第4話

 散歩の途中で疲れ果て、同行した父に背負われたまま家路についた夕刻――あれはどれほど昔なのだろう。今も誰かの背中に負ぶさっているが、あの日と異なるのは、夕刻ではなく夜ということだ。しかも、別の誰かがこの自分の背中を二つの手で後ろから支えている。

 街灯の光をまぶしく感じた。とはいえ、その光に照らされた一角を過ぎると、重く沈んだ闇だ。

 自分はどこかに運ばれているらしい。

 下水のにおいが鼻腔を犯していた。

 意識の覚醒が進むと、この背中が誰のものか、理解することができた。

「川和田か」

 徹が開ききらない口で言葉を紡ぐと、背中の主が歩きながらため息をついた。

「なんだ、もう目を覚ましちまったのか?」

 紛れもなく川和田の声だ。

「どこへ連れていくんだ?」

 そう問うたのは、拒否の意思表示でもあった。だが、手足の動きがままならない。なんとか動かせるのは、目と口だけだ。

「心配するな。もう着くよ」

 背中の主が答えた。

 その言葉どおり、ほどなくして背中の主が立ち止まった。

 徹の背中を支えていた手が、徹の両脇に回された。そしてその二つの手に支えられて、徹は地面にゆっくりとへたり込む。手足の自由は利かないが、あぐらをかいた姿勢で上体を維持することはできた。力なくたれ落ちた両手が、アスファルトの感触を覚える。

 見覚えのない路地だった。徹はその路地の突き当たりに正面を向けていた。

「意識があるというのは、ちょっとかわいそうかもな」

 斜め前に立つ男――川和田が徹を見下ろしながら不敵な笑みを浮かべた。

「何がかわいそうなんだよ?」

 意識は鮮明さを取り戻しつつあるが、口はまだ大きく開けられなかった。

「ねえ、本当にやるの?」

 川和田の横に立つかなえが、徹を一瞥して川和田に問うた。彼女も川和田と同様に手ぶらだった。ハンドバッグは見当たらない。

「今の横丁の状況を知っているだろう。やらないでどうする?」

 渋い表情で川和田は答えた。

「いい結果が出たのは、たった一度……あのときだけだったもの」

「だからって、何もしないわけにはいかないさ」

「常連客に臨時休業だなんて電話までして……どうかしているわ」

「かなえちゃんからそんな言葉を浴びせられるとは思わなかったな」

「きっと今回もご利益なんてないわ。あたし、知らないからね。それに、また人がいなくなった、なんて警察の事情聴取も、もうこりごりよ」

 そんな受け答えを耳にしつつ、徹は目を凝らした。

 街灯のものと思われる背後からの明かりが、正面の暗がりをわずかに照らしていた。七、八メートルほど先の突き当たりに、小さな祠がある。横丁の中程から横に延びる路地の突き当たりに「ダイコク横丁という名の由来となった祠」が鎮座していることは、徹だけでなく、この界隈の住人なら知っていて当然だ。おそらく目の前にある祠がそうなのだろう。

 祠の高さは五、六十センチ程度だ。本体は木製であり、切妻屋根は贅沢にも瓦葺きである。商店街などでよく見かける祠と同じような風情だが、赤いのぼりは立っていない。正面の格子状の観音扉は、ぴたりと閉じてあった。

 口や首回りの感覚が戻りつつあった。徹はゆっくりと首を後方に巡らせた。まだ胴体の感覚が鈍いため顔は真横にしか向けられないが、目の移動でそのぶんを補う。

 路地の左右はブロック塀であり、鳥居などは見当たらず、至って殺風景だった。そんな路地は二十メートルほど後方で右に折れ曲がっている。ゆえに横丁の様子は窺えない。

「口が利けても大声は出せなさそうだし、手足も動かせないんだから、薬の効き目が切れないうちに済ませてしまおう」

 川和田の言葉を耳にし、徹は正面に視線を戻した。

「わかったわよ」

 不承不承とした調子でかなえは答えた。

 儀式が始まるのだ。徹がそれを知っていることを、川和田は知らないはずだ。

 かなえは徹や川和田から間合いを取り、正面を祠に向けた。徹の左斜め前に立つ彼女は、その表情の一部だけをあらわにしている。

 囁くような声が流れた。かなえの声だ。しかしそれは日本語でも英語でもなかった。むしろ地球上のどの土地にもあってはならぬ言語にさえ思えた。不浄なる言葉である。

 街の喧騒はここには届いていない。風はなく、不快なにおいが淀んでいた。川和田は黙したままかなえを見つめている。ときが止まったかのような一角だが、かなえが唱える未知の言葉だけが、時間の存在を立証していた。

 長く続く詠唱は、決して耳に心地よいしらべではなかった。とはいえ、覚醒しつつある意識をさらなるまどろみという暗黒に引きずり込む作用は、否定できなかった。

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