第5話

 この界隈を覆う闇や街灯の明かりが作り出す諸々の影が、粘性を有するコールタールのように思えた。それほどまでに意識は酩酊状態に逆戻りしたのかもしれない。とはいえ、窮地に陥っていることは理解していた。

 かなえの詠唱が続く中、徹は何度も目を見開き、頭を横に振った。意識だけでなく全身を覚醒させるべく、感覚を戻しつつある部位――肩や両手の指などを意図して動かしてみる。

 詠唱の声がやや大きくなった。そしてほんの束の間、かなえは川和田を横目で見た。

 どうやらそれが呪文のクライマックスだったらしい。かなえは口を閉ざし、静寂が訪れた。

「かなえちゃんよ、最後の部分なだけど、おかしくねーか?」川和田がかなえを見た。「いつもなら供物を見つめるところだよな……どうしておれに目を向けたんだ?」

「そうだった?」

 かなえは首を傾げた。

「そういえば、うちの店にいたときから何か様子がおかしかったな。やけに竹中をかばっていたし」

 表情を変えずに川和田は言い募った。

「気のせいよ。いつもと何も変わらないわ」

 かなえも表情を変えなかった。

 周囲に沈殿する影が、濃厚さを増した。そんな気がして、徹は辺りに目を配った。

 確かに動きはあった。左右のブロック塀の下部で、黒い何かが蠢いている。

「ほら、来たわよ」かなえは闇に目を走らせながら言うと、川和田に視線を戻した。「じっとしていないと、神の使いを刺激しちゃう」

「刺激したからって、どうってことないだろう」

 やけを起こしたらしく、川和田は声を荒らげた。

「最初のときに言ったはずよ。儀式の間に余計なことをすると、神の使いは帰ってしまうか、供物ではなく気に入らない人間を代わりに連れていってしまう」

「神の使いごときがおれをどうするって?」川和田はよりいっそう声を荒らげるが、ふと、真顔を取り戻した。「そうだな……これまでの供物みたいにされたら、終わりだよな」

「ええ、そのとおりよ」

 静かにそう返したかなえが、徹を横目で一瞥し、祠に顔を向けた。

 川和田も祠に正面を向ける。

 左右のブロック塀の下部で蠢く黒い何かが、同時に素早く奥へと退いた。そしてそれぞれが祠の正面で融合し、祠を背にして二メートルほどの高さに伸び上がった。

 徹から見て右斜め前の川和田が右に半歩ほど立ち位置をずらすと、左斜め前のかなえが左へ同じように立ち位置をずらした。今や、祠の手前に立つ異形と徹とを遮るものは皆無である。

 伸び上がった黒い何かが、わずかに縮んでだるまのような形状になった。それでも川和田と同程度のサイズだろう。

 下水のにおいが強くなった。正面の異形から漂っているように思えた。

 黒い何かの上部に二本の突起物が現れた。先端に三本の指のようなものを備えたそれらは、どう見ても腕である。

 黒い右腕が正面に伸び、手のひらをアスファルトにつけ、その腕が縮むことによって体全体を引っ張り、前進させた。右腕はすぐに体に吸収されてしまうが、続いて左腕が正面に伸び、右腕と同じ働きを遂行した。体が前進し、左腕も吸収されてしまうが、次の左右の腕が上部に現れ、同じ働きをして体を前進させる。腕は吸収されては現れ、これを繰り返してこちらへと近づいてきた。

 川和田とかなえがさらに間隔を開けた。

 悪臭が際立つ。

 目を逸らすことができず、徹は息を吞んだ。

 それには頭らしき部位があった。目や鼻、耳は見当たらないが、板状の歯が、大きく裂けた口に――否、口の中のみならず、口の周囲にも無数に並んでいる。それが徹の正面に迫った。

 その直後の意表を突く動きは、徹の予想したとおりだった。とはいえ、自分の置かれた状況に恐怖する様を呈したのは、演技ではない。こんな怪物を目の当たりにすれば、演技する必要さえないだろう。

 黒い何かは徹の目の前で素早く進行方向を変えた。向かって右に走ったそれは、腕のよな突起物を吸収して移動を止めると、無数の指を有する巨大な手のひらを左右に生成した。

 川和田は驚愕の表情を見せるが、逃げ出すことはできなかった。それほどまでに化け物の動きは素早かった。

 漆黒の巨大な二つの手が川和田を左右からつかんだ。彼の首から下は巨大な二つの手に覆われてしまう。

「どういうことだ」

 川和田がかなえに顔を向けて声を上げた。

 しかしかなえは答えず、もがく男をただじっと見つめる。

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