八唱 ささやくように瞬く小さな銀の星の下、我が愛しき知己よ何を憂う

 夕暮れ時、ヴェール・ド・マーレの町に明かりが灯る。

 茜色から赤紫、そして夜闇の色へと移り変わりつつある空の下、トーリとフリアはとぼとぼと町を歩いていた。

 宿に戻ろうと、傾斜した石段を下り、大きな石畳の道にやってくる。

 昼間のにぎやかさは、すっかりなりをひそめていた。

 昼日中、はやすように口笛を吹き、銀貨を投げていた人々も、今はゆったりと店のカウンターでグラスを傾けている。

 階段下に座り込み、トランペットやサックスを手に、丁寧な演奏をする楽団たちの音色は丁寧で穏やかだ。

 外のテラス席に腰かけ、おしゃべりに夢中のカップルの脇を通り過ぎ、トーリたちは乗馬する紳士の絵が彫られたつり看板の下まで戻ってきた。

 歩いている間、クィーはフリアの肩に乗り、ずっと彼女の頬を尻尾でなでていた。人とすれ違っても、珍しく隠れもせずに。

 

 がやがやと大勢の人でにぎわう店は、大繁盛していた。

 豪快にジョッキを掲げ、エールを飲みかわすのは日に焼けた男たち。

 その卓の隣では、小柄な老夫婦がマリネと共にハーブ酒を嗜んでいる姿が見える。

 混んでいるようだし、食事は後回しにしよう。そう店の様子を眺めながら、借りている部屋に戻ろうとしたところで、視界の端にモノトーン。卓の一つについている銀髪の青年が視界に入る。

 ひと房束ねられた、しっぽのように長い銀髪。白い肌とコントラストを成す黒いジャケットに黒い脚衣。エメラルドグリーンの刃を思わせる鋭い瞳。

 見覚えがありすぎる姿に、トーリは思わずずびしと指さしていた。


「って、ああっ!? ブライヤー!?」

「お?」


 混雑する店の中、のんきな声と共に振り返って来たのは、まさしくブライヤーその人だった。


「なんでお前がここにいんだよ! ストーカーかよ!」

「人聞きの悪い上に態度がなってねぇやつだな」

「ど・っ・ち・が・だ」


 ばん、と粗い目の木のテーブルに手を突いて、一音一音くっきりはっきり言ってやる。

 しかしブライヤーは微塵も気にした風もなく、トーリの後ろにいるフリアをひょこりと見るだけだ。


「そういうお前らこそなんでこの宿にいんだよ」

「クィーがこの宿の前まで勝手に一人で来ちゃったんだよ。ここがいいって」

「あー、なるほど」


 と、通りがかった、胸筋豊かな白シャツの店員が声をかけてくる。


「あら、あんたたち知り合いかしら?」

「し――らなくはない、です」

「じゃあさ、食事の時、一緒のテーブルで食べてくれないかい? 今帰ってきたってことは、これから食事だろう? だけど、ご覧の通り、席が埋まっててね」


 言っている傍から、混雑を極めた店内に、新たに仕事終わりと思しき大柄の大工が数人、入ってくる。


「そ――」


 そんな自分たちに危害を加えてきた男とのんきに食卓を囲めるわけがない。そう言おうとして、店員がその理由を知る由がない、と理性が歯止めをかける。

 と。


「くうきゅ」


 ちょこんと。

 一足早く、テーブルの上に座ったクィーが、オリーブとアンチョビとチーズが乗った平たいパンに食らいついた。


「あっ、お前、何、ヒトのもん食ってんだ」

「くーきゅ!」


 互いにパン生地の端を押さえ、早くもピザの争奪戦。

 トーリはがっくしと肩をうなだれさせた。


「……一緒で大丈夫です」







 おごってやるよ、というブライヤーの気まぐれめいた一言から、夕食は始まった。

 止める暇もなく、あれよあれよと注文されてしまい、不本意ながらごちそうになることに。

 塩こしょうで味付けした豚ロースに、ローズマリーをちぎってのせ、オリーブオイルをたっぶりかけて焼いたもの。

 サフラン色のスープで煮込んだ、潮の香りがする虹色のムール貝。

 トマトソースとチーズだけの、素朴なピザ。

 次から次へと運ばれた食事がテーブルに並び、あっという間に食卓が賑やかになる。


 細い身体のどこに入るのやら、ブライヤーは食べている。

 小さい身体のどこに入るのやら、クィーも食べている。

 食欲がないのか、フリアの食べる手の進みは遅い。

 食事の途中、前触れもなくブライヤーに話しかけられる。


「で、竜とやらには会えたのか」

「……会えた」

「浮かねぇ顔だな。念願の、人と一緒にいる竜を見つけたっていうのに」

「あんなの、ただ捕まえて利用してるだけだ」

「お前だってそうするために竜を探してるんだろ?」

「違う!」

「そうかっかすんなよ。冗談だっての」


 からからと笑い飛ばすブライヤーは無邪気だ。

 と、いきなり、すぅっとその笑みが深くなった。


「じゃあ、聞くが、お前は竜と契約した後どうするんだ?」

「それ…は……」


 ブライヤーの瞳が抜身の刃のように、鋭く細められる。

 濃く深いエメラルドグリーンの刃から、目を逸らせない。


「お前が望む望まないにかかわらず、竜と契約をすれば世界は変わるぜ。なんてたって、歴史的大事件だ。放っておくわけがない」

「おれ、は……」


 とっさに返せず口ごもる。


「おれは?」


 ブライヤーが繰り返す。


「おれ、は……ただ、竜と――」


 ――ただ、あの大空を竜と一緒に飛びたいと思った。


 そうだ。

 いつか夢見た、竜が大空を自由に飛ぶ世界。

 人と竜が共に生きる世界。


「人と竜が一緒にいられたらいいなって思う」

「一緒に、仲良く、暮らしていければってか?」


 こくんとトーリはうなずく。


「無理だろ」


 さらりとやわらかく耳をなでるブライヤーの低い声は、ひどく心地良かった。

 嘲笑でもなければ、冷笑でもない。

 単純な事実を述べただけのような、あまりに淡泊な台詞にトーリは言葉を失っていた。

 憤慨の余り言葉が出なかったからではない。

 ブライヤーの言葉に同意している自分がいることに気づいたからだ。

 だってもう、昔ではない。昔ではないのだ。

〈竜の里〉の存在を、おとぎ話だと衛士に言われた時と同じような断絶にショックを受けながら、その一方で仕方ないと思っている冷めた自分がいる。

 気づきたくなかったもう一人の自分の存在を明確に認めながら、トーリは相反する二つの感情をどうしたらいいかわからずにいた。

 と、やれやれとブライヤーが肩をすくめた。先ほどまでの鋭利な気配が、嘘のように軽くなる。


「つか、あほらし。どうでもいい」

「あほってなんだー!」

「どうどう」

「くきゅくきゅ」


 クィーもブライヤーにならうように肉球がついた手を出している。


「クィーまで……」

「お目付け役。お前はどう思う?」

「……え?」


 話を振られたフリアがようやく面を上げた。

 上の空だったらしい。フリアはぼんやりとした様子で、ブライヤーとトーリの顔を交互に見た。


「……すみません。話を聞いてませんでした」

「フリア、大丈夫?」

「大丈夫です。ところで、何の話ですか?」

「だから、竜と人が昔みたいな関係に戻れたらいいなって思ってるっていう話」


 聞いたフリアは急激に目が覚めたようだった。一転、クリアになったパールグレイの半眼でトーリを見る。


「トーリさん、頭大丈夫ですか」

「ひっでぇ!」

「一体いつの時代の話をしているんですか。ずっと大昔の話じゃないですか」

「フリアおれに協力してくれてるんじゃないの!?」

「トーリさんが竜と契約を結ぶことを応援もしていれば協力もしますけど、それとこれとは話が別です」


 はっきり言われてしまい、それ以上トーリは何も言えずに顔を俯かせた。

 と、鼻先に金色の光。ブライヤーが、甘い香りのする金色の液体が入ったグラスを、トーリの前で揺らしてみせる。


「なにこれ」

「うまいぜ」

「ジュース?」

「飲んでみるか?」


 そう言ってブライヤーが差し出したグラスをトーリは特に何も考えず受け取った。

 そのまま一口、口に含み――

 次の瞬間、喉を焼くような熱さ。反射的に口の中の液体を、ぶっと横に吹き出す。


「トーリさん!?」


 フリアの驚愕。答える余裕もなく、ブライヤーをねめつける。


「あ・の・さ・あ……」


 ブライヤーはゲラゲラと笑っている。

 隣のクィーも、くきゅっきゅと口元を抑えながら楽しそうだ。

 トーリは口の端をぬぐいながら、ブライヤーの前に、たんっ、とグラスを強めに置いた。ついでに叫ぶ。


「なんだよこれぇっ!」

「はちみつ酒」

「酒かよ!」

「あったりめーだろ。お前もう成人してるんだから、酒ぐらい普通に飲むだろ」

「そ、そりゃ村でアルコールの類は薬として飲むけどさあ。普段は飲まないよ」


 しどろもどろに言い訳すれば、ほとほとブライヤーはあきれたようだった。


「おこちゃま舌めが。おい、お目付け役。お前はどうだ。一杯やるか」

「くうきゅ!」

「お前はだめだ」

「くきゅくきゅ」

「うるさいちび助。そういうことはいっちょ前になってから言え」


 ブライヤーが金色の酒が入ったグラスを持ち上げた。卓の上で短いもふもふの手を伸ばすクィーからグラスを遠ざける。

 唐突にトーリは聞いていた。


「……ブライヤーはさ、戒魔士かいましなんだろ」

「戒魔士じゃねぇよ」

「え?」

「戒魔士ってのは、魔を戒めるやつのことだろ。なら違う」

「でも……ううん、それじゃあなんで、仕事もしないでこんなとこぶらついてるんだよ。しかも人の邪魔までして」

「人からどう見えようが、俺には俺なりの理由があってここにいるの」


 ぶっきらぼうな口調には、何度も聞いて聞き飽きたようなわずらわしさが含まれていた。


「あ、ごめん」

「すなおかっ」


 あきれとも驚きともつかない様子で、ブライヤーが目を見開く。しっしっ、と湿っぽい空気を追い払う仕草の後、言ってくる。


「あー、もういい。お前謝るな。お前に謝られるとなんか調子狂う」

「なんだよそれ」


 変な感じだ。

 どうしたって出会いは最悪だというのに、ブライヤーに敵意や悪意を抱けない自分がいるのをトーリは感じていた。

 それなら、メルクマールの方がよほど――と思いかけたところで、拘束された龍の姿が脳裏に思い浮かんで気持ちが暗く沈んでいく。嫌な記憶を振り払うつもりで内心で首を横に振った。

 こんな応酬で済んでいるのは、ここが町の中だからだ。

 ブライヤーが敵としてトーリの前に立ちはだかったら、ブライヤーはためらいもなくトーリを魔法で攻撃するのだろうし、トーリもまた反射的に剣を抜くのだろう。

 嫌悪や悪意に任せてではなく、単純に対立している。たったそれだけの事務的な理由で。

 果たして、今こうして和やかに会話している彼に自分は本気で剣を向けられるのだろうか。

 自らの思い付きに、トーリは可能か否か自問しかけ、とっさに考えるのを放棄する。

 今こうして一緒に食卓を囲んでいる方が異常なのだ。そう思わないとやっていられない。







 気晴らしに散歩してくる、とフリアに言い残して、トーリは宿を後にした。

 すっかり日が落ちた紺色の夜空に、小さな銀色の星が輝いている。

 明かりが灯る家々の間を歩きながら、トーリは目的の場所を目指す。

 やがて、トーリはしびれを切らすと、くるり、と肩越しに振り返った。背後から足音を隠しもせずついてくる人物に。


「あーのーさーあー」


 案の定、銀色のしっぽとエメラルドグリーンの刃を持つ黒い人物――ブライヤーが立っていた。


「今度はなんでついてくるわけぇ!?」

「いちいちうっせえなあ。メシ食ったタイミングが同じなんだから、一休みして動こうと思ったら、ある程度、似たようなタイミングになんだろうがよ」

「う……っ。で、でも、向かう方向まで一緒なんて、そんなにないだろ?」

「オレもこっちに用があるんだよ」

「こっちって、どこ行くつもりなのさ」

「図書館」

「ブライヤーも図書館に……?」

「なんだ、ひな鳥。お前もか?」

「う、うん」

「何しに?」

「ちょっと調べものに……。そういうブライヤーは何しに?」

「確認、かな?」

「確認?」

「そ」


 端的な言葉で終わらせた後、ブライヤーが、つーか、同じとこ行くんなら一緒に行こうぜー、と隣までやってくる。

 既知の友に対してするような親しげな態度に、ますますわからなくなる。


 ――あの人は危険です。


 フリアの警鐘が脳裏に響く。

 心から困った気分でトーリは長身の男を見上げた。


「……ブライヤーはさ、なんでヴェール・ド・マーレに来たの?」


 意外なものでも見るように、ブライヤーが目を瞬かせる。


「何だお前。俺がお前らを追っかけてきたって思ってたんじゃねぇの?」

「最初はそうかと思ったけど、なんか本当に違うみたいだし」

「へーえー?」


 ブライヤーが興味深そうに笑みを深めた。

 その反応を見たトーリは思わずジト目になる。


「で、何しに来たわけ?」

「ひ・み・つ」


 にぃっと蛇のように笑うブライヤー。

 いい予感は一つもしなかった。

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