第16話

二度目の立ち入りの日。翔太たちはまた部室を掃除して、地道な基礎練習をしながら生徒会が現れるのを待っていた。


 三人の心は複雑だった。翔太が田口さんから楽器を取り返してきたので生徒会からの追及は免れるし、これでひとまず問題は解決した。が、それによって田口さんから楽器を奪ったことになる。とりわけ、翔太の気持ちは暗く、どんよりと重かった。


 バイトでもしてお金を貯めれば楽器を買うことはできる。中古でも、いい。安く買おうと思えば、探せば見つけられるだろう。しかし、田口さんも含めて自分たちの年齢で稼げる額はたかが知れているし、貯めるといっても対して貯まらないだろう。もちろん不可能ではないのだけれど、それでは楽器を手に入れるまでの間、田口さんはどうするのだろう。練習は? バンドは?


 ステージの田口さんは輝いていた。弟の面倒を見ている田口さんは優しかったが、顔には微かに陰りがあった。疲れというより、何か暗いものが。


 母親がどんな人だか知らないが、田口さんが小さな弟の世話をしているぐらいだから問題がないわけではないだろう。そして、田口さんもそのことを完全に良しとしているわけではないのが表情から窺えた。本当ならちゃんと学校に来て、進級して、普通の高校生活を送っていたはずなのに。


 辞めるつもりだと田口さんは言ったけれど、本気なのだろうか。辞めて、それからどうするのだろう。


 翔太は考えても詮無いことで胸が塞がれる思いがした。その分だけ音階やロングトーンの練習は長く続いた。休憩もしないで、ひたすらずっと。無心になるように。


 斉藤と持田は翔太の様子がおかしいことに気づいてはいたけれども、何も言いだすことができず、ひたすら楽器を吹いた。


 大島も今日は顔を出すとは言っていたけれど、田口さんのことをなんと説明すればいいのかは分からなかった。楽器を取り上げたこと、本人が学校を辞めると言っていること。もしかしたら友達だとかいうバンドの人たちから聞いて知っているかもしれない。翔太は大島が自分たちに向って何か言うのだろうかと不安と期待の入り混じった気持ちになりもした。


 生徒会が二度目の監査が必要と判断したクラブを順番にまわり、満を持してブラバンにやってきた時にはもう部活終了の時刻近かった。


 平井がノックすると同時に返事も待たずに「よー、練習してるかー」と言いながら、勢いよくドアを開けた。


 持田が翔太を落ち着かせるかのように肩に手を置き、小さく頷いた。


 楽器は揃っているのだから問題はないはずだった。田口さんが使っていた楽器ケースにはバンドのロゴ入りステッカーなどがべたべた貼られていたが、そのぐらいなことは大目に見てもらえるだろうと踏んでいた。要は備品が揃っていて、不正や不審なことがなければいいのだから。


 平井が机に置かれたメトロノームやチューナーを興味深く見ているところへ、続いて生徒会長が現れた。


 翔太は会長とライブハウスで会ったことが思い出され、わざと明るく親しげに話しかけた。


「あっ、会長。先週はどうもー。あれからずっとライブ見てたんですか?」


 しかし、会長は翔太の言葉を聞くや、ちょっと眉をくもらせ、

「別にお前らには関係ないことだろ」

 と冷たく言ってのけた。それはまるで翔太のくだらない思惑を払いのけるような一撃だった。


 無論、翔太にしてみればブラバン存続ピンチの際には会長を脅すネタとしてライブハウスで会ったことを持ち出すぐらいな気持ちがないでもないのだけれど、会長はそんなことお見通しで歯牙にもかけない様子だった。


 斉藤が翔太の肘をとって後ろに下がらせると、代わりに持田が前へ進み出た。


「あの、この前なかった楽器なんですけど」

「ふん」

「修理から戻ってきたんで」

「ああ、そう。じゃ、それ出して。平井、確認して」


 会長が平井に指示すると、平井は「おお」と返事をして小脇に抱えていたクリップボードを見ながら胸ポケットのペンを抜いた。


「今日、大島はまだ来てないの?」

「はあ」

「大島は相変わらずやる気がないねえ」


 平井が笑いながらクリップボードに何事か書き込んでいく。


「はいはい、楽器ね。これね。えーと、アルトサックス……と。なに、このステッカー。前から貼ってあった?」

「はあ」


 膝をついてケースの蓋を開ける。平井は中を改めながら、呑気な口調で「よしよし、オッケー。いいんじゃないの。これで備品全部揃ってるな。問題なし……と」と呟いてから、「な、いいよな?」と生徒会長を見やった。


 会長は部室の棚を検分しているらしく、腕組みをして難しい顔をしていた。


 翔太たちは固唾を飲んで会長の一挙手一投足を見守っていた。


「田口は?」

「えっ……」

「田口に必ず来るようにって言ってあったはずだけど」

「あっ……はあ、それは……」


 持田がしどろもどろになりながら翔太を振り向いた。


「あの、今日は学校来てないみたいで」

「……ふーん……。田口に聞きたいことあったんだけどな」

「なんでしょうか……」

「田口が部室を倉庫として運動部に貸してるって噂聞いたんだけど」


 会長が三人の顔をぐるりと見渡した。三人は飛び上がるほど驚き、慌てふためき、斉藤などは一気に噴き出た冷や汗で顔がびしょ濡れになっているほどだった。


「し、知りません。そんなこと。倉庫ってなんですか。俺らここで練習してるし……」

「だよな。変な噂だよな。しかも田口が金取ってるなんてさ」

「……」


 翔太は笑っている会長の言葉から、はっきりと悟った。この人は全部知っているのだ。知っていて、言っている。


「田口さんはそんな人じゃありませんよ。ひどい噂っすね。誰がそんなこと言ってるんですか」

「まあ、噂なんて無責任なもんだよ」

「大島先生だって田口さんがそんなことしてないのは証明してくれますよ」

「ああ、大島といえばさ。大島はお前らの練習ちゃんと見てくれてんの」

「……」

「あのさ。監査の後は年間の活動予定を提出することになってるんだけど、大島はなんか言ってた?」

「……いいえ、まだ何も聞いてないです……」

「ふーん。部員三人? 四人? で、なにするつもり?」

「……」


 なにするつもりもなにも、三人でなにができるのかこっちが聞きたい。翔太は完全に追い詰められた気持ちで、返す言葉がなかった。


 最初に会長にライブハウスのことを持ち出したのが悪かったのか。翔太は余計なこと言わなければよかったと後悔していた。


 翔太たちが挙動不審になっておどおどびくびくするのを見かねたのか、助け舟を出したのは平井だった。


「田口のことまでこいつらに言ってもしょうがないだろ。さー、もう、監査は問題ないから終わろうぜ」

「……」

「活動予定は大島と相談して提出すればいいから。な」

「……はい」

「田口が来たら、一応生徒会に顔出すように言ってくれればそれでいいから。お前らまだ一年でなんも分かんないもんな?」

「はあ……」


 翔太はすっかり意気消沈して小さく返事を返した。


 その時だった。開け放してあったドアから射しこんでいた夕陽が急に陰ったかと思うと、

「俺が、なんだって?」

 と、制服姿の田口さんが入口に立っていた。


「あっ!」

 翔太は思わず叫んだ。


「今、俺の噂してなかった?」


 言いながら田口さんは部室に入ってくると「おおー、平井。久しぶりー」と平井の肩を叩きながら、実に親しい様子で話しかけた。


「田口、お前なあ、ちゃんと学校来いよなー」

「分ってるよ」


 田口さんはすっかり様変わりした部室に一瞬面喰ったようだったけれど、翔太たちを見るとふっと鼻先で笑った。


「田口さん……」


 信じられない。夕日を背負って現れた田口さんはまるでヒーローみたいで、翔太は感動のあまり泣きそうになるのを必死でこらえていた。


「田口さん、靴、靴!」


 持田が土足で部室に入ろうとする田口さんの足もとを指差して叫んだ。


「あ、ここ土禁? なんだよ、早く言えよ」

「みんな靴脱いでるじゃないっすか」


 入口付近に脱ぎ捨ててある靴を省みると田口さんは「ははは」と笑って、履いていた靴を脱ぎにかかった。田口さんは制服だというのにエンジニアブーツを履いていた。


「それで、俺がどうしたって? 会長」

「……お前が部室を運動部の倉庫にして金とってるって話しあるけど、本当か?」

「はあ? なんで俺がそんなことを?」

「そういう噂が耳に入ってる」

「単なる噂だろ」


 田口さんはブーツを脱ぎすてると、会長に真っ向対峙する姿勢でしれっと続けた。


「倉庫って言うけど、何もないじゃん」

「そうみたいだな」

「そういう濡れ衣着せんのやめてくれよな」

「……。それじゃあ、監査はこれで終わりにする。活動予定は来週提出。クラブへの部費は職員会議で審査されてから支給されるから。生徒会の仕事もここまでだ」

「ご苦労さん」


 田口さんの好戦的な口調にも顔色ひとつ変えないで、会長は淡々と今後の予定を告げた。田口さんは小馬鹿にするように鼻先で笑い「じゃあな」とまるで追い出すように言った。


 会長は何か言いかけて、しかし、黙って部室を出て行った。翔太は二人の間に何やらピリッとした静電気のようなものが走るのを感じていた。


「田口、またなー」


 平井も出て行く。田口さんは振り返らずに「おー」と軽く返事しただけだった。


 考えてみたら、彼らは元々は同級生だったのだ。翔太は今頃になってそのことにはたと心づいた。そして、とりわけ会長との間には何らかの確執があるらしいことも。


 平井とは隔たりのない口をきくのに対して、会長には妙な緊張感があるのは、会長のキャラクターのせいではないらしい。そして会長もまた田口さんに対してはいやに構えた態度をとる。二人の間には、何かある。それが何かはまったく分からないけれども。


 しかし、今はそんなことより田口さんがここにいるということ。翔太にはそれが無上の喜びだった。


「田口さん、来てくれたんすね」

「……」

「……練習」

「は?」

「楽器ないと練習できないからな」

「あ、バンドの……」


 翔太はちょっと拍子抜けしたが、でも、持前の明るさですぐに気を取り直して椅子を引きずって来ると、

「とりあえず、ここ、座ってください」

 と、うきうきした調子で自分の隣を示した。


「……」

「大島ももう来ると思うし。それまで基礎をやっておくことにしてるんで」

「……」

「田口さんが来てくれたらもうブラバンは安泰っすよ。これでまともに演奏できます。よかったよかった。もー、俺らだけだと音楽以前の問題だったし」


 翔太一人が浮かれて弾んでいるのを斉藤と持田はまだ心配そうに見守っていた。と同時に、田口さんに対してどう接していいのか分からず、戸惑ってもいた。だいたいこの人が本当に部活に参加してくれるのかどうかもまだ疑っていて、もし「やっぱりやめる」とか言いだされたら……と思うと、まだ心から安心することはできなかった。


 持田は翔太が人を簡単に信じすぎることに飽きれると共に、と同時にその純粋さが眩しいような気がしていた。


 子犬が尻尾を振るみたいに田口さんの周りをうろうろしている姿は微笑ましくさえあった。


 田口さんはしばらく無言でその様子を見つめていたが、翔太が「さっ、チューニングしましょう」と言うと、ぷっと吹き出した。


 可笑しかったのでは、ない。いや、確かにこの単純さがおかしいと言えば、おかしいが。それ以上に自分が再び学校に戻ってきたこと、それがちっとも嫌な感じではなくて、自然で、認めたくはないけれど嬉しいと感じていた。


 留年したのは遅刻と欠席が多かったことが原因だが、それだって弟の面倒をみたり、水商売の母親と罵りあったりしていたからで、決して学校に来たくないとかいうわけではなかった。いや、どちらかというと家から離れていられるので学校は好きだった。しかし留年すると当たり前だが一つ下の連中に突然なじめるわけもなく、友達もいないし、学校に居場所はないものと思えた。一度サボりだすと歯止めが利かなくなる。サボればサボるほど、学校へは足が遠のく。それじゃあマズいのは分かっていても気が乗らなくて、次第に面倒になっていっていた。

 たぶん、このまま辞めるんだろうな。そう思っていた。それでも、よかったのだ。もう何もやる気が起きなかったし、辞めてバイトでもすればいいと考えていた。無論、将来のこと、夢や希望については一切思い浮かばなかった。ただ見えているのは暗く、混沌とした生活だけ。


 そこへ突然現れた暑苦しい一年生。腹の底からふつふつと湧いてくる笑いが、自然と口から漏れ出る。


 翔太はきょとんとした顔で「田口さん?」と笑っている田口さんの顔を覗き込んだ。


「お前さあ」

「はい」

「お前は、本当に馬鹿だな」

「えっ」


 翔太は田口さんが自分の何を笑っているのか見当もつかなかった。けれど、くつくつと笑いながら椅子に腰掛け、楽器を取り出す田口さんを見ていた斉藤と持田にはその理由が分かるような気がした。


 翔太は田口さんが戻ってきたことを奇跡のように思っていたが、斉藤と持田、そして田口自身も翔太の力だと分かっていた。


「田口?」


 入口で声がした。大島が驚きのあまり頓狂な声を出して突っ立っていた。


 田口さんは笑いながら、

「なにやってんだよ、練習始ってんだろ」

「……」

 大島は信じられないといった顔で田口さんを見つめ、それから翔太を見た。


 大島も、皆と同じことを感じていた。が、翔太だけはブラバン復活の「奇跡」に、神様に感謝したいような気持ちでいっぱいだった。

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