも、俺は嬉しかったんだよ」
「……藤井君」
翔太は自分で思う以上に、傷ついている自分を見出して、さっと立ち上がった。これ以上常山と対峙していると泣いてしまいそうで。まるで失恋したような気持ちでさえあった。
もうまともに常山の顔を見られなくて、翔太は顔をそむけながら、しかし声だけは明るく、
「ほんと、急にお邪魔しちゃって! ごめんな! 怪我、お大事に、な!」
さよならと言うべきなのだろうか。翔太は咽喉元までせりあがってくる熱い塊を無理に飲み下すとそれ以上言葉を発することができなかった。
そしてどたばたと逃げるように廊下を走り、靴をひっかけて玄関を飛び出して行った。
翔太は涙が滲んでくるのをなんとか堪えながら、来た道を走って帰った。もう自分が何をしているのかさっぱり分からなくなっていた。ただ言えるのは「悲しい」。それだけだった。
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