四章6 『ノゾムの父』

 全ての景色が消えさり、目の前には異質な世界が新たに現れた。宙をどす黒く染まった霧が漂い、視野のほとんどを閉ざしている。辺りのほとんどを黒い霧が覆っていたが、前方だけが大きく開けていた。そこには連なる山々が競うように高くそびえ、その一つに巨大な骸骨が腰かけていた。

 骸骨は豪奢な衣装に身を包み、真っ黒な煤がこびりついたような王冠を被っていた。輝きは全く無く、しかしなぜか目が引きつけられる。それには何か生ある命を誘惑するような、歪な魅力があった。


『ようこそ、我が娘よ』

 骸骨は歯をかちかちと鳴らし、口を開閉している。当然、空気を震わせるような声は出ていない。しかしノゾムの頭の中には、老父のしわがれ声が口の動きに合わせて響いた。

 すぐに反論しようとしたが、そのための言葉が出ない。


 ノゾムの胸の中に愛といる時とは少し違った、安らかな感情が生まれていた。まるで柔らかな春の日差しの中で、原っぱに大の字で寝転がるような。懐かしくて、温かな気持ち。

 彼女の肩から力が抜け、警戒心が揺らいでいく。

 無意識の内に、ぽつりと一つの言葉が漏れた。

「……お父さん」


 頭蓋骨は表情を作ることができない。しかしノゾムには、骸骨が優しい微笑みを浮かべたのが分かった。

『ああ、そうだとも。我こそが、お前の父親だとも』

「お父さん……、お父さん!」

 ノゾムは涙を宙に舞わせ、骸骨の足に縋りついた。骸骨の骨は大理石の柱のように冷たく、固い。しかし彼女はそれを気にした様子は無く、頬までこすりつけていた。羽毛布団にくるまれたような安心感が、彼女の表情に浮かぶ。骸骨は後頭部を掻くような動作をして、口を開閉させた。


『ははは、恥ずかしいではないか。……今まで一人にして悪かったな、ノゾム。いや、ブラッディ・ムーン』

「ブラッディ・ムーン。それが私の本当の名前なんですね、お父さん」

『そうだとも。……我は親として、最悪の愚行を犯してしまった。自分の娘を敵地にスパイとして送り出すなど……』


 消沈する骸骨の末節骨をノゾムは優しく撫で、慈愛に満ちた声で慰めた。

「いえ、いいえ、お父さん。あなたは悪くないです。お連邦のために選択したあなたの行動を誰が責めることができるでしょうか!」

『……うっ、うう。お前の心遣い、感謝する』


 骸骨は涙をぬぐうように目元を拳でぬぐい、その際に肘で山を一つ打ち砕いた。

『ブラッディよ。お前をここに呼んだのは、真実を伝えるためだ』

「真実……、ですか?」

『そうだ。実はお前をスパイとして潜入させた際に、夢月ノゾムとしての偽の記憶を植え付けたのだ』


 すぐにノゾムは、その言葉の意味を理解した。

「それじゃあ、私が意識を失った時に現れていたもう一つの私が……」

『本当のお前、ということだが……』

 骸骨の物言いは、歯に物が挟まったようなものだった。

「ではお父様、すぐに私を元の私に戻してください。あなたの悲願を果たすためにも、私の本当の力が必要なのでしょう?」


 ノゾムは迷いなく、決意に満ちた目で骸骨を見上げて言った。しかし骸骨は押し黙り、何かを考え込むように、額に手を当てた。

「どうしたのですか、お父さん。世界の全てを壊す、それがあなたの悲願なのでしょう?」

 急かすように問うノゾム。その声にはどこか焦りがあったが骸骨はそれに気付かず、躊躇いがちに彼女に訊ねた。


『……ブラッディは、それでいいのか?』

 骸骨は額に拳を当て、苦い思いを吐き出した。

『世界を壊す、確かに我はそれをずっと夢見続けてきた。だが、もうその必要がなくなってしまったのだ』

「……どういうことでしょうか?」


『人々が、自らの手で我々の役割を奪ってしまったからだ。戦争、経済制圧、貧困問題。お前のいる日ノ本之国という小さな島国でも、我等を遥かに凌ぐ悪に満ちている。労働者を苦しめるブラック企業、国民をいたぶる国会、子供達の間でさえ、死に追い詰めるようないじめの問題があるではないか。これ以上、我等の手で何をどう破壊しようというのだ? 悪役が世界を支配する時代は、とうの昔に終わったのだ。フィクションの世界がもうフィクションでは無くなった、ということだ……』

 骸骨の声には魔王としての威厳は無く、ただ社会の凄惨さを嘆く一人の老人の悲しさだけがあった。


 だがノゾムは毅然とした声で言い切った。

「ですから、我々が立ち上がらなければならないのです」

 彼女の言葉に骸骨はがちりと音を立てて首を傾げた。

『お前の言っている意味が、よくわからぬのだが……』

「世界には今、我々以上の悪に満ちているというのでしょう? なら、その悪を討たなきゃですよ」


 骸骨は顎が落ちるのではというぐらいに口を開き、彼女をまじまじと見た。

『一応、言っておくが……。我々は悪役だぞ?』

「何を言ってるんですか、お父さん。そんな開発者ごときが決めた設定に縛られちゃ、魔王の名前が泣いちゃいますよ?」

 早口で捲し立てるノゾム。

『う、ううむ……?』

 骸骨は自身がゲームのキャラクターであるということは知らない。だがそんなことに構わず、ノゾムは話を続ける。


「お父さんはお父さんが正しいと思ったから、世界を支配しようと思った。だけど今はそれが正しくないと思うんでしょ? 世界の悲惨さが許せないんでしょ? だったら、今度は世界を救っちゃえばいいんですよ!」

『だ、だがだな……。今まで悪逆の限りを尽くしてきた我々が、急に人々のために行動を起こすなど、許されるはずが……』

「お父さんには、誰かの許しが必要なんですか?」

『い、いや……。でも部下達が賛同しないであろう?』

 うわあ、一国の王って面倒臭いですねとノゾムは頭を掻いた。


「だったら、手始めに私が魔の連邦の代表として行ってきます」

『……は?』

「私だったら何をしても連邦に影響は無いですし、賛同されても反対されても関係ありません」

『いや、あるだろう。お前は王の娘なのだぞ』

「いいんですよ。もしも民に問い詰められたら、私を処刑しても構いません」

 それを聞いた骸骨は山の一つを叩きつぶし、大地を揺らすような声量で怒鳴った。

『自分の娘を殺せる親がいるかああああああっ!』

 ノゾムは耳を押さえ、しかし幸せそうな顔で骸骨の叱りを受けた。


「……ありがとう、お父さん。あなたは世界で一番、素敵なお父さんです」

『お、おお……? ブラッディこそ、我の自慢の娘ぞ』

 骸骨はこそばゆそうに鼻を掻き、ぼそぼそした声で返した。

「お父さん。自慢の娘を信じて、私を目覚めさせてください。本当の私を解き放ってください。今、その力が必要なんです」

 彼女の真摯な頼みに、骸骨はとうとう頷いた。

『……分かった。内に眠るお前を呼び起こそう。しかしそうなると、今のお前のままではいられなくなるかもしれん。元のお前の恐ろしさは分かっているだろう?』


 最後の脅しもノゾムは屈託のない笑みで答えた。

「大丈夫です」

 骸骨は手の平の上に紅い炎を浮かべた。その揺らめきを眺め、彼は寂し気に独り言ちた。


『我はブラッディに、偽の記憶……人格を植え付けた。しかしそれは結果的に、もう一人のお前を生み出す結果になった。我はもうお前を偽者だと思うことはできんのだ』

「悲しむことは無いですよ、お父さん。私は決して死ぬわけじゃありません」

 炎は激しさを増していき、そこから飛び散った火の粉が雨粒のように、絶え間なく地面に落ちていく。火の粉が落ちた個所は紅く染まり、やがてそれは魔法陣を形作っていった。


『ブラッディ……、ノゾムよ。魔法陣の中央に立てば、お前の記憶は蘇り、元の世界に帰ることができる。……だがここに残りたいのなら、その願いをかなえてやることもできるぞ』

「いいえ、お父さん」

 ノゾムの表情には今までの優し気な笑みは無く、戦に赴く戦士の顔つきになっていた。

「私は行かなければならないんです。この先に、大切な人がいるから。……あっ」


 慌てて口を押えるノゾム。しかし彼女の不安をよそに、骸骨はその失言に微笑を零した。

『……それが本心、か』

 骸骨はノゾムの姿に亡くした妻の姿を見た。ノゾムは知らないが彼の妻もまた、凛とした人間の少女だった。

『お前にとって、それはとても大切なことなのだな』


 ノゾムは父の言葉に、照れたように笑った。

「大切な人の傍で共に生き、戦い、死ぬ。それが武士というものですから。……もう一人の私には負けませんよ」

 彼女は骸骨に背を向け、魔法陣の中央へと歩を進める。途中で一度振り返り、眩しい笑顔で何かを呟いた。そしてそれを最後に、足を止めずに真っ直ぐ魔法陣の中央に向かい、そこに到達した瞬間。


 魔法陣の紅い線が一際強く輝き、徐々に波のように、ついには光の柱となって天を貫いた。

 それが途絶えると後には何も残らず、最初から無人だったような空間がそこにあった。

『……素敵な名前をありがとう、か』

 それがブラッディ・ムーンのことなのか、夢月ノゾムなのか彼には分からなかったが。ただ、その言葉が無性に嬉しかったのだった。




「ノゾム先輩……、先輩!」

 急に気を失ったノゾムの肩をナルミは何度も揺すっていた。

 クルミも傍で彼女のことを心配そうに様子を窺っていた。


「……ナルミお姉様。あなたは今なら、簡単にノゾムお姉様を倒すことができるのに、なさらないんですね」

「当然だよ。そんなの、卑怯者がすることだもん。……それに、ノゾム先輩なら絶対にそんなことはしない!」

「……ええ、そうですわね」


 自分だってそう思っているから、手出しをしないのだとクルミは内心で苦笑した。

 じっとノゾムの顔を眺めていると、僅かに瞼が震え始めているのが分かった。小さなうめき声も聞こえてくる。ナルミとクルミの顔はぱっと晴れ、顔を合わせた。

 ノゾムは薄っすらと目を開けて、二人の顔を見た。

 そして小さく、けれどはっきりとした声で、彼女達に訊いた。

「……果たして、そうでしょうか?」

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