寝る犬様、「新・育児保険」

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 私が妻と出会ったのは三十を過ぎた頃だった。その三年後私たちは結婚し、さらに三年後子供が生まれる。

 待望の第一子が産まれたときには、涙が溢れて止まらなかったのを覚えている。その子供が来年には小学生になるというのだから、時間の経つのは早いものだ。


 そんな感傷に浸っていたある日、家のインターホンが鳴った。

 玄関の扉を開けると、黒尽くめの男が立っていた。


「ご契約いただいております『新・育児保険』の満了について、お知らせに参りました」

「新・育児保険だって?」


 そんなものを契約した覚えなど無かったが、男が鞄から取り出した書類には確かに私と妻の署名があり、印鑑も押されていた。

 第一子については契約者に負担がないため、保険を契約したまま気が付かない人が多いのだと男は笑った。


「喜ばしいことに、お子様はご健康そうですが、契約期間は小学校の入学手続き開始前までとなっておりますので、一応の確認に参らせていただきました」


男の言葉に私は横で聞いた妻と顔を見合わせる。説明を求める私たちに男は鞄はから数枚の書類を取り出す。そこには愛する我が子の写真が挟まっていた。


「こちらが保険用のお子様でございます。厳しくしつけ英才教育を施しておりますので、いつご両親の元に呼ばれましても、必ず満足していただけるお子様に育成出来たと自負しております」


 妻の妊娠が判明した際、病院の手続きと同時にこの「育児保険」は契約された。そして、検査の際に我が子の細胞は別の場所で培養され、私達の育てる子供とわずか数週間の差で別の場所でも育てられていた。

 そう、クローンだ。

 当初は不慮の事故があった際の「保険」として育てられていたクローンだが、今では幼児期の可愛い盛りに甘やかすだけ甘やかし、小学校以降は厳しくしつけ教育されたクローンと交換する親も多いという。

 今は幼稚園のお泊り保育へ行っている我が子の姿を思い浮かべ、私は怒りの籠った目で男を見た。


「愛情を持ってお子様を育てられて来たたご両親のお怒りになる気持ちも分かります。だからこその意思確認なのです」


 男は私の怒りを躱すように、書類をめくる。

 身体測定、運動力テスト、学力テスト、知能テスト。今まで受けてきた多種多様な能力検査の結果用紙。平均値と比べられるようにグラフ化されたそれは、どの数値も高い。比べるまでもなく実際に育てて来たわが子より数段優れている事は明白だった。


「もちろん交換なされた際には、今までお子様を育てていた時の記憶は責任を持って移植させていただきます。親子の情が変わることもございません」


 我慢ならない。親子の情を何だと思っているんだ。男を追い返そうと振り上げた私の腕が、妻に抑えられる。

 信じられない気持ちで妻を見る私に向かって、男が念を押すように静かに告げた。


「わたくしどもと致しましては、お客様の選択を最優先としています」

「まだ期限には時間があるだろ」

「ええ、ですが期日が迫っていることをお忘れなく」


 男はその言葉と書類を残し帰っていった。


 今まで育ててきた子供と全く同じ容姿であり、性格も温厚で知能も高く、身体能力も高い別の子供。入れ替わるなどとは考えず、私たちはただ「子供の能力が急に上がった」とだけ考えればいいのではないか。

 子供の能力を飛躍的に上げる最後のチャンス。子供の幸せを考える親ならば、情にほだされず、正しい選択をしなければならない。


書類を前に私たちは無言で固まってしまった。しかし、期日までに私たちは選択しなければならない。


 数日後、帰ってきた子を妻が抱きしめる。私はその二人を一緒に抱きしめた。

頭の中に書類を取りに来た男の言った言葉が響く。


「こちらで間違いありませんね? はい。きっとご自分たちの選択に満足いただけますよ」


腕の中で笑顔で見上げる子へ笑みを返す。

その顔を見つめながら、私の選択は間違っていなかったのだろうか、と何度も自問していた。

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