七唱 竜の声を聞く者、竜と共に在る者

 深い眠りから意識が浮上する。

 ふっ、と目を開けば、壁画が描かれた豪奢な天井が見えた。

 背中に感じる柔らかな寝台の感触に、トーリは自分が仰向けに寝ていることに気づく。

 ここはどこだろうと、当たりを見渡そうとして。


「トーリさん! 大丈夫ですか……?」


 聞こえてきたのは、不安に揺れるフリアの声。

 横たわったまま顔を右に向ければ、パールグレイの瞳に心配そのものを乗せたフリアがいた。


「おれ……なんで……」


 つぶやきながら身体を起こしたところで、意識を失う直前の記憶が蘇る。

 きっ、とトーリはフリアの傍らに立つメルクマールをにらんだ。

 メルクマールはトーリの視線を真っすぐに受け止める。


「なんなんですか、あれは!」


 かっとした怒りに任せ、トーリは叫んだ。


「あんな風に竜に無理矢理力を使わせて! あの竜が苦しんでいたことぐらい、メルクマールさんだってわかってたでしょう!?」

「ああ、もちろんだ」

「だったらどうして――」

「たとえそうだとしても、私には理由があるのだよ。私には」


 落ち着きを払った、確固たる信念を感じさせる響き。


「そんなの——!」


 どんな理由だ、と言いかけたところで、トーリは気づいてしまった。

 民衆の賞賛に酔った様子もなく、饒舌に語ろうとしないメルクマールの瞳が、理知的に澄んでいることに。

 彼には彼なりの譲れない信念があり、そしてそれは決してトーリと相容れないことに。

 同時、それを聞いてしまったら、自分はメルクマールの正統性を認めてしまいかねないことに。

 例えどんな理由があったとしても、竜を捕え、無理矢理従わせているなんていう理不尽、見過ごせるわけがない。そう思っていたはずなのに。


「……っ、理由があったとして、そしたらあそこにいる竜の気持ちはどうなるんだ」


 口から出てきたのは、逃げるような口上だった。

 メルクマールの答えを聞いた上で、彼と相対できるほどの強い意志もなく、だからといって感情のまま叫び続けられるほど子供でもなく、中途半端な己の不甲斐なさに歯噛みする。

 メルクマールは涼やかに切り返してきた。


「では君には、あの竜の声が聞こえると?」

「それは……!」

「あそこにいた竜が君にここから出して欲しいと助けを求めていると?」


 痛いところを突かれ、トーリは押し黙る。

 明らかにがっかりしたように、メルクマールが首を横に振る。あからさまなポーズ。


「やはり君は〈竜の里〉の人間ではないのだな。竜の声が聞こえるというのは嘘だったというわけか」

「おれは嘘なんかついてない!」


 証拠も何もない子供じみた反論だ。叫びながら心底そう思う。


「それとも、〈竜の里〉の者が竜の声が聞こえるという話自体が眉唾か」


 挑発だ。乗るな。そう自身に言い聞かせる。

 塔の上で、竜を紹介した時と同じで、メルクマールはわざとこちらの神経を逆撫でする言葉を選んでいる。

 高慢さからくるものではない。

 だからといって、トーリを子供と思って侮っているわけでもない。

 冷静にトーリを値踏みするような、あるいは慎重に挑むような様子は、対等な立場にある者を相手にしたときのそれと同じだ。

 だからこそ、混乱に拍車がかかる。一体、何がしたいのだろう、この人は。

 ふいに、毛色の異なる声でメルクマールはこんなことを言い出した。


「あるいは、我々がいるとシャイで話せない……ということもあるかもしれないな。なら、少し席を外してみようか」

「え?」

「行こうか、フリアレア君」


 予想さえしなかったメルクマールの提案に、トーリとフリアが同時に目を丸くした。


「この部屋を出て左の通路の突き当たりから、竜のいる塔へ行ける。ここで十分に休んだら、もう一度、今度は君一人で行ってみるといい。私たちは、この部屋のすぐ隣、先ほどの部屋に戻っている」


 そう言って、フリアの肩を抱きながらメルクマールが歩き出す。


「フリア……!」

「構いませんよ」


 あっさりと許可したフリア。

 軽いショックのようなものがトーリの胸に走る。


「待って! フリア!」

「トーリさん、クィー、預かっててくれますか?」


 フリアはそう言うと、自身のふわふわとした白銀の髪の中にいるクィーを引っ張り出した。そのまま手渡してくる。


「わたしの友だちでお守りです。きっとトーリさんの役に立ってくれます」

「くぅきゅー……?」

「クィー、トーリさんをお願いしますね」

「くぅきゅ……」


 頼りなく鳴くクィーを受け取り、トーリはもう一度フリアの顔を見た。


「フリア! おれは!」

「トーリさんは、〈竜の民〉です」


 驚くほど迷いのないフリアの目。


「でもそれは、妄信でも何でもありません。都合のいいことを夢見ているわけではない」

「フリア……?」

「なぜなら、あなたたちの存在そのものが、わたしたちにかけられた枷が外されない理由だから」

「枷?」


 意味がわからず反復するも、フリアは質問に答えない。

 フリアの口元には寂しげなほほ笑みが浮かんでいた。


「ただ存在しているだけで、ある存在を肯定するものがあるのですよ」

「え……?」

「じゃあトーリさん、また後で」


 にっこりとフリアが笑った。作り笑いだった。







 竜が拘束されている塔の上。

 中天から西へ少しばかり傾きかけた日の光が、白く長い柱の合間から差し込んでいた。

 青い竜は、濃い影を落とす磨かれた大理石の上で目をつぶったまま、首を下げている。

 トーリは話しかけた。目の前の、水晶のような美しいウロコを持つ青い竜に。


「……ねえ、聞いてもいい?」


 しばし待つも、竜は答えない。

 構わず、トーリはもう一度問いかけた。


「なんで、こんなところにいるの……?」


 やはり、竜は黙している。

 まるでトーリの声など聞こえていないように、静かに目をつむったままだ。

〈竜の民〉は、竜の声が聞こえる。竜の身体の一部を分け与えられたからだ。

 その昔、〈竜の民〉の一人が事故で大けがをした。死に至る致命傷だった。

 竜は、〈竜の民〉を助けるため、自身の身体の一部を〈竜の民〉に分け与えた。

 結果、死に瀕していた〈竜の民〉は、竜の持つ驚異的な再生能力を得、一命をとりとめたのだという。

 以降、体内の竜の破片を通して、〈竜の民〉は竜と交信することができるようになった。そのけがをした〈竜の民〉の子孫が、現在のトーリたちにあたる。

 実際、トーリは幼い頃、大空を羽ばたく竜の声を聴いたことがある。

 と、声を上げたのはクィーだった。


「くうきゅ!」


 トーリの肩から身を乗り出して、竜に話しかけている――ように見える。


「くきゅぅ、くーきゅっ!」


 心を引き絞る思いで、トーリは拳を握りしめた。


「……何か、言ってくれよ」


 でないと、自分まで自信がなくなる。

 自分は〈竜の民〉で、竜の声が聞こえるのだと。

 そうトーリは今まで信じてきた。

 否、信じてきたのではない。そのことを事実として確信していた。

 大地があって空があるように。太陽が東から登り、西に沈むように。自身が〈竜の民〉であることを、当然のように認識していた。

 だが、いざこうして竜と対峙し、話ができないと、単なる自分の妄想ではないかという気さえしてくる。

 幼い頃、確かにあった記憶が、今までトーリを支えていたものが、唐突に形を失って不安定になっていくような錯覚。

 なんでもいい――なんでもいいから、言って欲しい。

 はやる気持ちを押さえつけ、トーリは立ち尽くすことしかできない。

 わずかばかりの希望がついえたような、永遠とも呼べるような時間が、無為に流れていく。

 と。


『……あの娘が危ない』

「へ?」


 ざらりとした低い声に、顔をぱっと上げる。

 だが、竜は先ほどと全く変わらない姿勢のまま。微動だにしていない。

 空耳だったのかもしれない――と。


「くきゅ!」


 応えたのはクィーだった。

 ぱたぱたと翼を羽ばたかせ、後ろの階段を下っていく。


「あっ、ちょっとクィー!?」

「くーきゅ!」


 途中、トーリが動こうとしないのを見て取るや、クィーは戻ってきた。トーリのジャケットをくわえ、ぐいぐいと引っ張る。

 瞬間、トーリの瞳が薄く見開かれる。

 クィーの意図を察し、トーリは走り出した。階段を下りる手前、青い竜を振り返る。


「……ありがとう! また来るから! 今度はちゃんと話そう!」







 壁際に貼り付けられた縦長の大きな窓から、夏の強い光が差し込んでいる。

 フリアは部屋の窓辺から、ヴェール・ド・マーレの町を見下ろしていた。

 オレンジ色の瓦屋根の下、桃、黄、白、赤、と色とりどりの壁が美しい町並みを、たくさんの人たちが行き交っているのが見える。

 水揚げが終わって、港で休憩する水夫。

 建物の前、観光客をホテルへ案内するボーイ。

 色鮮やかな野菜をトロ箱に入れ、市場から撤退しようとするエプロン姿の女性。

 島を囲むエメラルドグリーン色の海は、遠くまで、どこまでも澄んで輝いていた。

 隣にやってきたメルクマールが、フリアと同じように窓の外を見ながら話しかけてきた。


「美しいだろう?」

「ええ、とても」


 適当に返す。


「海も町も人も美しい、すばらしい都市だ。……本当に」


 そうつぶやくメルクマールの優しい表情は、どこか誇らしく、また満ち足りたものだった。

 メルクマールは窓の外、島の縁を指さした。白い帆をたたんだ、ヨットが停泊する波止場が見える。


「波止場から東へ向かった先に、小さな店があってね。少し癖のある老婆が経営している飲食店なんだが、塩加減が絶妙な海の幸のスープを出すんだ。時間があったら行ってみるといい」

「教えてくださり、ありがとうございました」


 すげなく話を終わらせれば、メルクマールが苦笑する気配。

 すると、ややあって、話を切り出してきたのは、メルクマールの方からだった。


「……君のような存在が、人と共に行動しているのは意外だったな」

「なんのことやら、です」


 フリアは知らんぷりを決め込むと、そっけなく一言。

 だが、メルクマールは確信めいた目でフリアを見るだけだ。どうやら、ごまかしは効かないらしい。


「契約を結ぶつもりかね?」


 その質問に答えず、フリアは別のことを聞いた。向き直る。


「後学のために教えてもらいたいのですが、どうしてわたしのことを?」


 脱色もしていないのに、銀にも見える白亜の髪は珍しいだろう。

 だが――


「瞳が赤くなくとも、そこまで天然物の白い髪は、そうお目にかかれるものじゃあない。もちろん、あのクィー君も、だがね」

「町に戻ったら、髪を染めたいと思います」

「もったいない。真珠のように美しい白だというのに」

「色素を破壊した結果、そう見えるだけの色を白と呼べるものでしょうか」

「美しさに色の定義は関係あるまい。それとも、自らが持つ色について定義づけられていないと気が済まないかね?」

「色々気になるお年頃なものですから。ちょっと理由が欲しかったり定義が欲しかったりするのですよ」

「違いない」


 つんけんしたフリアの態度を、メルクマールは軽く笑いながら受け流してしまう。

 いなされていることにいら立ちが募るのを感じながら、フリアは己の失策を呪うばかり。

 フリアの正体を一発で見抜いた理由を詳しく教えてもらうためとはいえ、軽率にこの男と二人きりになるのではなかった。

 メルクマールの手が、フリアの髪をさらりとなでた。

 反射的にフリアが目をすがめる。


「器量も良い。将来、さぞかし美しくなるだろう」


 人を美術品みたいに言ってくれる。

 今日、見世物にした竜のように宝石やきらびやかな装飾品で飾らせて、鑑賞するつもりか。

 そう内心で悪態をつきながら、フリアは言葉だけの謝辞を述べる。


「ありがとうございます」

「あるいは、君の一族たちはみな、そうなのかね?」


 優男の印象からは想像もつかない、鍛えられた固いメルクマールの手が、すり、とフリアの頬を滑る。


「……っ」


 肉厚なメルクマールの手が頬を柔らかくなぞる不快さに、身を強張らせる。

 メルクマールの手つきは、愛玩動物でも愛でるような優しいものでありながら、ひどく無機質なものだった。

 頬をう冷たい手に、フリアの皮膚が粟立つ。

 いやだ。

 父様や母様と違って安心する大きな手の平じゃない。

 クィーやトーリみたいに、温かくない。

 ぎゅっと目を閉じ、耳飾りごとフリアの耳たぶを触るメルクマールの手の感触に耐える。

 そこへ。


「フリア!」


 派手に扉が開かれる音と共に、トーリが部屋に飛び込んできた。







「フリア! ……って、あっ」


 扉を開くなり見えた光景に、トーリは口をとっさに口をつぐんでいた。

 部屋の奥、窓際にいるメルクマールが、向かいに立つフリアの頬に手を伸ばしている。

 空気が読めないとか鈍感とか言われるトーリでも、出くわしてはいけない場面にやって来たことぐらい用意に理解できた。


「え!? あ! なんか、じゃ、邪魔しちゃったみたいだから——」

「トーリ!」


 甲高い制止の声。

 とっさに、トーリはきびすを返そうとした足を止めると、ゆっくりとフリアを振り返った。

 視線の先、心細そうに揺れるパールグレイの瞳とぶつかる。


「フリア……?」

「あ……っ、ごめんなさい。そう、じゃなくて……わたし」

「大丈夫だよ、トーリ君。もう話は終わったところだから」


 メルクマールがそう言ったところで、トーリはためらいがちにフリアに近づいた。ぐるりと横長のテーブルを迂回する。

 フリアもまた、トーリの方に近づいて来た。その足取りはどこか力ない。

 目の前にやって来たフリアが、無言でトーリのジャケットの裾をつまんだ。


「どうだったかね? 竜はしゃべったかい」

「……その」


 メルクマールの質問に、反射的に言いよどむ。

 まさかフリアが危ないと言われてここに来たと言えるわけもない。

 答えられない代わりに、トーリは自身の手のひらをフリアに重ねた。首を横に振る。


「……いいえ、何も」

「それでは、やはり〈竜の民〉ではないということを認めるのかね」

「ちが――!」


 言いかけて、証明する手立てがないことに気づいてトーリは口を閉ざした。

 そもそも、メルクマールはトーリが〈竜の民〉であることを認めてくれていたのではなかったのだろうか。

 それとも、あれは芝居か。嘘か。もう、今となっては、メルクマールの心理がまるでわからない。


「とはいえ、君にも言いたいことがあるだろう。良かったら、ここに泊まっていったらどうかね? 部屋は空いている。私も君たちともう少しゆっくり話したいのでね」


 トーリはすばやく返した。


「すみません。もう今日の宿屋は取っちゃってるので」

「そうか。それは残念だ」


 意外にもメルクマールは食い下がってこなかった。

 そのことに軽く安堵しつつ、トーリは、失礼します、とフリアの手を引いて部屋から出ようとする。


「ああ、そうだ、フリア君」


 メルクマールの引き留める声に、トーリは足を止める。


「君はさっき、どうしてわたしのことを?と聞いたが、透明というのは、光を含めたある波長を吸収、散乱しない物質が持つ特性なんだよ」


 同じく立ち止まったフリアが怪訝そうな顔をする。意図をつかみかねたらしい。

 メルクマールは、すうっとフリアの胸元、透明なガラスのペンダントを指さして続けた。


「だが、物質と波長との間に一切の相互作用が起こらない物質というのも、そうあるものじゃないんだよ――特にエーテル波さえ散乱しない石はとても希少だ。?」


 パールグレイの瞳が、驚愕に見開かれた。


「あえて言うなら、決定打はそれだね。では、引き留めて悪かった」

「……それも肝に銘じます。というか、それがわかるあなたは一体――!」

「失礼します、メルクマール様」


 割って入ったのは、落ち着いた女性の声。

 三人そろって、部屋の入り口を見やれば、清楚な黒い服に白いエプロン姿の女性が礼儀正しく腰を折っていた。頭にはいかにも使用人らしい白い三角巾。


「そろそろお時間が」

「ああ、すまないね。それでは、私もこれで。……彼らを玄関まで送っていってやってくれ」

「承知いたしました」

「待ってください! 話はまだ!」

「フリアっ」


 トーリがフリアの肩をつかんで制する。

 もどかしさのままうつむいたフリアが、下唇を噛むのがわかった。

 先に歩き出したメルクマールが退室する直前、軽く片目をつぶってみせる。


「また、何か聞きたいことがあれば、いつでも訪ねてきてくれたまえ。歓迎するよ」


 そういたずらっぽくほほ笑むメルクマールの言葉には、心からの親しみが込められていた。

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