九唱 錯迷

「ただいまー」


 図書館から宿に戻って来たトーリは、木の扉を開いて部屋の中に入った。

 入るなり、部屋の中から漂ってきた、トマトとは異なるフルーティーな甘酸っぱい香りに気づき、くん、と鼻を動かす。

 部屋の中を見渡しながら、トーリは香りの大本を探る。

 静まり返った石造りの部屋は、ぼんやりとしたオレンジ色のランプで淡く照らされていた。

 室内には白い清潔なベッドが二つと、衣装かけのポールが一つ。それから――


「フリア?」


 それから、白い布地が敷かれた小さな机につく白銀の髪の少女の姿。


「ああ、おかえりなさい、トーリさん」

「ただいま。何してるの?」

「ちょっと、装飾品の手入れを」


 いったんトーリの方に顔を上げたフリアが、再び手元に視線を向ける。

 トーリは椅子に座るフリアの傍に近づき、彼女の手元を見た。

 どうやら、銀の透かし細工の腕輪を布で磨いているらしい。


「良かったらトーリさんのメダリオンも拭きましょうか?」

「……じゃあ、お願いしようかな」


 ほっそりとしたフリアの白い手の上に、深い赤みを帯びた楕円形のペンダントを乗せる。

 やわらかい布にボトル瓶の中身をかけ、フリアが丁寧にメダリオンをこすっていく。

 しばらくして、はい、どうぞ、というフリアの声。

 手渡された銅のメダリオンは、見違えるほど美しく磨き上げられていた。


「うわ、きれい」


 オールドローズの光沢を放つペンダントを軽く掲げ、角度を変えて見やる。


「これどうやったの? ただふいただけじゃないよね」

「ワインビネガーを使ったんです。銀食器とかをレモン汁で磨いて手入れすると、酸の効果できれいになるんですよ」


 そう言ったフリアが、ワインボトルを見やった。ボトルには、葉とツタがブドウの実を囲ったラベルが貼られている。

 そこへ、背後から、くっきゅるるるる、とクィーの寝息(?)が聞こえてきた。

 振り返ればベッドの端、白いシーツと同化して気づかなかったが、こんもりとした丸い小さな山がある。


「はは、クィー、寝ちゃってるのか」

「ええ。私もさっきまで一緒に寝ていたのですけどね」

「フリア、昼寝したの?」

「少しだけ。でも、そろそろクィーも起こさないと。夜寝られなくなってしまいますから」


 そう言って、立ち上がったフリアがくぴーくぴーと寝息を立てているクィーの身体をそっと揺する。


「……じゃあさ、ちょっと付き合ってくれない?」


 ひっそりと、内緒話でもするようにトーリは提案した。







 草木も眠るとされる真夜中。

 すっかり闇に包まれた青色の屋根の城こっそりを見上げながら、トーリは誰もいないように見える城門を見張っていた。

 あたりは静かだった。流れる小川のせせらぎ以外、音はない。

 と。


「だめですよ…っ、トーリさん。こんなこと……!」


 門へ続く橋の下、草の茂った土手にしゃがんで身を隠すフリアが小声で叫んでいる。


「あんな風に捕まってる竜を放っておけるわけがないだろ」

「くぅきゅ」

「ああもうクィーまで!」


 トーリの肩にちゃっかり乗ったクィーはやる気満々だ。

 雲から姿を現した白く輝く月の光から逃れるように、トーリは橋の下の影へ。

 頭上に注意しながら低く身をかがめれば、視線の先のフリアがきっとにらんでくる。


「トーリさん? 冷静になって考えてみましょう。まず、私たちはこの島の人間じゃありません。それどころか、エンハンブレ共和国の人間でもない」

「つまり?」

「この国の人たちのやり方に、ほいほい口を出せないということです。いえ、住民であってもいきなりこんな突撃するような真似はしません。そのぐらい、わかりますよね?」


 幼い子供を言い聞かせるように、フリア。

 むむ、とトーリは口を押し上げる。


「里の長だったセトさんは、おれや小さい子の話も聞いてくれた」

「政治体系も統治の仕方も〈竜の里〉を基準にしないでください。あそこは世界から隔絶された特殊な場所——いえ、そもそもトーリさんの常識、世間の非常識、です」

「言われよう!」


 ずばずばと切り込んでくるフリアに小声で叫び返す。


「正攻法での攻略は諦めてくださいって言ったのフリアじゃんか」

「場合によりけり、です。第一こんなこと普通に考えて問題にならないと思ってるんですか!? 竜がいなくなったらこの町の人たちだって」

「――その心配はないと思う」

 

 冷静に遮れば、フリアが、え?と軽く目を見張る。

 エメラルドグリーンの刃を思い返し、トーリは苦笑した。


「図書館で調べた。……あと、ブライヤーにも確認した」

「ブライヤーさんに……?」


 あの賢者のごとく膨大な知識を持つ青年は何者なのだろう。

 トーリは静まり返った城の様子を気配で探りながら、話し始めた。


「竜がこの町に来たのは、二年前。この辺りの気候は安定していて、何か困っているわけじゃない。確かに漁獲量は、竜の力で安定させることもあるからか、増えたみたいだけど」


 ヴェール・ドマーレは困窮に瀕した様子はなく、天候による突発的な災害を受けることも多くない。

 数百年の単位で遡ってみても、津波や台風、赤潮などによる強烈な被害は見当たらないようだった。

 また、季節的な高潮で浸水することがあっても、それらは生活の一部として馴染んでいる。


「あと、竜がいなくなっても、メルクマールさんが町の人からなんか言われ……ないってことはないだろうけど、支持する人の方が多いと思う」


 そう。竜という強大な力を持つ後ろ盾がなければ、メルクマールの立場が危うくなることもないとトーリは踏んでいる。

 それは、生き生きとした市民や、メルクマールを敬愛するボートの上の老婆の様子、何より、メルクマールが都市を愛する気持ちを見れば一目瞭然だ。

 おまけに、ブライヤーいわく、海上都市ヴェール・ド・マーレは、市長が任期を終えた後、定期的に他の都市と同様に市長選挙が開催されるも、ここしばらくはシャルセディオ家の常勝らしい。

 半ば、出来レースのような状態になってしまい、選挙が選挙の意味をなさず、形骸化してしまっているのだとか。市議会議員こそ選挙によって選出されているようだが。

 そして、〈イドの解錠〉によりドミヌス王国が崩壊した後、主権国家を否定し、世襲制を撤廃し、とにかく権力が一か所に集約されることを忌避した共和国側もこの状態を黙認しているのだという。

 そう易々と崩れるほど、メルクマールの地位は脆くないだろう。


「……それに、逆に竜なんてもの、エンハンブレ共和国だけにいたら、昔のバーラエナ級攻城戦術兵器と同じで問題になるんじゃないの?」


 ここより北西にあるリーベリー海の沖合を、一瞬で海底まで蒸発させた巨大な人形兵器があった。

 かつて、ドミヌス王国とエンハンブレ共和国の争いを調停したマセラ永世中立国が開発したそれは、圧倒的な威力ゆえに両国から危険視されたのだという。

 最終的には、三か国がそれぞれバーラエナ級攻城戦術兵器を一体ずつ保有することで決着がついたらしい。

 と、フリアが真顔で真っ向からの否定。


「そうはならないと思います」

「うん?」

「正確には、今問題になっていないということが、それを証明しているといいましょうか」

「どういうこと?」


 疑問のまま、きょとんと首を傾げる。


「トーリさん。トーリさんは、どうしてオルドヌング族の統治が、七百年の長きにわたって続き、黄金時代とまで呼ばれたか、その理由を知っていますか?」

「……〈イドの解錠〉まで、オルドヌング族による私怨の殺人がなかったとか、とても穏やかな種族だったとかは聞いてるけど」

「そうです。そういう一族だったのです。とても温厚で、社会的にも身体的にも強くない人に手を差し伸べることが普通にできる種族だったのです」


 確信を伴ったフリアの声。


「何かの力や資産を有するものは、それを配分する。それが何かを持つ者として当たり前のことです。魔法でも、為政者でも、統治者でも、それは変わらない」


 語るフリアの口調にはよどみがない。

 狂信でも妄信でもない。強制されたわけでも、同調圧力にさらされているわけでもない。

 それがオルドヌング族にとっての自然で、ごく普通のことだったのだろう。

 そうして、おのずとオルドヌング族を支持する人が増えていき、結果、オルドヌング王朝ができあがったのだという。


「平和な統治の後ろには、そういった福祉と資産の分配があるのが一般的です。表面上、それが明らかだろうがそうでなかろうが」


 そう言ってから、フリアは少しばかり考えこむように間を置いた。


「竜がここにいることをエンハンブレ共和国側が許しているということは、竜の力は共有財産となっていて、他の都市も恩恵を得ているのではないでしょうか。どのような方法かはわかりませんが」

「じゃあ、竜がいなくなっても誰も死なない」


 断ち切って言い切る。

 トーリが強引に踏み切ろうとしている最大の理由はここだ。

 フリアはためらいがちに目を半分ほど伏せ、それでも言ってくる。


「その……あの領主さんには、加護以上の何か理由があって、あそこに竜を閉じ込めているように見えました」

「それもわかってる」


 メルクマールという人物が、そんな単純な人間ではないことをトーリはこの短時間で察していた。

 落ち着いていて、気さくで親しみやすい反面、何か入り組んだ内面をメルクマールのという人物の中に感じていた。


「あるいは、託宣を受けた可能性もあります。将来、未曾有の災厄がこの地に望む。先祖代々この地にいるシャルセディオ家は、オルドヌング族の血を引いた貴族の末裔ですから、ときに神がかりめいた夢を見ることだってあ」

「それなら——それこそ、他にやりようがあるだろう! 竜にお願いするでもなんでも!」


 いよいよ遮ってトーリは声高に叫んでいた。

 どうして誰も彼も、力づくで解決しようとするのだ。

 言いながら、そんな自分も話し合いの段階を飛ばして強行策に出ようとしている矛盾に苦しくなる。どうしようもなくちっぽけで無力な自分を痛感するから。


「トーリさんが人と竜が共に暮らせる世界に憧れているのも、もう一度、竜と約束を結び直そうと思っていることもわかっているつもりです。……でも、確執というのはそう簡単に取り除けるものではないのです」

「どうして……」


 困惑すら覚えながら、トーリは聞いていた。


「不可逆だからです」

「不可逆……?」


 フリアは、自らの肩に戻ってきたクィーをそっとなでながら。


「……以前のような関係には、もう戻れないということです」


 ぽつりと。そう、寂しげに落ちた言葉に。


「――だったらおれが変えてみせる」


 間髪入れずにトーリは即答。

 大きくもなければ決して小さくもない、芯の通った声にフリアが目を見開く。


「フリア。やっぱりおれには無理だ。仕方ないのかもしれないけど、でも、それでぜんぶを割り切るなんてできない」


 たとえ夢物語でも、やっぱりトーリは仕方がないという言葉で理想を諦めたくなかった。

 ぜんぶはきっと叶わないだろう。

 そこはトーリの冷静な部分もきちんと認めている。

 その一方で、このまま全てを諦めきれないのも嘘偽らざるトーリの本心だ。

 ゼロか一かなんて、誰が決めた。

 どうしてどちらかを選ばないといけないのだ。

 どうしてどちらかを選ぶのが当たり前なのだ。


「この都市の人たちが竜がいなくても死なないように、おれがあの竜を放っておいても竜は死なないとは思う。……そんなに竜は弱くない。わかってる。でも、だからって——それに、また今度とか、いつか、なんて……」


 ――いつか、あの大空を竜と一緒に――


 脳裏に蘇る鮮やかな声に、ぐっと胸がきしむ音。


 “いつか”なんて、いつ来るのだろう?

 曖昧で不確定な言葉。

 いつか、なんてない。過ぎし日の再会はない。

 

「では、強く願ってください」

「え?」


 気づけば、フリアのパールグレイの瞳から曇りが消えていた。


「ただ、あの竜を助けたいと。助けるために、あの竜の元に行きたいと、そう願ってください」


 トーリの手を両手で包みながら、フリアが目を閉じる。


「私は魔法の力を持つ者です」


 フリアが言い切る。

 

「魔法の力は、世のため人のため誰かのために使うものです。人に祝福を、加護を与え、人の祈りと想いを現す力。だから、トーリさん、祈ってください。強く、心から強く」


 フリアに言われた通り、トーリは強く願った。

 目を閉じ、意識を集中させ、ただ、強く願う。

 すると、フリアの手からあたたかな光があふれてくる。見れば、蛍火のような燐光が、二人をあっという間に包み込んでいた。

 直後、橋の下、一瞬だけ二人の姿がまぶしく輝き、音もなく天高く閃いて消えた。





 フリアの魔法で転移した直後、トーリは自分の中にふとした疑問が生じるのを感じていた。


 ――竜を助けた後、事態をどう収拾する?


 この都市は竜の恩恵を得ている。

 フリアの予測が正しければ、別の都市も同じように。

 竜がいなくても生きていけるとはいえ、竜がいなくなったら一大事になるだろう。

 その一点は、どうしても変わらない。


 ――なら、トーリが竜を逃がした後、その先は?


 心にぽっかりと浮かんだ問いに、トーリはとっさに蓋をした。

 今、そこまで考えたら自分はきっと動けなくなる。

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