第15話

翌週の始め。翔太はいつもより早く家を出た。持田と斉藤はあれからずっと「やめとけ」と言い続けていたけれど、翔太は田口さんを諦めるつもりはなかった。だから一人で男前ギターに教えてもらった田口さんのうちへ向かっていた。


 朝なら弟を保育園に連れて行くから家にいると聞いたし、小さな子供の前ならさしもの田口さんもキレたり暴力をふるったりはしないだろうと踏んだからだった。


 それに、なにより田口さんを学校に連れて行くには「迎えに行く」よりないと思ったのだ。そういう強引な手段に出ないと到底会って貰えないと。


 翔太は教えられた団地へ自転車でやってくると、メモに書いた部屋番号を確かめた。それはライブを見に行った時よりも格段に勇気のいる、心臓が口から飛び出そうなほどの緊張と恐怖だった。


 自分がどれほど非常識でとんでもないかは理解していた。でも他にどうすればいいというのだろう。翔太は自分が口にした言葉を、図らずも自らを鼓舞するものにしていた。何もできないって、なんで決めつけるんすか。なんでやってみもしないで分かるんすか。胸の中で呟く。


 翔太の学校には母子家庭・父子家庭の生徒が多い。生徒の荒み方と家庭環境が一致する場合も少なくない。実際、翔太のクラスでもすでに問題を起こしそうな奴は親の離婚問題だの、親との関係で揉めたりだのしている。偏見ではない。これはただの統計だ。家庭に問題があってもいい奴はいくらでもいる。ただ、彼らが不貞腐れた心を持て余してしまう傾向にあるというだけなのだ。


 翔太は田口さんもそうなのだろうと想像していた。男前ギターの話だと、弟の食事の面倒を見てやったり、家事をしたりしているらしいし、家計を助けるためにバイトもしているという。そんな人が悪い人間なはずがない。でも、彼にだって心はある。それを音楽で癒しているのだとしたら。やはり「ブラバン」は彼にとって必要ではないだろうか。


 朝の公営団地の中庭には雀のさえずりが聞こえ、勝手に芝生をほじくり返して作った畑や花壇を老人たちのグループが手入れしていた。中庭を横切りながら「中庭及び敷地内を無断で占有することは禁止されています」という立て札に苦笑いが浮かんだ。

 翔太はコンクリのひんやりとした階段をゆっくりと上がって行った。


 部屋番号を確かめるとペンキの剥げかかったドアを見つめ、深呼吸をする。それからインターフォンを押した。


 やけに間延びする音が響く間、翔太は息を殺して室内の様子を窺っていた。


 漏れ聞こえてくるテレビの音、台所の音。話声。

 ばたばたと足音をさせ小さな男の子の声が「はーい」と叫んだかと思うと、いきなり勢いよくドアが開いた。


「誰ですかあ?」


 翔太はドアにぶつかりそうになるのをかろうじてよけると、三和土に裸足で立っている男の子を見下ろして、

「……おはよう。お兄ちゃん、いる?」

 と尋ねた。


 目の大きな可愛い顔をした子で、眉の上ですっぱりと切り揃えた前髪がコケシのようだった。


 今どきこんな髪型の子も珍しいな。昭和感がハンパない。翔太はチビがくるっと背中を向けて室内に向ってまた大きな声で「お兄ちゃん、誰か来たよう!」と叫びながら戻って行くのをじっと見つめていた。


「いいから、お前は早くごはん食べろってば。遅れるだろ」


 弟を叱りながら、テレビの音を背景に出てきた田口さんは玄関に立っている翔太を見るとたちまち絶句した。


 驚くのも無理はない。


「おはようございます」


 翔太はひょこっと首をすくめるように挨拶をした。しかし、驚いたのは翔太も同じだった。田口さんはなんと制服を着ているではないか。


「お前、なんで……」

 田口さんは喘ぐように言った。


「バンドのギターの人に教えて貰いました」

「イチローのやつ、余計なことを……」


 溜息まじりに舌打ちをすると、田口さんはドアノブを掴みドアを閉めようとした。


 が、翔太がそうはさせなかった。体をねじこむように玄関に足を踏み込み、ドアをがっちり押さえて、

「怒ることないじゃないっすか」

「帰れ」

「学校、一緒に行きましょうよ」

「馬鹿か、お前」

「楽器持って」

「ふざけんな」

 田口さんが力ずくでドアを閉めようとするのを翔太も必死で抵抗した。が、田口さんは決して大きな声は出さず、苛立ちを噛み潰すように押し殺した声で「ぶっとばされてえのか、この野郎」と脅し文句を囁いた。


「お兄ちゃん、それ誰?」


 二人の静かな攻防に入ってきたのは、弟だった。

 弟は後ろからちょこちょことやってきて、田口さんの脚に抱きつくようにぴたりとくっついた。


「お前、食べ終わったのか。皿はちゃんと流しに運んだか」

「うん」

「歯磨きは」

「した」

「本当か? 嘘言ってもすぐ分かるんだぞ」

「……」


 田口さんはドアを閉めようとする力を緩めず、弟の顔を覗き込んだ。


 この兄弟、似てないな。翔太は二人の顔を見比べて思った。


「あのねえ、俺ね、お兄ちゃんと同じ学校なんだよ。今日は一緒に学校行こうと思って誘いに来たんだよー」

「……お前っ……」


 田口さんは再び言葉を失った。それと同時にドアを閉めようとする力が抜けた。


 翔太はドアに挟まれる格好から脱すると、制服の胸をぱたぱたとはたいた。そしてじっとこちらを見上げている弟に笑いかけながら言った。


「部活の後輩なんだよ」

「ぶかつ?」

「そう。お兄ちゃん、サックスやってるだろ? あれ、学校で一緒に練習してんの」


 そう言うと弟は急に目を輝かせ、田口さんに向って、

「バンドの人?!」

 と尋ねた。


 田口さんは黙って弟の頭をぐりぐりとかき回し、言葉を探しているようだった。


 だから、翔太が代わりに答えて言った。

「そうだよ。ブラスバンドって言うんだよ」

 田口さんが翔太を睨みつけた。そしてしばし沈黙した後に、観念したように呟いた。


「歯磨きしてこい。早くしないと遅刻する」

 と、弟の背中を押し出した。


 弟は頷くとまた部屋の中へ駆け戻って行った。室内からは絶えずテレビの音が賑やかで、わずかにのぞき見る居間は朝日に溢れていた。


 翔太は玄関に乱雑に散らばった子供の靴や田口さんのエンジニアブーツと共に細い踵のハイヒールが転がっているのに視線を落としていた。


「……あのう」


 謝るべきなのだろう。たぶん。こんなやり方は。翔太は顔をあげた。しかし田口さんはもう怒るというより呆れた顔で、翔太を見つめていた。


「もう出るから、ちょっと待ってろ」


 田口さんはそう言って自分も室内へと戻り、まるで母親のように弟の世話を焼きながら鞄と、楽器ケースを持って出てきた。


 弟は保育園のバッグを斜めにかけ、しゃがみこんで自分の靴を履くと、室内を振り返りながら「いってきまあす」と叫んだ。翔太は前もって聞かされていた田口さんの家庭環境とやらを思い出し、できるだけ中を見ないようにドアから離れた。


 弟はもう廊下を駆け出していて、階段の下り口で踊るように足をじたばたさせていた。翔太は弟の方へ近づいて行くと、

「毎日お兄ちゃんが保育園に送ってくれるの?」

 と尋ねた。


「ううん、バスが来るとこまで」

「あ、そうなんだ」

「でも、時々遅刻するから。そしたら自転車で行く」

「ふうん」

「お兄ちゃん、バンド忙しいから、たまに朝寝坊するんだよ」

「あー、バンドがねえ」


 おしゃべりな性格なのか、尋ねもしないのに弟は無邪気に翔太に色々なことを喋った。その間も落ち着きなく手足をじたばたさせる。


「お兄ちゃんのバンドはー、イチローさんがいっぱい練習しないとダメって言うから。イチローさんがきびしいから」

「イチローさんって、もしかしてギターの人」

「ううん、リーダーの人」


 二人の背後で重いドアが閉まる音がし、田口さんが鍵をかけながら「ギターの人だろ」と訂正した。


「リーダーで、ギターだろ」

「あー、そうだったー」

「ほら、行くぞ」


 田口さんは楽器ケースを片手に、もう片方の手で弟の手をとった。


 翔太は二人が手を繋いで階段を降りて行く後からゆっくりとついて行った。


 弟は楽しそうに兄に話しかけ、兄はすぐに脱線して飛んで行ってしまいそうになる弟を引っ張りながら、どんどん先へと進んでいく。


 翔太は田口さんが想像以上に面倒見がよく、優しいのに驚いていた。ここまでとは思わなかった。確かにこんなにちゃんと弟の世話していれば、自分のことにかまう余裕がないのも無理はない。


 男前ギターは田口さんを学校に戻したいと言っていたけれども、それがこの人にとって、または弟にとって本当に良いことなのだろうか。翔太は不意に自信がなくなってきた。


 家庭のことなんだし、何も知らない自分が介入するなんて、本当にしていいことなんだろうか。学校に来るも来ないも本人の事情あってのことだし。


 そう思う反面、翔太は「チャンス」という言葉が思い出されていた。確かに、学校を辞めてしまうともう高校生活に戻るチャンスはないかもしれない。今こんな風に無理やり学校に引き戻してもまた来なくなるかもしれないし、二度目の留年がない以上次は退学になる。そうしたらますます田口さんの人生は「高校中退」で突き進むだろう。少なくともその可能性が高い。それが何を意味するのか。それぐらいなことは翔太にも想像がつく。翔太はまだ一年だけれど、もうすでに「学歴社会」というものを肌で感じていた。それは周囲の空気がそうさせていたし、この情報化社会の中でさまざまに溢れてくる現実を無視することなどできるはずもなかった。高卒、それも頭悪い部類の方の工業高校を出て就くことのできる就職口がどんなものか。翔太はもう知っていたし、恐らく学校中の生徒の誰もが知っている「事実」だろう。


 でも。しかし。翔太が悶々と悩んでいる間に、保育園児を連れた母親たちが公園の前に集まっているのが見えてきた。


 田口さんは母親たちに「おはようございます」と頭を下げると、弟を押し出し、

「それじゃ、よろしくお願いします」

「はーい。行ってらっしゃい」

 母親の一人が田口さんに手を振った。


 弟はひよこの群れのような子供たちの中に混じると、もうわあわあとお喋りを始めていた。

「まこと、じゃあな」

「うん。行ってらっしゃーい」

「行ってきます」


 兄弟は手を振りあう。どうやら、送って行くのはここまでで、あとは同じ保育園の保護者に見送りは託しているらしい。……自分は学校に行くふりをして。


 田口さんは弟と別れると翔太を無視して大股で歩き、国道をずんずん渡って行く。翔太もそれを追いかける。学校とは方向が違っているのは明白だった。


「田口さん、学校遅れますよ」

「……」

「あの、急に来たのは謝ります。でも、こうしないと会ってくれないだろうから」

「……」

「遅刻しちゃいますよ」

「……」

「田口さん」


 翔太が大きな声で呼びかけると、田口さんは振り向きざまに、

「お前、いい加減にしろよ!」

 と、負けじと怒鳴った。


「お前に関係ないだろうが」

「……関係ないと言えば、ないですけども……」

「家に来るなんて、ありえない。ストーカーかよ」

「……あの、ギターの人にも頼まれて……」

「ああ、そんなこと想像つくわ。余計なお世話なんだよ。俺、学校辞めるつもりだから」

「……」


 そんな風に言われることは覚悟していた。翔太は無言で田口さんを見つめ返した。


「だからブラバンとか俺には関係ないから。お前らが勝手にやればいいだろ」

「……」

「イチローがなんて言ったか知らないけども、お前にはほんと関係ないから。もう二度と来るなよ」

「……」


 突き放すような口調で言い放つと、田口さんは翔太に背中を向けようとした。


「分りました」

 翔太は言った。

「確かに田口さんが学校辞めようと俺には関係ないっす」

「……」

「でも」

「……」

「だったら、辞めるなら、その楽器返して下さい」

「……」


 田口さんの肩のあたりが固く強張るのが見てとれた。


「そのサックス、ブラバンの備品でしょ。それないとマジでブラバン潰されちまう。俺らどうやって生徒会に言い訳すればいいんすか。確かに田口さん辞めるならブラバンなんか関係ないかもしれないけど。でも、俺らだって田口さんがバンドでやるためにサックス必要なんてこと、関係ない」

「……」


 翔太は「返して下さい」と言うと田口さんの手にした楽器ケースに手を伸ばした。


 田口さんは突差にケースを抱えこんだが、翔太は再び負けじとケースにかじりついていった。


「返して下さい」


 翔太は言いながらケースを奪おうとした。


「田口さんはブラバンなんかもうどうでもいいのか知れないけど、俺らは違うから。俺らは……俺は、ブラバンやりたいから。俺、他に何にもできないから。ブラバンやってる時だけが、楽しいから。俺からブラバン取り上げないで下さいっ……」


 最後はもうなんだか泣きそうになっていた。翔太は力いっぱいケースにしがみつき、田口さんに訴えた。


「ライブ、マジで感動したんす。俺、田口さんと一緒にやれたらいいなと思って。斉藤ももっちーも素人だし。田口さんがいてくれたら、あいつらだって嬉しいだろうし。一緒にブラバンやれたらって……。そしたら俺らみんな馬鹿でどうしようもないだけじゃないって思えるかもしれないって……」


 急に田口さんは力を抜いたかと思うと、楽器ケースを翔太の胸に押しつけた。


 翔太はケースを抱きかかえる格好で強く押され、よろめいた。田口さんは憮然とした表情で翔太の顔を見ていた。


「勝手にしろ」


 そう言うと、田口さんは翔太を置いて歩きだしてしまった。


 翔太はケースを抱いたままその場に立ち尽くし、田口さんの背中を見送るより他なかった。


 言うべきことは、言った。そして結果的に目的の一つは果たしたかもしれない。でも、こんな結末を望んでいたとは決して言えない。


 涙が滲んだが、かろうじて堪えて、翔太は振り切るように学校への道を急ぎ足で歩き始めた。

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